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四十四夜 魯坊丸、謀略を巡らす〔加納口の戦い(四)尾張編〕

〔天文十六年 (一五四七年)九月十八日夕方〕

中根南城の評定の上座に俺が座り、その横に、義理兄上の忠貞(たださだ)が座り、俺の後ろに福と定季が控え、両脇に城代、中根北城の村上小善、中根中城の村上弥右衛門などの家臣が並び、下手に村長と大喜五郎丸が控えていた。

俺の考えを述べると、それを福が通訳する。


「や、と、う、ばぁ。い、ま、が、わ、よ、し、も、と、の、よ、う、ど、う、だ」(野盗は今川義元の陽動だ)

「魯坊丸様は、野盗が今川義元の陽動だとおっしゃっております」

「さ、ん、じ、ゆ、う、と、い、う、か、ず、も、ぎ、そ、う、だ」(三十人という数も偽装だ)

「確認された野盗の数は三十人とされていますが、魯坊丸様はそれ以上の野盗が入り込んでいると推測されております」

「か、く、ま、つ、て、い、る、も、の、が、い、る」(匿っている者がいる)

「匿っている者がいるそうです」


ここで皆が慌てはじめた。

おそらく、尾張が混乱した状況で一斉に暴れ出して東尾張を混乱させるのが目的と思われる。

そう考えると、尾張の西で騒ぎが起きていないことに納得できる。

できる限り、東尾張へ注意を削ぎたい。

そんな意図が見え隠れする。

もちろん、証拠はない。

この際、それはどうでもいいのだ。

匿っているのは神社か、寺だろう。

寺はある意味で独立した武装集団であり、ここと敵対するとなると大事になる。

だが、定季が声を上げて皆を鎮めた。


「寺が今川方に与していないならば、魯坊丸様は事を荒立てるつもりはない。だが、今川方と思われる者を匿い続けるならば、その限りではない」

「ね、だ、や、し、に、す、る」(根絶やしにする)


俺としては警告すると言うつもりだったが、定季に否定された。

寺の僧は自尊心が強く、かなり強めに『根絶やしにする』とでも言わなければ、こちらの言い分を無視されると言われた。

今は時間がないので、定季の意見を採用することにした。


「魯坊丸様もこうおっしゃっておられる。熱田明神と敵対するという寺を存続させる意味があるか」

「意義なし」

「今川に与する者らは我らの敵だ」

「賛同致します」

「熱田明神様に従わぬ者は排除するべし」

「そうだ」


さらに、定季が皆を焚き付けた。

家臣共々、熱狂的な村長らも賛同してくれた。

これで決定だ。

周辺の神社・仏閣に使者を出し、明日までに怪しい者を匿っている者を駆逐するとした。

忠貞が使者を撰び、明日中に放逐しない神社・仏閣は取り潰すと命じた。

同時に放逐された野盗らを逃さない為に、笠寺の山口宗家、鳴海の山口家、島田の牧家、平針の新屋敷家、梅森北の松平家、下社の柴田家にも協力を願う。

定季が必要以上に「まさか、取り逃すようなヘマがしないでしょうな」と復唱して使者に念を押させることを強要した。

定季の予想で、八事に留まる理由は一つだという。

西に逃亡しないのは、こちらの方に逃亡ルートが確保できているからだ。

つまり、このいずれかの家に裏切り者がいるという。

俺も同じ意見だ。

他に野盗らが八事に留まる理由がない。

だが、それは放置だ。

野盗を天白川より東に逃さねばいいだけだ。


「ご、ろ、う、ま、る。て、つ、ぽぉ、う、を。な、ん、ち、よ、う、ぼぉ、じ、し、て、い、るか?」(五郎丸。鉄砲を何丁保持しているか?)

「十丁ほど」

「か、し、て、く、れ」(貸してくれ)

「すぐに届けさせます」

「さ、の、す、け、も、か、り、た、い」(作之助も借りたい)

「お好きなように」

「い、と、だ。た、ご。ど、う、い、ん、し、た、い」(井戸田、田子を動員したい)

「無茶を申されますな」

「だ、め、か?」(駄目か?)

「魯坊丸様の御望みのままに」


よし、言質は取った。

村の防衛を最小に留め、女・子供も動員して水増しする。

熱田領の高田城や佐久間家にも動員を頼もう。

こちらは当てにしない。

西の山崎川沿いの塩付街道を北上させ、飯田街道で曲がって平針に向かわせる。

明日の夕刻から松明に火を付け、一千人から二千人の大軍が山の両岸に広がって行軍してもらう。

先発隊は兵士だが、後続は一般人でしかない。

只の数合わせ、夜のピクニックであり、八事で握り飯でも食べてもらったら村に帰すという予定を立てた。

数合わせであっても、松明の数に驚くだろう。

野盗を匿っている者らも織田家の本気を知って慌てるだろう。

中根と八事から総動員した兵で南から押し上げる。


「あ、に、う、え、に。さ、の、す、け、を、つ、け、ま、す」(義理兄上に作之助をつけます)

「作之助とは、鍛冶師であろう?」

「か、れ、ら、は、て、つ、ぽ、う、が、う、て、ま、す」(彼らは鉄砲が撃てます)

「そういうことか」


作之助ら鉄砲鍛冶師は、鉄砲になれる為に鉄砲を撃つ練習もしている。

しかも工事の為に、三百人近くの作業員が常駐している。

筋肉モリモリのマッチョとまではいかないが、肉体労働で体を鍛え、誰かが襲ってきた場合に備え、武具を取りそろえていた。

三百人近い遊軍を遊ばせるのは勿体ない。


「し、き、ばぁ。さ、だ、す、え、が、と、れ」(指揮は定季がとれ)

「畏まりました」

「ばぁ、く、ち、く、を、ゆ、る、す」(爆竹を許す)

「敵の度肝を抜いてみせましょう」


爆竹というのは、火薬を詰めた玩具だ。

夏の娯楽に線香花火と爆竹を作らせたのだが、定季が戦でも使えそうとかいうので余分に作らせておいた。

紙の筒に火薬を詰めただけの簡単なもので、作之助が火薬の配合の練習になるとか言っていた。

単なる虚仮威(こけおど)しだが、作之助に預けた二丁の鉄砲、五郎丸から借りる十丁、武士の弓と投石を同時に行えば、敵を混乱させるくらいに役立つ。

我が中根勢は天白川を先行して、出てきた敵が川を渡るのを防ぎ、後は北へ追いやって地獄谷 (人間地獄)へと追い立てるのだ。

立案する俺は楽なものだが、実行する定季は大変だろう。

予備兵力は一切止めおかない。

一発勝負だ。


「ご、ろ、う、ま、る、に、ばぁ。も、う、びぃ、と、つ、た、の、み、が、あ、る」(五郎丸には、もう一つたのみがある)

「何でもございますか」

「す、え、た、だ、を、せ、つ、と、く、し、の、ぶぅ、な、が、あ、に、う、え、に、し、ら、せ、て、ほ、し、い」(季忠を説得し、信長兄上に知らせてほしい)

「承知しました」


こっちが本命だ。

今川方が海から襲来する可能性、味方から裏切りがでる可能性を信長兄上に知らせる。

可能性であって証拠はない。

その可能性を潰す為に兵を集める。

加えて親父に撤退する振りをして、追撃に出てきた斉藤勢を叩いてから兵を引く策を伝えてもらう。

巧く嵌まれば、互角の戦いで織田勢は美濃から悠々と引き上げてくることができる。

この策を考えたのは定季ということにする。

謀反を防止する為、野盗討伐に使った兵を那古野城に向かわせるのだ。

これが本来の目的だ。

兵は烏合の衆だが、那古野に兵が集まっていれば謀反者も実行できまい。

野盗らを利用する。

つまり、野盗討伐など、行きかけの駄賃(だちん)だ。

定季も呆れてくれたので成功すると思う。

さぁ、はじめようか。

魯坊丸日記 第四十四話 「加納口の戦い(四)」の裏舞台



井戸田、田子の動員数が多すぎると思われますが、女・子供・老人を動員した水増しです。

村をまったくの空にはできませんが、松明と槍に似せた竹を持つ程度はできるでしょう。

ホント、烏合の衆ですから、戦わせるとか無理だったりします。

先頭の男衆が抜かれたら何もできないでしょう。

でも、松明が道とその両岸に長蛇の列をなして近付くと不気味でしょうね。


挿絵(By みてみん)


『信長公記』によると、

九月二十二日夕刻に織田方は加納口から撤退し、兵が半分ほど引いたところで反撃に転じて織田方は瓦解したとある。

信秀の弟織田信康や信長の家老青山信昌、織田因幡守、千秋季光、毛利敦元、寺沢又八弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎

など5千人が討ち死にした。

『美濃国諸旧記』には、天文16年8月15日(1547年9月28日)にも大桑城に籠もる頼芸・頼純に蜂起させて、朝倉・織田連合軍で支援しようとしたが、道三が先手を打って大桑城を1万3千の兵で強襲して攻め落とした。頼純は打って出て討ち死にし、頼芸は朝倉を頼って一乗谷に逃れたという。

頼芸が朝倉を頼るとか、意味がわからない。

原文をみたことがないので、いずれは検証したと思っている。


水野に当てた手紙には、朝倉・織田を合わせると二万五千人から二万六千人が押し寄せたと書かれている。斉藤方は五百人から六百人を討ち取り、二千人から三千人が木曽川で溺れ死んだとある。


古渡城は織田信秀が美濃に出陣している隙をついて、清須の織田信友の家臣であり又代であった坂井大善に攻撃を受けます。

平城でありましたが、台地が天然の防壁となっていたのでしょうか?

結局、この戦いで城下町と三ノ丸を焼失しましたが清須勢の攻勢に耐えたとあります。


【天白区周辺に、当時存在した寺や神社】

大聖寺(大学院):真言宗。創建不詳。前身は鎌倉期に開創された真言密教の古刹。大学院は文字どおり徹頭徹尾学問修業の寺であり、祈願の寺である。京都の醍醐寺末で、中世の頃八事に塔頭末寺数々寺をもつ大聖寺という古刹があり、現在の元八事の地に修行僧の教育にあたる寺子屋があったが、これが草創期の大学院の姿である。


佛地院:前身は明徳4年(1393)に開創された末寺十数ヶ寺をもつ真言宗の一本山であった。数度の火災のため荒廃したが、寛永元年(1624)二世物道和尚が復興改宗され、陶金山(佛地院と命名。十一世鶴峰和尚の代の大正7年現在地に移転し、音聞山佛地院と称するようになった。ご本尊は釈迦牟尼仏を祀っている。大正10年発刊の「東山名勝案内」によれば、「音聞山(現在の御幸山)の西南麓にあり、三方に碧地を控え、最も景勝を占める。」とある)


八事神社:創建は明らかではない。『尾張志』に”八幡社は八事村音聞山のふもとにあり、神功皇后、応神天皇、玉依姫三坐を祭る


全久寺:福田山と号し、文明3年(1471)将軍足利義政の命により、遠州横地城から植田城主となった横地秀綱が建立。飯田街道南側に建っていたが、天白川の洪水の被害から逃れるため、寛政4年(1792)頃現在の地に移された。


栄久寺:栄久寺は文明12年(1480)の創建で、当初は飯田街道(国道153号)より南側に位置していましたが、天白川の度重なる洪水に悩まされ、寛延3年(1750)に、現在地へ移転しています。


地蔵寺:島田地蔵尊は嘉吉二年(1442年)に福井県の大本山永平寺から樵山和尚が当地に来て「島田山広徳院」として建立した寺です。


秀伝寺:開創年代:1498年(明応2年) 開山:宗栄大和尚本尊:釈迦牟尼仏(1725年・享保10年制作) 1588年(文禄元年)には焼失し廃寺となっていました。


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