四十三夜 魯坊丸、敵の意図をみぬく 〔加納口の戦い(三)尾張編〕
〔天文十六年 (一五四七年)九月十八日〕
八事に現れた野盗の襲撃から数日が過ぎた。
野盗は春日井郡にも現れ、どうやら尾張は手薄と思われたようだ。
織田-信光叔父上の留守を任された守山城の城代が、春日井郡を束ねて美濃から侵入した野党らを追い払ったそうだ。
犬山や岩倉にも動員を掛けているが、親父が尾張の東側で美濃と接する犬山街道や木曽下街道を警戒しない訳がなかった。
つまり、親父は東美濃と今川に備えて西三河衆、東尾張衆、知多衆の動員を掛けていなかった。
八事に現れた野盗は、飯田街道を上って末森方面へ逃走した。
末森に近い佐久間家が知らせを聞いて臨戦態勢を整えたが、野盗らしき者は現れず、昨日、再び八事を夜陰に紛れて襲ってきた。
義理兄上(忠貞)の使いが状況を知らせてくれた。
「忠貞が駆け付けたときは、すでに野盗は逃亡しておりました」
「ぜ、ん、か、い、と、お、な、じ、か」(前回と同じか)
「被害は前回と同じなのかと魯坊丸様が尋ねておられます」
「そちらの方は問題ございません。はじめから手薄な村に我が中根家と島田の兵が常駐しておりましたから、問題なく撃退に成功しております」
「そ、う、か。そ、れ、な、ら、よ、い」(そうか、それならよい)
前回は村人から五人の犠牲者を出した。
飯田街道から末森方面に逃亡した以外の情報が手に入らなかった。
野盗がどこからきたかもわからない。
平針は、平針街道 (島田街道ともいう)は、岡崎まで続く街道であり、今川方に雇われた者がやってきた可能性が高い。
しかし、平針には飯田街道という三河の足助に繋がる道もあり、さらに鎌倉街道から鳥栖城を通って平針に抜ける脇道もある。
北側は塩付街道や下社城を南北に通る脇道も通っている。
熱田が交易の要なので、様々な街道が通っているのだ。
つまり、この辺りはどの方向から野盗がやってきてもおかしくないのだ。
先日の野盗はおおよそ三十人だった。
三十人以上で行動すれば、すぐに知れることになるだろうが、六人程度に分散して侵入し、どこかで合流されると見つけようもない。
しかも忍びがいるのか、あるいは忍び崩れの野盗なのか、逃げる時間を稼ぐ為に村の倉に火を放ったので甚大な被害を出した。
倉が燃えた村は、このまま今年の冬が越せるかも怪しい。
しかし、今年の冬より、まず野盗をどうにかせねばならない。
珍しく定季が首を捻っていた。
「な、に、か。き、に、な、る、こ、と、が、あ、る、の、か?」(何か、気になることがあるのか?)
「何故、八事に戻ってきたのかが不思議でなりません」
「さ、く、ま、の、つ、い、き、ゆ、う、が、き、び、し、か、つ、た」(佐久間の追求が厳しかった)
「それは間違いございませんが、佐久間家は相当数の兵を連れていっております。村人を動員してもしれております。無茶をしたという報告もありません」
「な、る、ほ、ど」(なるほど)
中根の北側は丘陵が広がっており、隠れるには最適な場所だ。
しかし、北側は下社の柴田家が控えており、東の備えとして兵をほとんど出していなかった。
当主の柴田-勝家は犬山城の後詰めに入って不在だが、庶長子の勝里が援軍五十人を連れて駆け付けてくれた。
少し遅れて、島田の牧家と鳴海の山口家の援軍に駆け付けた。
こちらも今川に備えて美濃出陣を控えた家であり、中根からの援軍を加えると二百人を越えた。
野盗からすれば、十分な脅威だった。
数日間の索敵を行ったが見つからず、どこかに四散して逃亡したと考えて解散となり、義理兄上も戻ってきていた。
但し、勝里の柴田勢のみ、八事の西にある表山麓の大聖寺に兵を止め、野盗の探索を続けているという。
定季の予想では、古渡と那古野を通過して、清須や土岐川(庄内川)付近で暴れると見立てていた。
東尾張には十分な戦力が残っており、野盗が暴れるなら手薄なところを襲うだろうと考えたのだ。
だが、野盗は末森を越えず、反転して八事に戻ってきた。
確かにおかしい。
丘陵の東と西を比べると佐久間家の西の方が手薄であり、西の塩付街道を抜けて北に逃げる手もあった。
まだ警戒を解いていない八事に戻ってくるのは悪手だ。
現に、残した中根と島田の兵が時間稼ぎをしている内に、柴田勢が駆け付けて撤退を余儀なくされた。
まるで東に注意を引き付けたいような動き…………そういうことか。
「さ、だ、す、え。す、え、だ、た、さ、ま、に、れ、ん、ら、く、を、い、れ、て。に、し、に、ち、ゆ、う、い、す、る、よ、う、に、か、ん、き、さ、せ、ろ」(定季、季忠に連絡を入れて、西に注意するように喚起させろ)
「魯坊丸様。西に注意とは?」
「と、だ。ふ、ね。い、ま、が、わ。あ、る、い、ばぁ、む、ほ、ん」(戸田。船。今川。あるいは謀反)
定季も今川義元の意図を察した。
実行しているのは今川義元だと思えるが、絵を描いたのは斎藤利政 (道三)のような気がする。
美濃で言いようにされていても、利政は稲葉山城に籠城して討って出ていない。
このままでは、『利政、頼りなし』と見放される。
一度くらいは城から討って出て、味方を救援する素振りくらい見せるべきだと、定季も言っていた。
親父も不気味だろう。
利政は尾張のどこから崩すつもりだ? 海から攻めてくるとしていつだ? 謀反ならどこだ?
思い出せ、誰が敵だ。
織田信長の敵になった清須の織田大和守家と岩倉の織田伊勢守家も兵を出しており、謀反をするにも兵がいない………いない筈だ。
野盗とちんたらと遊んでいる暇はない。
「さ、だ、す、え。や、ま、が、り、だ。む、ら、お、さ、を、あ、つ、め、よ」(定季、山狩りだ。村長をあつめよ)
「承知致しました」
「ぶぅぐ。ご、ろ、う、ま、る、を、よ、べぇ。い、つ、こ、く、を、あ、ら、そ、う」(福。五郎丸を呼べ。一刻を争う)
「畏まりました」
野盗騒ぎを一気に終わらせる。
確証は何もないが、織田家が負けた理由が見えてきた。
斉藤と今川が結託していたんだ。
魯坊丸日記 第四十三話 「加納口の戦い(三)」の裏舞台
熱田は交易町でしたので交通の要所となります。
東側の玄関は平針と鳴海でした。
この当たりの話はオリジナルとなります。
折角なので、魯坊丸を少しだけ活躍させようかな~とか?
それでいて小説版と接続できる程度に抑える。
中々に難しいです。
時系列に書かれている笠寺の別当、梅森北城の松平三蔵(信次、忠就?)の叛乱に結び付けようかとか考えております。
◆柴田家
享禄3年(1530年)に柴田勝家が、下社城で生まれている。
柴田氏は斯波高経四代の子孫義勝が越後国新発田城主となり、柴田と名乗るようになったといわれる。
下社城の説を取れば、義勝(修理太夫)が新発田城の城主となり、その孫が尾張に土着して柴田を名乗った。
孫の名は、柴田源六勝重が有力となる。
柴田源六(源六郎)が尾張国愛知郡一色城にあったことは、一色村にある神蔵寺には柴田源六勝重、在世の折、同寺を建立し、雲岫麟棟和尚を招待して開祖とするという記禄からわかる。
勝重の没年は文亀3年(1503年)であるといい、戒名は霊元院殿天信了運大居士であるという。『尾張志』
一色城の北南0.8kmに下社城があり、勝重が勝家の祖父、あるいは、親族であることがわかる。
柴田家は尾張主義の斯波家の家臣となったと思われるが、信長が生まれる前後で織田弾正忠家の家臣になったと考えられる。
但し、柴田家が斯波高経の子孫であることを証明する証拠は、今のところ存在しない。
(斯波-高経(足利 高経)は、元弘3年(1333年)の足利尊氏の挙兵に従って鎌倉幕府に反旗を翻し、建武政権において越前守護職を得た。
しかし、後に尊氏に従って北朝軍の有力武将となる)
・柴田-勝家 大永2年~享禄3年(1522年~1530年)
父:柴田勝義
兄弟姉(吉田次兵衛室)、姉(佐久間盛次室)、勝家、妹(柴田勝敏母)
妻正室:お市の方(織田信長妹)
子勝里、勝忠
養子:勝敏(権六、実子かも?)、勝政、勝豊、勝春、佐久間勝之(後、佐々成政養子)、女(高城胤則室)
・柴田-勝里
江戸時代に編纂された尾張藩士の系図『士林泝洄』によれば、柴田勝家の庶子で、通称は庄左衛門、あるいは茂左衛門。
織田信雄に仕えたという
・柴田-勝忠 (毛受-照清) 生年不詳 - 慶長4年(1600年)
柴田勝家の次男で庶子。
母は不明。柴田勝家の家臣・毛受-勝照が養育し自分の子にしたとも言われる。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家の一族と養父・毛受勝照が討たれると勝忠(照清)は、勝家の姉で吉田次兵衛の妻と共に北ノ庄城を脱出し、佐久間盛次の保護を受けた。
その後、名を毛受照清に変え大谷吉継に仕えるが1600年の関ヶ原の戦いで討死。子に照済、吉照がいたと伝わるがいずれも、元服前に死去したとも。
・柴田-勝敏 永禄11年(1568年)- 天正11年5月12日(1583年7月1日)
通称は権六。勝家の嫡子
◆松平三蔵とは誰か?
松平-信次 (生年不詳-1563年?)
通称三蔵
梅森北城主
天文18年、尾張の所領を捨てて三河に来た。
つまり、天文18年まで尾張の織田方に城を持っていた。
山口内蔵と共に織田家に対して謀反を起こしたことがわかる。
佐々木村の住人で、松平信光の末裔。永禄6年(1563年)、三河一向一揆で佐々木村の上宮寺に味方し討死した。
上宮寺に伝わる過去帳には、「釈道西 尾州山田城主松平三蔵殿信次 弘治弐年丙辰四月朔日 同国梅森眺森寺開祖」「鎮勝院独立 松平三蔵信次男、三蔵、左衛門尉信定又直勝トモ 天正十四年五月十四日」と記され、現在の愛知県日進市梅森台にある真宗大谷派眺景寺にも天文7年12月24日に開祖道西が本願寺の法主證如から本尊が授けられたという記録が残されていることから、本項の松平信次の没年は弘治2年と確定される。
元々、天文9年に織田信秀による三河侵攻が始まる以前には、松平一族による尾張進出の動きもあり、尾張梅森などの支配もかなり以前から続いていた可能性もある。
天文20年8月2日付の今川義元判物(蓮馨寺文書)によれば、天文18年に山口内蔵(山口教継の一族か?)と松平三蔵が天文18年に今川方に付くべく尾張の所領を捨てて三河に来たとする記述が載せられており、更に文中にて松平三蔵は三河に所領がないため、阿部大蔵と相談して兄・三左衛門忠倫の旧領のうち100貫文を与えることになったと記されている。
三左衛門は松平一族でありながら織田方に留まったために今川方の松平宗家当主松平広忠の手の者に暗殺されたと伝えられているが、三蔵こと松平信次は尾張の所領を捨てて今川方に離反した代償として兄が奪われた所領の一部を授かろうとしたと推測される
※.(佐々木)松平信次(弘治2年4月1日没)-忠就(天正14年5月14日没)-直勝(天正17年11月23日没)の3代と推測され、彼らの事績が混同してしまっている可能性が高い
・牧-長義
諱は義清
島田城主
官位は下野守。父は斯波義統の弟・津川義長。母は斯波義廉の四男牧左近義次の娘。斯波義銀の従兄弟にあたる(『張州雑志』)。
子に牧長清、牧長正(長治)。室は織田信定の娘(織田信秀の妹・長栄寺殿)、尾張川村北城主岡田時常の娘。定紋は丸に三引、丸に橘。