三十七夜 魯坊丸、俺の言葉じゃないぞ
〔天文十六年 (一五四七年)夏五月初旬から中旬〕
知立神社社が襲われたという知らせを聞いて出陣した養父は翌日の夕方に城に戻ってきた。
戸田宣光は神社に火を掛けると退却し、水野家との小競り合いすらなかった。
その日は家族揃っての夕食となった。
養父は荒れた三河湾を越え、すばやく撤退した宣光の鮮やかさを褒めていた。
「ばぁ、た、し、て、そ、う、で、ご、ざ、い、ま、す、か?」(果たしてそうでしょうか?)
「魯坊丸様は? いま、なんとおっしゃったのですか」
「ち、ち、う、え。ろ、ぼぉ、う、ま、る、に、さ、ま、ばぁ、い、り、ま、せ、ん」(義理父上。魯坊丸に『様』はいりません)
「魯坊丸様は某を父上と呼んで下さいますか」
「と、う、ぜ、ん、で、す」
「ありがとうございます」
「ぶぅぐ。せ、つ、め、い」
養父の忠貞は感動するばかりで話が進まないので、俺に代わって福に話してもらうことにした。
俺なりに情報を集めていた訳ではなく、偶然に手に入れた。
今朝、久し振りに漁があると聞いて様子を見にいった。
港に近隣の村人や行商が集まってきていた。
地引網漁の漁獲量は他と比較にならない。
俺は余ったザル一杯分の小魚を一文で引き取ると公言していた。
但し、余った小魚は日干しをして干鰯にしてから引き渡すように命じた。
野菜の肥料にするもよし、肥料小屋の餌にするもよし。
ニワトリの餌にもできる。
使い勝手がよい…………とか考えていたが、思っていた以上に人が集まっていた。
手伝うとザル一杯が一文というフレーズが魅力的みたいだ。
各城からも三人ほど手伝いを出して、鰯を購入している。
俺らが食べる魚は献上品なので買う必要もないが、他の武士や従者の分まで献上してくれない。
自分らの魚を確保する為だ。
同様に各村から数人の手伝いが出ていた。
予想していなかったのは、まだ成人していない子供らが参加していたことだ。
ザル一杯は無理でも、数匹の鰯を分けてもらえる。
子供らが自分らの食い扶持を求めて手伝いにきたのか、あるいは、両親に「自分の分くらいは自分でとってきな」とか言われてやってきていた。
潮が引くと、総勢三百人くらいがザルや桶を持って海に入っていった。
余った鰯は、ザル一杯を五文で行商人が買う。
完売だと漁師が嬉しい悲鳴を上げていた。
もちろん、自分ら用に五十匹程度の鰯が残されて干鰯になるが、これは肥料用でなく保存食だ。
その内に余るよね?
沖で待っていた行商人の一人が東三河から尾張に流れてきた者だった。
暇なので色々と聞いてみた。
東三河がどんな状態かと言えば、こんな感じだ。
戸田宣光の父である宗光は渥美半島を完全に支配する為に、その出口である半島の根元に二連木城(明応二年(1493年築城)を建てた。
宗光は、その地を治める郡代一色-政照の養子に入っていたので、正当な権利と主張した。
一方、一色に代わって三河守護職に任ぜられた阿波国細川氏の細川-持常が前守護の一色氏の残党討伐を国人の牧野-古白に 命令した。
これが『応仁の乱』の余波である。
古白は豊川を越えて、今橋城(現、吉田城)を永正2年(1505年)に築かせた。
宗光にとって目の上のタンコブのような城であり、西三河の松平家の助力を受けて、宗光は今橋城を奪った。
その後、紆余曲折あったが、牧野-保成の要請で今川家が乗り出して戸田家は今橋城を今川家に奪われた。
岡崎の松平広忠が今川方であった為に、戸田宣光は広忠の仲介で今川家と和睦を結んで今に至る。
だが、本心は今橋城を奪回したいのだ。
奪回したいが、東に今川家、北に岡崎松平家、西に水野家を敵に回して勝てる見込みはなく、今川方に与していた。
松平信孝が織田家に寝返ったことで、織田家は矢作川を越えて東側にも影響力が出てきた。
今橋城を取り戻したい戸田宣光も織田家に鞍替えしたいのではないだろうか?
水野信元や松平信孝に頭は下げたくない。
恨みが深いのか、戸田の家臣から水野信元や松平信孝への罵倒が常に聞こえたらしい。
そんな宗光が今川家の先鋒とした率先して働く訳ではない。
おそらく命令させて、渋々承知した。
だから、知立神社に火を付けると早々に引き上げた。
今橋城を与えるとでも今川家から言われなければ、あるいは、水野家が攻めてこなければ、宗光が本気で戦う気はないと思う。
東三河の状況を福が養父に話した。
「ほぉ、面白い。戸田宣光は織田方に寝返りたいと思っておるのか?」
「はい。話を聞いた魯坊丸様がそうおっしゃいました。水野家との三河湾の争いに手打ちができれば、戸田宣光が寝返るかもしれないとおっしゃりました」
「これはすぐにでも大殿に知らせねば」
「お待ち下さい。戸田宣光は織田家を疑っております。また、矢作川の下流域は吉良家の領地です。その吉良家は今川方ですから、話を持っていっても首を縦に振るとは思えないとおっしゃりました」
「真か!」
「ち、ち、う、え。ぎ、よ、う、し、よ、う、に、ん、の、ざ、れ、ご、と、で、す」(義理父上、行商人の戯れ言です)
「魯坊丸様は、行商人が言ったことから推測しただけだとおっしゃっております」
「戯れ言か」
養父は浮かした腰を落ち着けると、腕を組んで悩みはじめた。
俺の知識は色々と混じっている。
主な情勢は、城の家臣らから聞いた。
俺の頭の中には愛知県の地図がはっきりと浮かぶが、家臣らの三河の地図は方向と距離が滅茶苦茶なのだ。
例えば、渥美半島と知多半島は非常に近い。
知多の先端の師崎から渥美の先端である伊良湖岬まで、たったの3里半(14km)だ。
知多を挟めば、戸田家は近い国だ。
しかし、中根南城の家臣らは、東三河の遠い国と考えていた。
では、俺の頭の地図が正しいかと言えば、それも違う。
俺は北浦という湾など知らない。
地形がまったく別物なのだ。
加えて、地名も共通ではないので、どこの話がわからないことも多かった。
それでも戸田宣光の心情は他の者より推測が容易い。
今橋城(吉田城)に行けば、各所に看板があり、様々な歴史背景を知ることができる。
旅行に行ったことがある者なら誰でも知ることができる。
行商人の話に俺の知識を合わせて、戸田家の状況を推測した。
それを福に聞かせると「流石、魯坊丸様です。この福は行商人の話を聞いてもそこまで思いつきません。魯坊丸様、もっと聞かせてください」という。
そんな感動してもらうと嬉しい。
色々な知識を合わせて解いた知識のジグソーパズルを褒めてもらっていい気分になった。
変に疑わず、俺を褒めてくれる福はいい子なのだ。
だが、どうして知ったかと問われるのは困る。
困るから、すべて行商人の言葉とした。
あくまで元東三河を拠点にしていた行商人の言葉であり、今橋城の歴史的な背景を追加したなどと敢えて言わない。
戸田宣光の心情も行商人の言葉だ。
俺の言葉じゃないぞ。
魯坊丸日記 第三十七話 「俺の言葉じゃないぞ」の裏舞台
◆鰯の値段
後北条氏の領民に課役する為に定めた『小田原衆所領役帳』によると、
魚の価格は、
鰯2匹が1文、
大あじ1匹が2文、
鰹1匹が12文、
鯛(50cm)1匹が30文、
と定めていた。
一文が120円とすると、鰯1匹が60円となる。
ザル一杯で鰯が10匹と考えると、鰯1匹が6円は格安の引き取り価格である。
網引きを手伝った者も同じ価格で引き渡しているが、こちらは一人一ザルの労働対価である。
鰯が余るようになるのは、周りの漁師が地引網漁をはじめて、鰯が余るようになるまでお預けとなるのでした。
尾張で干鰯がでなかった話。
この物語では、那古野周辺の人口が増えて、魚が余るのは10年くらい後となります。
その為に、三河で干鰯を使った綿花作りがはじまっても、尾張では鰯が余らなかったというオチのある話です。
(※)この小説では、一貫文が12万円と定めていますが、地域で一文の価値が大きく違います。
特に、東日本は銭が不足ぎみであり、銭の価値が高かったと記憶します。
しかし、比較する材料が乏しいので同価格として考えて進めております。