三十六夜 魯坊丸、梅雨の心を悩める
〔天文十六年 (一五四七年)夏五月初旬から中旬〕
端午の節句(丑の月丑の日、五月五日)は生憎の雨であった。
そう、雨が降ってきた。
夜半から降ってきた雨は朝方になっても止むこともなく、今日は舟が出せなかったという報告を聞いた。
毎日が白身のお魚が食べられると浮かれていた俺にはがっかりだ。
五月は新緑のさわやかな頃である皐月という意味と、五月雨と呼ばれる長雨の梅雨が始まる月だったことを忘れていた。
俺が白身の出ない食卓を見て恨めしそうに「雨の馬鹿野郎」と呟くと、母上はにっこりと笑って、「昨日までよく晴れが続いた。魯坊丸は運が良いですね」とまったく違う感想を口にした。
そして、「地引網漁の初日が雨で台無しにならずによかったですね」と母上は言う。
そうなのだ。
もしも地引網漁が延期となれば、端午の節句で忙しい神社は催しを数日以上の延期することが決まっていた。
そう考えるとのラッキーだったかもしれない。
因みに、助けた河原者が住む小屋がないでは格好がつかないという理由だけで、千秋季光は熱田から大量の材料を運び、同じく多くの大工が派遣されて、柱を立てて板を張り付けただけの安普請の小屋だが、東八幡社の横手の広場に数日で住居を建ててしまった。
その動員力、改めて熱田の大宮司の実力を見せ付けられた。
俺を教祖にしたてようとする変な大宮司だが、千秋季光を相手に喧嘩だけは止めておこう。
魚は残念だが、晴れるまでの我慢だ。
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が、我慢だって、何で四日も雨が続くんだよ。
しかもジメジメして蒸し暑い。
「魯坊丸様。雲の合間から光が差しております。夕方までに晴れるかもしれません」
「き、よ、う、の、ゆ、う、げ、に、さ、か、な、ばぁ、で、な、い」(今日の夕餉に魚はでない)
「風も弱まって参りました。明日の朝には、漁ができるに違いありません」
「そうか」
舟付き場の奥に生け簀を作らせよう。
東八幡社の広場に、まだたくさんの材料が残っている。
早々、その材料を使って庭師にニワトリ小屋を作らせた。
ニワトリの手配は大喜爺ぃに頼んでおいた。
世話は河原者の子供にやらせようと思う。
子供らは暇を持て余しており、読み書き算盤を教えれば、後々が楽になってゆく。
抱っこ紐(吊り紐)の作り方も教えようか?
そうすれば、野うさぎとかを投石で狩りができる。
問題は女と老人だ。
「ぶぅぐ。お、ん、な、ら、の、よ、う、す、は、ど、う、だ?」(福。女らの様子はどうだ?)
「糸作り、繕い、水飴作りなど、作業ができる者にはさせております。しかし、作業場ができておりませんので、魯坊丸様がいう流れ作業を教えるところまでいっておりません」
「ろ、う、じ、ん、け、が。こ、ど、ら、に、も、じ、を、お、し、え、よ」(老人や怪我をして働けない者には、子供に文字を教えさせよ」
「作業に参加できない者のことですね。文字が書ける者を探してみます」
老人や怪我人は過酷な肉体労働は無理だ。
だから、山に燃料となる柴刈りにいかせている。
柴というのは、野山に生えている小さな小枝のことだ。
経験が豊かなのか、効率的に集めてくれる。
「子供らが手伝って、腐ったような木が混じっているので、分別が大変みたいです」
福が思い出したように、ふふふと笑った。
子供は子供なりに役に立とうと、一生懸命だそう…………腐った木か。
そうだ、椎茸だ。
母上が言った一本が四貫文は大袈裟だったが、大喜爺ぃに確認すると、椎茸一本 (一匁、15g)が百文から二百文で取り引きされていた。
これを乾燥させると重量が十分の一になり、この乾燥させた椎茸一匁 (15g)を京まで持ってゆくと、輸送や護衛の費用を含めると三貫文で売ることになり、京の商人が四貫文で売っていても不思議ではないらしい。
つまり、母上の話は大袈裟だが、間違いでもないらしい。
梅雨の時期は椎茸も採れやすい。
少し腐った古木を使えば、時間短縮ができるかもしれない。
「ぶぅぐ。か、れ、ら、に、こ、ぼぉ、く、を、あ、つ、め、さ、せ、よ」
「古墨、墨ですか?」
「ち、が、う。き、だ。こ、ぼぉ、く、だ」(違う木だ。古木だ)
「木の古木ですね。わかりました。大きさは?」
俺の手を広げたくらいの大きさを示した。
人工石炭を作る場所の麓に、谷の奥なので日当たりも悪く、丁度よい感じの林に囲まれた広場がある。
そこに古木を集めて椎茸の栽培だ。
芝刈りの序でに、原料の椎茸も探させよう。
ちょっとワクワクしていると、早馬が走ってきた。
渥美半島の戸田-宣光が水野領の知立神社を襲っているという。
養父は兵五十人を集めて平針に向かった。
尾張と三河の境の境川は氾濫している可能性が高いので、鎌倉街道を通ると渡河できない。
そこで平針街道を迂回して、山道から三河に親父(信秀)が救援に向かうらしい。
安祥城の信広も援軍を送るだろうが、背後に岡崎城があるので多くの兵を連れてゆけない。
春の信長兄上の初陣でも、戸田水軍は今川方の兵を渡河させるのに手伝っていた。
水野家と三河湾を巡って争っている。
まだ、荒れている三河湾を渡って襲ってくるとは厄介な敵だ。
母上が養父を心配そうに送り出した。
お~い、死んでくれるなよ。
まだまだ、手伝ってもらいたいことが多いんだぞ。
魯坊丸日記 第三十六話 「梅雨の心を悩める」の裏舞台
ニワトリ、椎茸、戸田宣光の話でした。
戸田康光の娘である真喜姫が於大に代わって、岡崎の松平広忠の妻に嫁いでいます。
松平広忠と叔父の信孝が対立は、広忠を支援する戸田康光と信孝を支援していた水野忠政との対立でもありました。
信孝が力を持つことを嫌がった広忠は戸田康光を頼ることになり、戸田家を優遇する広忠に水野家は不満を持つようのなったのです。
水野忠政が亡くなるとその不満が爆発して、水野信元は織田方に寝返ります。
信孝は広忠の横暴を今川家に訴えますが、信孝が留守の間に妻子を岡崎城より放逐し、広忠と信孝の対立が激しさを増したのです。
三河物語では、銭欲しさに戸田康光が竹千代を織田家に売るエピソードが書かれておりますが、この時点で戸田康光が今川家を裏切るメリットがありません。
水野家を優遇する織田家に尻尾を振ってどうするのでしょうか?
実際、戸田康光はこの時期に水野領の知立神社社殿等を焼失させたと記録にあります。
◆椎茸の価格
椎茸に関しては読者様から意見があり、注釈を加えてみました。
すでに、書籍で椎茸一本分(乾燥椎茸一匁、15g)が四貫文相当と書いております。
訂正を加えるのも厄介なので注釈を加えさせて頂きました。
・十五貫文目(56.25kg)あれば城が買える?
椎茸15gなら3,750個です。
ここで城がいくらしたが問題です。
姫路城の築城費は約十万石。彦根城は三十万石と言われており、数万石から数十万石となります。
砦を城に分類すれば、500石から3000石もあるかもしれません。
では、椎茸一本の値段は、
500石÷ 3,750個 = 133文
3000石÷ 3,750個 = 800文
一万石(50,000貫) ÷ 3,750個 = 2.67貫文
三十万石(300,000貫)) ÷ 3,750個 = 80貫文
(一石=一貫)
こんな感じの計算をしております。
椎茸に出ている城とは砦クラスであり、椎茸一本が100文から200文で取引された。
京に持ってゆくには乾燥させるのが通常であり、椎茸一本分相当の一匁(15g)は一貫文から二貫文となり、輸送費(貴重な椎茸を守る為に、護衛を雇う費用)を含めると、二貫文から三貫文で売られ、京の商人は三貫文から四貫文で売っていた。
そんな感じでまとめてみました。
(※)城が三十万石の城が対象なら、生椎茸(15g)が80貫文って現実感がありません。一万石の城なら、1本が四貫文でもおかしくありませんが、椎茸がそこまで珍しいとも思えません。
500石の砦を城とたとえ、100~200文の間で取引されていたのが普通だと思います。
なお、令和4年の生しいたけ(原木栽培)の生産量は4,342.1トン。
一床から5個の椎茸が年7回収穫できるらしいので、200床なら7000個の椎茸が作れます。
一本百文で売れたとして、700貫文を稼いでくれます。
1000床なら5倍なので、3万5000貫文はチートですね。
それ以上は、全国に散りばめて売ったとしても値崩れしそうな気がします。
見極めが難しい。
〔天文16年5月の出来事〕
◆1547年(天文16年)今川義元の命を受けた戸田宣光により、知立神社社殿等を焼失される。
◆遣明船
遣明船は、室町幕府第3代将軍足利義満は、応永8年(1401年)に僧の祖阿と博多商人の肥富を遣明使として派遣し、明との交易を申し入れ、明の使者から「永楽の勘合符」を得て、勘合貿易が始まった。
そして、天文16年(1547年)5月4日まで遣明船が続いた。
この最後の遣明船の策彦周良が帰国したのは、3年後の天文19年(1550年)6月9日となる。
翌年、陶隆房の造反により、大内義隆が自害して大内氏が滅亡したため、遣明船が終わった。
但し、民間での密輸は継続しており、明国との交易は続く。