三十四夜 魯坊丸、 夏だ。海だ。海水浴だ。
〔天文十六年 (一五四七年)夏五月はじめ〕
海だ。海だ。お魚だ。
今日は大きな日傘をもって、母上や養父などの中根一家揃って海岸にお出掛けであった。
海が一望できる場所に陣取ると、ドンドンとなる太鼓の音を合図に、皆が地引網を引きはじめた。
遠くの深い箇所まで広げた地引網を引いて範囲を狭めてゆく。
やがて網が底に付いてぐっと重くなってきたようだ。
そこで止めの合図が入った。
熱田ではじめての地引網漁というので多くの人が駆け付けて、一度は引いてみようと物見遊に参加しよう思う見物客も多いので、その気になれば陸まで引き上げることもできそうだった。
だが、予定通りに網が正面まで引いた所で止めておいた。
渡し幅の中ほどになる三十間 (50m)辺りに竹で作った浮きがぷかぷかと浮いているのが見える。
夜寒式地引網漁は完全に引き上げない。
止め合図と同時に用意した酒を開けて、皆に配って宴会がはじまった。
総指揮は義理兄上の忠貞がとっている。
途中で止めてことを不思議がった母上が俺に聞いてきた。
「魯坊丸。其方から以前に聞いた『地引網漁』は海岸まで引き上げるのではなかったのはありませんか?」
「あ、い。ぶぅ、つ、う、ばぁ、そ、う、で、す」(はい。普通はそうです)
「奥方様。夜寒の海岸は潮が引けば、膝まで下がります。月のはじめは足元近くまで下がります」
「当然です。海が渡れなければ意味がありません」
「あの辺りも潮が引いてきます。待つだけで引き上げたと同様なのです」
「なるほど」
魚は潮が引くと沖に逃げる。
頭のよい魚は二つ護岸壁の外側を回り、地引網を迂回して逃げる奴もいるだろう。
だが、普通に魚は沖に逃げる。
小さな稚魚は網目を無視して逃げてゆくが、それなりの大きさを持つ魚は逃げられない。
あとは潮が引くのを待つのだ。
一先ず終わって、回りが何やら騒がしくなってきた。
中根一家の隣に千秋家と熱田神宮の神官家の方々が並び、その脇に熱田の城主をしている一族が陣取りをして、尾張で初の『地引網漁』の見学にきていた。
笠寺から山口宗家の代理として、市場城主の山口-盛隆と挨拶を交わした。
他の方々は去年の冬に挨拶を交わしたことがあった。
さて、この地引網は五郎丸が仕入れて、気前良く俺に献上してくれた。
俺としては助かる。
しかし、俺に恩を売るにしても露骨過ぎて気味が悪い。
何が狙いだ?
献上した地引網の交換条件として、今日の催しが行われた。
主催は千秋季光だ。
熱田神宮の大宮司が主催となれば、断わる理由がない者は参加せざるを得ない。
五郎丸が琉球より取り寄せたという焼酎を振る舞い。
うどんをはじめ、俺が考案した料理が次々と披露された。
季光は俺を持ち上げると美談を語り、織田家の繁栄を約束すると締めくくり、秋の戦での皆に協力を求めた。
こうやって眺めていると、料理をふるまって支持を集める選挙活動のようだ。
戦とは、選挙とその宣伝活動かもしれない。
選挙に勝てねば、タダの人。戦に勝たねば、すべてを失う。
どちらも広報が大変そうだ。
食事を楽しんでいる間に潮が引いて、見物客から喝采が湧いた。
海に入る解禁だ。
皆が義理兄上の忠貞に注目し、そして、太鼓がなった。
うおぉぉぉっと村人や参加した見物客が海に入ってゆく。
それに混じった武士の姿もあり、思い思いのザルや桶を持って、ぴちぴちと跳ねる魚の掬い捕り漁がはじまった。
地引網で生け簀化した海に、膝より低くなった水位で魚がぴちゃぴちゃと跳ねて泳いでいるのだ。
魚を捕った者から歓喜の声が上がってゆく。
引き上げに参加すると、ザル一杯分の魚を一文で持ち帰る権利が生じるとした。
自主的に引き手を確保する工夫だ。
但し、鯛やヒラメなどの高級魚は除外される。
今日はその鯛やヒラメなどがその場で捌かれて焼かれてゆくと、主催の千秋家から順に運ばれていった。
俺の前にも白身のムニエルが運ばれてきた。
白身に小麦粉をまぶして焼く。
バターの代わりにごま油を使ったので、ムニエルがどうか怪しい。
同じく、小麦粉をまぶして油で揚げるフライ。
試食用に一度だけ作らせたが、無駄に油を使うので二度目は禁止された。
そう言えば、まだエビやタコを食べてない。
今度、探させよう。
デザートの一つミルクチーズも出てきた。
季光はこれを『蘇』と言い張って朝廷に献上したとか?
一方、一般客の料理は単純だ。
魚のぶつ切りにして、野菜を一緒に煮込んだ塩スープの男料理を振る舞う。
皆、楽しそうで何よりだ。
そんな中、青い顔をして漁師風の男達が領主らに陳情し、五郎丸に話し掛けると、五郎丸が上機嫌になったのがわかった。
五郎丸は他の城主、領主、代官などを回った後に、俺の元に挨拶にきた。
「ぎ、げ、ん、が、よ、さ、そ、う、だ、な」(機嫌がよさそうだな)
「魯坊丸様は、五郎丸様が健やかなことをお喜びでございます」
福、ちょっとニュアンスが違う。
俺は心の中で突っ込んだ。
五郎丸はそれを喜び、手の内を晒してくれた。
「魯坊丸様のおかげで次の地引網の注文を受けることができました。大量に捕れる魚を見て、周辺の漁師等が慌てて領主に陳情しました。このままでは夜寒にすべて奪われて、魚が売れなくなると。そして、領主から銭を借りる約束をつけ、いくつかの注文をもらいました。これで献上した地引網の元手は回収でき、後は売れるだけ儲かる。しかも地引網は買い換える品と聞いておりますので、尾張でも作れる準備を進めております。次の注文からは、自前で作った網を売れれば、儲けは倍となります。しかも、大殿より尾張での独占販売をお認め頂きましたので笑いが止まりません。ははは」
「な、る、ぼぉ、ど」(なるほど)
「千秋家にも戦費として、儲けの一部を献金させて頂きますので、熱田神宮も損もございません。魯坊丸様と付き合うようになって儲かるばかり、これからも五郎丸共々、大喜屋をご贔屓にお願い申し上げます」
「ご、ち、ら、も、よ、ろ、し、く、だ、の、ぶぅ」(こちらも宜しく頼む)
流石、腹黒商人だ。
損して得を取れと体現していた。
両者両得なら恩を感じる必要もないと、胸をなで下ろした。
よし、遊ぶぞ。
着物を脱ぐと、裸で海に入って波に押し返された。
そして、しょっぱい海の水を福らと掛け合う。
皆と笑って楽しかった。
寝る前の体を拭く頃になって後悔した。
日焼けだ。
俺の白い肌は真っ赤に焼き上がり、体中がヒリヒリするのだ。
失敗だ。
日焼け止めのレシピって、どうだったけ???
回れ、灰色の脳みそ。
魯坊丸日記 第三十四話 「夏だ。海だ。海水浴だ。」の裏舞台
海水浴、何故か昔の人は海水浴をするという文化は根付きませんでした。
信長は水練を欠かさなかったとか。
フンドシ一丁で川に入っていたようですが、泳ぎを楽しむとか、海岸でのんびりするという感覚は持ち合わせていなかったようです。
でも、魚を釣って焼いて食べたりはしていたと思うのですが、どうなのでしょう。
江戸時代の記録に潮湯という記述があり、海水に浸かったようですが、海水浴なのかは微妙です。
わざわざ海の水を桶で運んで自宅で潮湯を楽しんだ方もいるので、江戸時代で流行したお風呂の延長に潮湯もあったと私は考えます。
(戦国時代までの風呂はサウナであり、お湯に浸かるものでありません)
いずれにしろ、海水浴の文化が始まったのは明治以降で、日本にやってきた横浜居留の外国人が休暇に横浜市金沢区の富岡辺りで海水浴を始めたのがきっかけだそうです。
そう言えば、当時の日本は女性が肌を晒すことに嫌悪感を持っていたので、明治のワンピース水着は下着と同じであり、とても人前にさらせる姿ではなかったですね。