三十三夜 魯坊丸、葛根湯をつくる
〔天文十六年 (一五四七年)初夏四月下旬〕
曲輪を護岸工事と同じ方式ですると言ったが、あれは噓だ。
河原者がやってきてから三日過ぎた時点で二百人に達してしまった。
追加応募はまだしてない。
しかし、天白川だけでなく、松巨島や鳴海、反対側の山崎川の者が集まってきている感じだった。
まだ増え続けると、義理兄上の忠貞から報告を受けた。
すでに東八幡社の拝殿は一杯となり、境内に臨時の小屋を建てはじめている。
問題は、働ける者が余り増えていない。
山に入れば、食料が手に入り、獣の皮を剥いで売れば生活に困らない程度に稼げる。
食うのに困っていない者は甘い言葉に警戒している。
うん、このまま来るな。
働ける者は初日の六十人から七十五人にしか増えていない。
どちらかと言えば、女、子供、老人、戦などで片腕を失った者とかが多くなっていた。
無償で働いてくれる超格安の労働力だけが手に入る訳もなかった。
一割五分って、労働比率が酷過ぎる。
この配分で人が増えれば、労働力が増えない儘で人が集まり、住む場所も足りなくなる。
計画変更だ。
最初の曲輪の外に四つの曲輪を追加して、大豆、麦、麻、粟、野菜などの畑を増やし、女・子供でもできる手工業や水飴などを作らせる作業場を追加する。
中根南城から丸根村に続く斜面に、びわ、柿、栗、金柑などの木々を植えて、その世話をさせる。
作業小屋の建設を優先し、住む所の拡張は東八幡社に任せよう。
労働力の選択と集中だ。
という訳で、曲輪も簡素化して、壁部のみ石とローマンコンクリートとし、中は畑作りで出た残土で埋める複合壁に変更だ。
呼び出された村上小善の弟がその説明を真剣に聞いていた。
「魯坊丸様。つまり、土地を整地の残土で曲輪を作りながら側面のみ石を積んで固め、最後に『こんく』(ローマンコンクリート)を流して固めるのでありますな」
「そ、う、だ」
「なるほど、なるほど、これは凄いことです。これなら一夜で砦作りが簡単にできますぞ」
覚える吸収力が凄く、発想も柔軟だ。
砦作りに使えるのか。
ならば、人工石炭を作る構造物にも同じ方式が使えると思ったので、作之助を呼ぶように言っておいた。
護岸工事は少しずつ沖になり、満潮時は仕事ができないので、その間はこちらを手伝わせるという二元作業になっていた。
労働力は整地最優先し、使える場所から大豆でも何でも植えてゆく。
女・子供でも山で薬草摘みの作業に入れて自分の食い扶持を稼いでもらおう。
福にそう指示を出すと、少し心配そうな顔で聞いてきた。
「魯坊丸様。多くの者を抱えて大丈夫なのですか?」
「ぜ、に、の、し、ん、ばぁ、い、ば、な、い」(銭の心配はない)
「そうでございますか」
「ぶぅぐ、に、ばぁ、せ、わ、を、ま、が、ぜ、て、わ、る、い、ど、お、も、つ、で、い、る」(福には、世話を任せて悪いと思っている)
「そちらは大丈夫でございます」
作業の振り分けで、東八幡社の河原者の世話を任せられる人材がいなかった。
中根村の住人は避けているし、他の侍女らも行くのを嫌がった。
河原者の話を聞く役は福しか信用できる者がいなかったのだ。
その内、取次役を河原者の中から探すつもりだ。
翌日、夕食の時間になっても福が戻ってこないので使者を東八幡社に送った。
慌てて戻ってきた福が遅くなったことを謝罪する。
「遅くなって申し訳ありません」
「ぎ、に、す、る、な。し、ん、ばぁ、い、し、た、、だ、け、だ」(気にするな。心配しただけだ)
「ありがとうございます」
福は遅くなった理由を話した。
昨日、やってきた親子連れがいたらしい。
子供は体を洗ったのちに夕食を与えると、その途中で子供が倒れたらしい。
体を洗っている時も、何度もくしゃみをしたという。
そして、昨晩は高温高熱でうなされた。
福は俺が昼寝の間に様子を見に行ったが、そこには放置されている子供を見て焦ったらしい。
母親すら諦めていたという。
七歳までは神のうち。
七歳まではいつ死んでもおかしくないという言葉であり、貧しい者は薬も与えられない。
だが、福は俺の領地に安易に死人は出せないと考えた。
布などを用意させて寝床を作り、俺が心配していると聞いて戻ってきた。
福は重湯を分けてもよいかと聞く。
もちろん、答えは『NO』(ノー)だ。
重湯だけでは、熱は下がらない。
一晩経っているなら体力も落ちているだろう。
食べる元気が残っているのか?
「ぶぅぐ。だ、い、ど、こ、ろ」(福。台所)
「畏まりました」
「が、つ、ご、ん、ど、う、を、つ、ぐ、る」(葛根湯をつくる)
「かつこんとう、ですか?」
「そ、う、だ」
正確には、葛根湯ではない。
すべての材料を揃えることはできないからだ。
しかし、葛をメインに使うので『葛根』に間違いはないとも言える。
効用を上げる為に、近場で採れた薬草を粉末にしたものを加える。
この辺りで採れる薬草ならすべて把握済みであり、自宅で作れる漢方薬配合を教えてくれた爺様先生の公認だから絶対に利くというか、俺もよく世話になった。
最後に水飴を混ぜて完成だ。
俺も行くと言ったが、福がそれだけは許してくれない。
代わりに硝石で作った氷を桶に入れて持って行かせ、福に濡れた布で額と首筋を念入りに冷やすように助言を与えて送り出した。
賄い長には、半刻 (一時間)ごとに氷の補充をするように命じた。
硝石箱が機能する限界まで使い切らせる。
これでしばらく氷はお預けだ。
最悪、煮詰めて再度結晶を取り出す手もあるけど、大量の薪がいるからな。
氷欲しさに大量の薪を消費したと知れたら、母上に叱られるかな?
どうするかは後で考えよう。
福は子供に無理矢理でも葛根湯を飲ませると、交替で仮眠を取りながら世話をすると、翌朝には子供が目を覚まし、重湯を食べられるくらいに回復したらしい。
彼らの代表が数人訪れて、俺に礼をいった。
助かったか、それはよかった。
あの薬は風邪に効果的だが、インフルエンザなどでは緩和作用しかない。
利いてよかった。
数日後、この話を聞いた大喜爺ぃから聞いた千秋季光が飛んできて、神薬『葛根湯』をすべて買いたいと言ってきた。
神薬って何だ?
葛は作るのに手間が掛かるが甘味として重宝されており、売られていない訳ではない。
以前、薬師と話して気づいたが、漢方薬という言葉は存在しなかった。
その薬師から葛の名があがることもなかった。
知識を秘匿しているのか、俺が提供した情報以上に返してくれないからだ。
例えば、福らは山から取ってきた適当な葉で茶を焚いていたが、イチョウ葉茶、柿ノ葉茶、ビワノ葉茶などにはそれぞれの効用があり、季節や状況に応じて替えて飲めば、より美味しく飲めると福に教えた。
これも立派な治療薬として考えられる。
だが、薬師らは、そういった知恵を広めるつもりはないらしい。
民間治療が発展すると、薬師の意義が失われるからだ。
だから、薬を売るのは、薬師か、神社、あるいは寺院だった。
千秋季光がどんな謳い文句で神薬『葛根湯』として売るつもりなのかは想像できた。
あまり乗り気になれないが、手入れされていない山には山程の葛があり、それを高値で引き取ってくれるというのである。
薬草も珍しい配合ではないので困らないだろう。
作る手間は大変だが、労力に見合う値で引き取ってくれる。
これで河原者が増えたとしても、しばらくは葛根湯を作ることで養えそうだ。
俺は千秋季光の要望にゆっくりと頷いた。
魯坊丸日記 第三十三話 「葛根湯をつくる」の裏舞台
子供を救ったことで魯坊丸の人気はウナギ上りです。
しかし、それ以上に熱を下げる為に、氷を提供したことが大変な動揺を与えています。
初夏。
しかも、季節にそぐわないほど暑い日々が続いているときです。
当然、この氷をどうしたのかと聞くでしょう。
福らが「魯坊丸様が神通力で作られました」と答えます。
さて、河原者らはどのように感じたのでしょうか。
マジ、本物。
こんな感じでしょうか。
しかも加持祈祷で病魔が去ると、マジで考える時代でした。
翌朝、子供が元気に重湯を食べます。
この奇跡を見た河原者らはどう思ったのか。
ご近所である中根村、さらに、その周辺の村人がどう思ったでしょうか。
現人神に逆らうなんて、あり得ない時代だったのです。
何故、余所者の河原者と、近くで暮らしていた中根村の住民との間でトラブルが起こらなかったのか。
本人はまったく自覚がありません。
精々、教祖様って便利だな~程度です。
こまった魯坊丸ですね。
葛根湯について、
民間治療として、どこまで広まっていたのかわかりません。
豪族名などに、氏や家紋に『葛』が使われており、葛が貴重なものと認識されていたのは間違いありません。
平安時代の枕草子などにも、甘葛が登場します。
甘味として貴重だったのでしょう。
病気を治す効用はどれほど広まっていたのかは資料が見つからないのです。
◆葛根湯◆
中国後漢時代の末期、3世紀初めに張仲景が著した『傷寒論』に書かれ、1800年近い歴史がある。
甘草は、モンゴルなど砂漠周辺部の野生種であり、「地下2メートルにも伸びる地下茎を掘るため、採取自体が砂漠化を促進し、資源の枯渇を早めている」(小松教授)という。
モンゴルの砂漠化が、甘草の乱採取でないことを祈りたい。
さて、日本では、7世紀の遣隋使、遣唐使が中国から医療制度や医学書と共に持ち帰った。
984年に丹波-康頼が全30巻の日本最古の医学書「医心方」を編纂し、唐以前の古医書の引用で構成されたもので、その中に書かれていたと思われる。
鎌倉時代になると、僧医栄西のような医師が現れ、梶原-性全の『頓医抄』、禅僧有隣(有林)の『福田方』などが書かれた。
室町時代後半から田代-三喜が中国から金元医学(金・元の時代の新しい医学)、その中でも李東垣と朱丹渓が提唱した李朱医学を日本に持ち帰えって広めた。
その田代三喜の弟子である曲直瀬-道三が医学校の啓迪院をつくり、3000人に門弟を抱えていたとも言われ、そこから日本各地に医師が広がっていった。
話を戻すと、
葛根湯は、よく知られた漢方薬の一つであり、葛根、麻黄、大棗、桂枝、芍薬、甘草、乾生姜で構成される。
桂皮はベトナム、麻黄や甘草はモンゴルや中央アジア、大棗は黄土高原からもたらされる。
葛根湯の原型が日本に入ってきたのは7世紀と思われるが、成立したのは不明のままであり、年代ははっきりとしない。
但し、江戸時代の古典落語に『葛根湯医者』があるので、江戸中期までに全国に広まっていたのはそこからわかります。