三十二夜 魯坊丸、ゴロゴロするよ
〔天文十六年 (一五四七年)初夏四月下旬〕
母上を説得して部屋に戻ると太陽が傾きはじめおり、昼を過ぎているのがわかった。
少し遅いお昼ごはんとした。
普通は一日二食だが、俺は三食食べる。
三食の方が健康によいと思っている。
食事が終わるとお昼寝だ。
全力を尽くすと決めたが、お昼寝をしないとは決めていない。
そもそもこの体は体力が尽きるのが早く、体力が尽きるとスイッチが切れたように意識が飛ぶ。
山で景色を見ていると突然にブラックアウトして、次に目を覚ますと場所が変わっていることが度々あった。
最初は驚いたが、今はもう馴れたものだ。
福らも慌てることもなくなった。
だからと言って、意識が飛ぶほどに体力を使い切るのがよい訳もなく、定期的に休憩を挟む。
朝寝、昼寝、夕寝の三回だ。
今日みたいに忙しいときは、お昼前の朝寝と夕食前の夕寝を省く。
でも、昼寝は省くと、いつブラックアウトするかわからないから省けない。
これは合理的な処置なのだ。
福にお昼寝起きの段取りだけを告げると横になる。
お休みなさい。
・
・
・
目が覚めると、夕日に赤く染まった庭が目に入った。
寝過ぎた。
だが、起きてからも、すぐに体を起こさず、手足を伸ばしながら、まったりした時間を過ごす。
おいち、に、おいち、に。
尻を起点のゴロと体を起こすと、福が冷めた白湯を口元にすすめてくれる。
ごくごくごくと、乾いた喉を潤すと、頭が少しずつ回り出す。
さて、はじめるか。
「ぶぅぐ。み、な、ばぁ、ど、う、じ、で、い、る」(福。皆はどうしている)
「すでに集まって、離れでお待ちでございます」
「づ、れ、で、ご、い」(連れてこい)
義理兄上の忠貞を先頭に、庭師、北城城主の村上小善の弟、大喜爺ぃの三人だ。
俺は城代と話していたときに書いた絵図面を皆に見せた。
城を中心に北と南に農地を広げ、それを囲うように曲輪を作る。
そして、曲輪の外と城の周りに堀を掘る。
北側に作業員が寝泊まりする小屋を建て、南側に河原者の屋敷を建てる。
北が雨、風が凌げる掘っ建て小屋を早急に建ててもらい、南側の屋敷は河原者百人が住み、薬作りなどの作業スペースも確保した本格的な屋敷を建てる。
もちろん、臨時の作業小屋は早急に建ててもらう。
庭師には、これらの建物を建てることでできる大工と職人の手配を頼んだ。
手伝いは山程いるので必要ない。
河原者に偏見を持たない人選をお願いした。
「魯坊丸様は難しいことをおっしゃる」
「ぎ、だ、い、し、お、る」(期待しておる)
「世話になった棟梁に聞いて探してみます」
これで建物は問題ない。
建物の絵図面は庭師に書いてもらう予定だ。
曲輪と堀の作業は、小善の弟に託す。
田んぼに水路を引くときに水路の高低差を理解してくれた。
棒の上に弥次郎兵衛のような分銅を付けたなんちゃって測量器を一番に扱えるようになった秀才だ。
今は庭師にガラスを使って気泡を使った水平器の制作を依頼している。
方位磁石サイズの小さいものであり、しかも別にガラスが透明である必要はないからだ手に入らないこともない。
新しい水路は、今の水路より大きめであり、しかも一段高い場所を通すことになる。
測量ができないと水は通せない。
取り敢えずは、曲輪作りだ。
「魯坊丸様。曲輪とは、どういうものですか?」
「ご、が、ん、ご、う、じ、ど、お、な、じ、だ」(護岸工事と同じだ)
「魯坊丸様は、護岸工事と同じ方式で造られるつもりです」
「では、大きな石を積み、その間に小さな石を嵌め、最後に魯坊丸様が考えられた粘土を流すのですな」
「そ、う、だ」(そうだ)
「畏まりました」
まず、畳一畳くらいの枠組みの板を組み、その中に海に転がっている大きな石を集め、その隙間に小さな石を入れる。
海岸では、大喜爺ぃが買ってきた漆喰の石を石臼で粉末状にして、仕入れた火山灰と砂利と海水を桶で混ぜる。
混ぜた直後の柔らかい土を板の枠組みに流す。
これを繰り返すと、満潮の時に桟橋のような波消しブロックが現れる。
干潮時になると、長さ五間(9.1m)、高さ五尺(150cm)の細長いピラミッド壁が現れるのだ。
もっとも海岸付近はピラミッドというほど石を積んでいない。
二本の桟橋擬きが完成すると、五十mプールのような生け簀となる。
満潮前に撒き餌で魚を呼び込み、満潮時を過ぎた頃に大喜爺ぃが手に入れることになっている地味網で囲うと、干潮時は、ザルで魚が掬えるようになる。
一年中、仕掛け漁ができるのだ。
城の曲輪もそれと同じ方式で造る。
まっすぐコンクリート壁の方が防御力は大きいのだが、石が崩れない強度の板壁を張るのは難しい。
熟練するまで時間が掛かるくらいなら、妥協して段上の壁で十分じゃない?
五尺のブロック壁の上に、さらに五尺の板塀を加えれば、それなりの障害物になる。
さらに、曲輪の手前に堀があれば、尚更だ。
統括する責任者は義理兄上の忠貞とする。
「畏まりました。魯坊丸様の期待に添えるように頑張ります」
「あ、に、う、え。よ、ろ、じ、く」(義理兄上、よろしく)
「やることは、護岸工事と同じ。問題ありません」
腹を括って本気でやると言ったが、誰も俺がすべての面倒を見るとは言ってない。
できる奴にふればいい。
俺は指示だけを出して、全部任せるのだ。
皆が出てゆくと、夕食まで夕寝をしようと思っていると、再び母上に呼ばれた。
忙しい日だ。
母上の部屋に入ると、養父も戻っていた。
「魯坊丸様。河原者を引き受けることは了承致します。しかし、間が悪うございます。周辺の領主に私の名でけっこうですので、手紙をお出しすることを奨めさせて頂きます」
「な、に、が、ま、ず、い」(何が拙い)
「私が古渡城に呼ばれたのは、秋に美濃に出陣するので準備をせよとの大殿よりのご命令を頂きました。周辺の領主もこれより兵を募ると思われます」
「お、れ、が、ど、つ、だ、ど」(俺が取ったと)
「…………」
「魯坊丸様は、魯坊丸様が兵を奪ったと勘違いされるのかと聞き直されたのです」
養父が「なるほど」と呟いてから、問題を説明してくれた。
秋の兵を出すことが決まった直後に、養父が河原者を雇ったとする。
親父は石高に応じて兵の数を見繕うので、兵の数を揃えないといけないが、すべての武士が揃う訳ではない。
荘官などの力関係で兵を出してくれない場合がある。
そんな武将は水増しに河原者を雇う。あるいは、荘官などが河原者を雇って村人として送り出す。
養父はそれを邪魔したことになる。
こう言った恨みは、あとあと支障が生じる。
だから、まず養父が謝罪の手紙を周辺の領主に送る。
一方、俺から千秋家に協力の願い状を送る。
千秋家から各領主に「熱田明神と噂される俺が河原者を憐れに思って集めているので協力するように」との手紙が届けば、俺、養父、千秋家に恨みが分散する。
なるほど、周辺の領主からすれば、いい迷惑なのか。
「で、ば。わ、ばぃ、じ、よ、う、に、せ、つ、げ、ん、を、づ、げ、ま、し、よ、う」(では、詫び状に石鹸をつけましょう)
「魯坊丸様が殿の詫び状に付ける石鹸を用意するとおっしゃっておられます」
「それは助かります」
大喜爺ぃが売っている柔らかい『石鹸』は非常に高価な値で売られているが、俺が材料と化粧箱を買う場合は、はした金で準備できるのだ。
発案者の特権だ。
最後に、これから手紙を書く機会が増えるだろうという配慮で、親父 (信秀)の配慮から千秋季光の推薦で、大喜東北城主の岡本-久治から岡本-定季を習字の教師として譲ってもらえることが決まり、定季が紹介された。
おぉ、助かる。
「魯坊丸様。お初にお目にかかります。岡本定季と申します」
「よ、ろ、し、ぐ、だ、の、ぶ。さ、つ、そ、ぐ、だ、が…………」(宜しく頼む。さっそくだが…………)
俺は周辺の領主への協力のお願い状の代筆を頼んだ。
仕事が減った。
福は連絡の手紙が書けるが、正式な形式に詳しい訳ではなかった。
どうしたモノかと悩んでいた。
そこに手紙のプロが来た。
ラッキー!
俺は夕食を食べて就寝までゴロゴロを楽しんだ。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
腹を括ったし、本気になると決意した。
だが、ゴロゴロしないなどと言ってないし、決意してもいない。
できる奴に全部振ってゆくぞ。
あとがき
魯坊丸日記 第三十二話 「ゴロゴロするよ」の裏舞台
魯坊丸は自分の幸運に満喫しています。
果たしてそうなるのでしょうか?
あり得ません。
そもそも幼児の魯坊丸に習字の先生を急いで付けた意味は何でしょう。
織田信秀の配慮という文言がキーワードです。
さて、岡本-定季は、信長→信孝→豊臣秀吉→秀頼と渡って仕えた岡本-良勝の父として名が残っております。
この岡本家は信長の子である信孝の産所として、熱田の杜家の岡本良勝の屋敷が選ばれました。
良勝が信長の側室だった坂氏娘の叔父であったからだとされています。
そして、坂氏とは、何者かのか?
調べると、結論がでないほど奥が深いのです。
今となっては、どうして定季を初代の右筆にしたのかさえわかりません。
熱田の武将だったというのが理由の1つでしょう。
決定した理由を忘れました。
わかっているのは、定季が下野守を名乗っていたことくらいなのです。
魯坊丸日記 第三十二話 「ゴロゴロするよ」の裏舞台
魯坊丸は自分の幸運に満喫しています。
果たしてそうなるのでしょうか?
あり得ません。
そもそも幼児の魯坊丸に習字の先生を急いで付けた意味は何でしょう。
織田信秀の配慮という文言がキーワードです。
さて、岡本-定季は、信長→信孝→豊臣秀吉→秀頼と渡って仕えた岡本-良勝の父として名が残っております。
この岡本家は信長の子である信孝の産所として、熱田の杜家の岡本良勝の屋敷が選ばれました。
良勝が信長の側室だった坂氏娘の叔父であったからだとされています。
そして、坂氏とは、何者かのか?
調べると、結論がでないほど奥が深いのです。
今となっては、どうして定季を初代の右筆にしたのかさえわかりません。
熱田の武将だったというのが理由の1つでしょう。
決定した理由を忘れました。
わかっているのは、定季が下野守を名乗っていたことくらいなのです。