二十八夜 魯坊丸、お魚獲りをみる
〔天文十六年 (一五四七年)初夏四月中旬〕
中根南城の西側を通る街道を南に少し、三丁程進むと海が見えた。
遠目に見たことは何度もあったが、眼下に海を見るのは初めてだった。
そこから南西に歩くと夜寒村があった。
この夜寒村は街道村であり、漁師がいるという。
村に入ったが中は閑散としており、人が通っている様子もなかった。
村人は総勢で五十人ほどしかいないらしい。
それでも宿屋があるだけ、マシな宿場だそうだ。
海に出ると舟付き場があり、船頭らしい者がいた。
客と思ったのか、声を掛けてきたが、客でないと知ると舟付き場に戻っていった。
何でも何艘かの舟があるが、漁師の舟は一艘だけだそうだ。
「ぶぅぐ。りょばやずびがが?」(福、漁は休みか?)
「さぁ、わかりません。 漁師も見当たりませんので休みなのかも知れません」
漁師の舟は一艘しかなく、その舟は繋がれている。
漁に出ていない。
早朝に漁にでて朝一番に戻ってくると勝手にそう思っていたが違うらしい。
天気が悪い訳でもない。
漁に出ない理由が見当たらない。
けけけ、俺らの後ろで俺達のようすを見ていたみすぼらしい僧が笑いを上げた。
「坊主は世間を知らぬと見える」
「な、に、も、の、だ?」(何者だ?)
「どなた様でございましょうか?」
「ぶぅぐ。ばぁらつだ、りぶうぼぎげ」(福。笑った理由も聞け)
「何故、笑われたのでしょうか。理由をお聞かせ頂けますか」
僧は声を殺して、しばらく笑い続けた。
答えぬ僧に苛立った護衛が刀に手を掛けたが、俺はそれを仕草で制止する。
抱いていた福から下ろしてもらい、僧の側に近付いてゆく。
もたもた。
あんよが上手と褒められるが、足継ぎがおぼつかない。
それでも近付いて座っている僧を見上げた。
「けけけ、聞きたいことがあるなら、自分の口で聞きな」
「り、よ、う、し、ばぁ、な、ぜ、ご、ぬ」(漁師はなぜ来ぬ)
「漁師が来ぬことが不思議か。海を見よ。もうすぐ潮がひく。潮が引けば、どうなると思う」
「う、み、が、わ、だ、れ、る」(海が渡れる)
「確かに海を渡り、松巨島に行けるが、それは漁師と関係あるのか?」
「な、い」
「では、質問に答えておらんな」
風が吹くと波が荒れるので漁ができないことがあるが、潮が引くと漁ができないという話は聞いたことがない。
俺は首を傾げた。
「けけけ、噂ほど賢くもないか」
「う、わ、さ?」(噂?)
「気にするな。みすぼらしいその日暮らしの乞食僧の戯言よ」
「み、す、ぼぉ、ら、し、う、ど、ばぁ、ご、う゛、ばぁ、い、じ、ぎ、ど、り、が」(みずぼらしいとは、弘法大師気取りか)
「何と言ったかよくわからんが、拙僧を弘法大師と呼んでくれるのか」
「い、づ、で、な、い」(言ってない)
「けけけ、気に入ったので、教えてしんぜよう」
僧が言うには、膝より下に潮が引くのは、この近くでは数カ所しかなく、夜寒もその一つだ。
渡河できる両側も別に平らという訳でもない。
もし、湾状のくぼみがあれば、それを覆うように石を積み、最後に出入り口を閉ざせばどうなるか?
そう問われた。
なるほど、わざわざ漁に出なくとも潮の満ち引きで漁ができる。
生け簀のような所に魚が残っているかは運次第だ。
漁師もいつも満ち引きを頼っている訳ではなく、満ち引きが大きくない日は漁に出るが、満ち引きが大きい日は漁に出ず、潮が引くのを待っているという。
膝まで石を積むのは大変だが、この時期は草履が濡れる程度まで潮が引く。
簡単な罠で魚が獲れるというのだ。
つまり、一年の内で最も満ち引きの差が大きくなる春分と秋分の頃ならではの漁となる。
「けけけ、小さい罠なら年中仕掛けておるぞ」
「お、お、ぎ、い、わ、な、が、し、が、げ、で、い、る、の、が」(大きい罠を仕掛けているのか?)
「当然ではないか。囲う必要がなく、入り江の部分のみ埋めるだけで魚を獲られる」
「な、る、ぼぉ、ど」
生け簀になるような入り江の出入り口をすべて石で埋めるのは大変な作業ではあるが、半年ごとに利用するなら、半年でくずれた場所を補修するだけで再利用できる。
僧と話している間に潮が引き、銛を持った漁師とその妻と子供らしい三人がやってきた。
漁師はこちらを見つけて頭を下げた。
そして、大きな桶を抱えて海へ入っていった。
小さな生け簀に女と子供が入って、ザルで小魚を掬ってとってゆく。
漁師は腰くらいまで深さのある生け簀に入って、銛を使って大物を仕留めていった。
気持ちのよい鮮やかな手腕だ。
下手な兵より筋がいいかもしれない。
漁師が海賊と呼ばれ、海で恐れられるのは、銛使いが多いからかもしれない。
投げ槍も得意そうなので中距離でも戦える。
弓を得意とする武士相手では分が悪いが、足軽兵よりは遙かに強そうだ。
漁が終わった漁師らがこちらに近付いて跪いた。
「どうかお納め下さい」
「あ、り、が、だ、ぐ、も、ら、お、う」(ありがたくもらおう)
「魯坊丸様は魚が好きなので、大変にお喜びでございます」
「ぶぅ、だ、ん、が、ら、も、り、を、づ、が、う、の、が」(普段から銛を使うのか)
「漁は銛でされるのかと、お尋ねです」
「これが一番手に馴染みます」
「あ、び、ばぁ、づ、が、わ、ん、の、が」(網は使わないのか)
「網は使わぬかとお尋ねです」
「使いません」
「だ、い、ぎ、じゃ」(大儀じゃ)
漁師は一番の大物である鯛を献上して去っていった。
ヤッポー、鯛だ。
僧も怪しい念仏を唱えていたので、漁師は近くのびわの葉を取ると、その上に二匹の鰯を置いていた。
僧はびわの葉を畳んで懐に入れた。
「けけけ、これで今日も飢えずすみます」
「い、づ、ぼ、ご、ん、な、ご、ど、を」(いつもこんな事を)
「拙僧は僧でございます。無病息災の読経で願うことで、お布施をいただくのが仕事です」
「ど、ご、が、し、ご、ど、だ」(どこが仕事だ)
「そう言えば、網がどうとかと言っておりましたな」
投網などを持つ漁師はかなり裕福な漁師であり、熱田や津島などの大きな町の近くの漁師しか持ち合わせない。
紀州で地引網がはじまっているらしいが、それもこれも高野山が栄えているからだ。
普通は地引網など買えない。
例外は若狭だ。では、
若狭では、捕れた魚を塩付にして京に運び入れる為に、良質な魚を捕る為に網漁が盛んだそうだ。
「偉いお方が古くなった蚊帳を捨て、その蚊帳を安く手に入れた若狭の漁師が投網をしておりましたな」
「が、や、で、ど、あ、み、だ、ど」(蚊帳で投網だと)
「この辺りの偉い方は、ボロボロになっても蚊帳を使い潰しますが、京の偉い方は見栄えを大事にされますからな」
僧が懐から手を出すと、手の平をこちらに向けて、にぎにぎと動かして銭を要求した。
話もタダでないらしい。
俺が許可すると、福が五文を布施として渡すと、俺の知りたい他国の情報を教えてくれた。
瀬戸内海で鯛の需要が増したらしい。
だが、網は高くて使えない。
そこで葛と呼ばれる葛属のツタを使って網代わりとした葛漁が盛んになり、地漕、沖取、縛などの網漁が考えられた。
今では、ツタではなく網を使う。
それを真似て取り入れたのが、紀州の地引網だ。
まだまだ網は普通に使われていないが、有力者と繋がる漁村では主流になりはじめている。
なるほど、僧が重宝される訳だ。
「よ、い、ご、ど、を、ぎ、い、だ。な、を、な、ん、ど、す、る」(よいことを聞いた。名を何ともうす)
「俊英と申します」
「い、ず、れ、じ、ろ、に、ご、い。う、ま、い、め、じ、を、く、わ、せ、で、や、る」(いずれ城に来い。美味いものを食わせてやる)
「伊豆に行けと?」
「いいえ。魯坊丸様は、いずれ、その内に城に来いと申しております。料理をご馳走するそうです」
「い、ず、れ、だ。い、ま、ぢゃ、な、い、ぞ」(いずれだ。今ではない)
「今はではないと申されておりますので、半年以上は先だと思われます。気が向いたときに城をお訪ねください」
「畏まりました。いずれ、ご馳走に上がらせていただきます」
「そ、う、だ、な。ご、ん、ど、ばぁ、わ、だ、の、ご、ど、し、り、だ、い」(そうだな。今度は綿のことを知りたい)
「魯坊丸様は綿のことに興味がおありのようです」
「綿でございますな。気を付けておきましょう」
そう言うと俊英は村の中に消えていった。
良い話を聞けた。
この夜寒は、干潮を利用すれば、よい漁場になる。
また、兵士に頑張ってもらい。
石を積んで浅瀬の堤防を作り、石灰、砂利、火山灰、海水を混ぜたローマンコンクリートで固めるのだ。
満潮の時に網を張るだけなので地引網のように大勢の力を必要とせず、潮が引いた所で浅瀬となった所をザルで魚を掬う。
ザル漁とでも名付けようか?
余った鰯などは、干鰯にして肥料小屋の肥やしとする。
これなら肥料の予算で運営できる。
魚も毎日のように取り放題だ。
まず、大喜爺ぃに網の調達からだ。
「ぶぅぐ。で、が、み、を、が、い、で、ぐ、れ」(福。手紙を書いてくれ)
魯坊丸日記 第二十八話 「お魚獲りをみる」の裏舞台
俊英さんが初登場です。
というか、こちらも初めて名前を付けました。
網漁はすでに始まっていたのですね。
WEB版を書いている時は知りませんでした。
ですから、網を作らせたから網を調達したに変更です。
小説版では、語ることもありませんでした。
どうでもいい事で話が長くなるのです。
食卓に魚が並ぶようになったというだけの話なのです。
でも、大袈裟な工事は始まります。
魯坊丸は兵士を何だと思っているのでしょうか?
(土木作業員?)
・俊英:オリジナル僧侶であり、乞食僧侶だったが、魯坊丸から河原者などの読み書きを教えることになり、丸根村で観音寺を開く。
〔奈良興福寺多聞院の僧英俊は小牧・長久手の戦いを「今分ハ家康勝ニ可成歟」と書いた〕
◆網漁の歴史
網漁は縄文時代以来行われてとあり、鎌倉時代の末には若狭湾で大型の網がみられ、室町時代には大敷網の原型となるものが使用されていました。
平安時代、網を吊って虫が入るのを防ぐという蚊帳が考案され、その蚊帳は絹や麻でできていました。
この1000年前の蚊帳を、現代のアフリカ人の漁師たちが安価な蚊帳を漁網のかわりにしているというのです。
もしかすると、平安時代の漁師も同じことを考えた方がいるかもしれません。
平安時代には、鯖街道と呼ばれる京都と小浜を結ぶ街道があり、日本海では網漁が盛んでした。
アフリカの漁師をヒントと考えると、因果関係があるように思われます。
しかし、鰯などは卑しい魚として避けられる傾向が強かったので、本格的な漁へと進化でず、庶民が食べる安価な食べ物として出回ります。
ですが、平安の歌人、和泉式部が鰯好きだったとか、しかし、鰯は紫を連想するので、紫式部が「鰯好き」と伝わっていおります。
鯛などの高級魚を捕る過程で、鰯などが捕れ、それをタダ同然の値段で庶民に分け与えられていたようです。
さて、戦国時代末期になると、畿内で衣料用の繊維として麻に替わり木綿が急速に普及したことで、その木綿栽培に欠くことの出来なかったイワシを干した干鰯が盛んになり、曳網漁がはじまります。
曳網漁とは、陸上を拠点として、沖合から網を引き寄せて魚を獲る漁法で、陸で待機している人が陸に向かって引き網を引きながら魚群を網に追い込み、引き寄せて魚を獲るものです。
地引網漁業のルーツは紀州(今の和歌山県)と言われ、紀州の漁師・西宮久助が、黒潮に乗って九十九里浜に漂着し、剃金村(今の白子町剃金)の人に助けられたことから、そのお礼に紀州熊野の地引網漁法を伝授した九十九里浜に伝わったと残っています。
戦国中期には、紀州でも網漁が広まっていたようです。
◆刺突漁
こちらも縄文時代以来の伝統を持つ漁法のひとつです。
縄文時代早期のイルカの骨に突き刺さった状態で出土した黒曜石の銛状の石器が出土しており、また、館山市鉈切洞穴遺跡からは縄文時代後期の鹿の角でできた銛が出土しています。以来、おそらく連綿と刺突による漁は継続されていきました。
江戸時代に手投げモリによる突き取り法で行われていたクジラ漁の影響を受けて、カジキなどの大型魚を捕獲する漁法として確立したと考えられています。
鎌倉・室町時代から江戸時代にかけて鰹節の原型である堅魚が盛んになると、竿釣りや刺突漁が盛んに行われます。
江戸時代中期以降と思われますが、船が大型化すると、かつおの網漁をあったようです。
特に、イルカやクジラでは、竿や網で捕らえるのは無理なので、銛が活躍しました。
◆観音寺
愛知県名古屋市瑞穂区丸根町2丁目54
創建 慶長10年(1605年)
山号、北条山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
阿弥陀如来像は、初代尾張藩主徳川義直から下賜された。
観音堂には、元和8年(1622年)井戸から発見された千手観音が納められている。
寺の位置は中根南城の一部。
嘉永3年(1850年) 十尋堂で寺小屋が開かれ、明治の学制とともに廃止された。
明治6年(1873年) 愛知郡第17番小学正倫学校(弥富小学校の前身)が境内に生まれた。
【あとがきの追加】
・蚊帳の普及率について
平安時代から蚊帳はあったようです。
しかし、天上人クラスの身分の高い人限定でした。
「播磨風土記」に応紙天皇が播磨巡行のと賀野里 に御殿をつくり蚊帳を張ったので「カヤノ」と名づけたという話が残っています。
漁師が捨てる蚊帳を手にいれたとしても、数は少なかったのでないでしょうか?
鎌倉時代の絵巻物「春日権現験記絵」には白い蚊帳が描かれております。
室町時代には、麻で織られた「八幡蚊帳」「近江蚊帳」が流通するようになったとあり、戦国時代には貴族や武士の間で、紗の蚊帳が用いられました。
しかし、蚊帳が高級品であることはからも変わりません。
麻の蚊帳は米2~3石分に相当したとか。
かなり高位の公家や大名クラスのみですね。
江戸時代には、四隅に環の吊り手をつけた麻蚊帳が作られるようになり、商人クラスなら手に入れるくらいには安くなったみたいです。
高級品に変わりません。
この時期になると、普通の麻か、木綿の網が作られて利用されており、わざわざ引く時に重い蚊帳を網代わりに使う者もいなかったと思っております。
猶、蚊帳を網代わりに利用すると、稚魚ごと根こそぎ取るので環境に悪い上、蚊帳が水分を吸うと重くて使い勝手が悪かったと私も思います。
しかし、その総数はわずかであり、心配することはないと思います。
実際、蚊帳を網代わりに利用したという資料は残っておりません。
何でもアフリカの漁民が古い蚊帳を輸入して網代わりに使っているという記事を見つけて、昔の方も同じように利用したのではないかと想像したに過ぎません。
一方、若狭で網漁が盛んだったのは事実です。蔦を網の代わりにつかって瀬戸内海で漁が発展したのも事実です。
誤解をさせたことを謝罪させて頂きます。