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二十三夜 魯坊丸、うどんをつくる

〔天文十六年 (一五四七年)春3月下旬〕

今日の俺は気分がいい。

昨日、母上の精油を作る為に台所をあさっていると小麦粉を発見したのだ。

小麦があれば、色々な料理ができる。

もう離乳食は飽きた。

小麦があればパンができる。

ケーキ、どら焼き、クッキー、カトルカール、パスタ、クリームシチュー、ピザ…………チーズがないのでピザは無理か。

ピザが無理でも、定番のうどんができるぞ。

離乳食を食べ終わったら、イザぁ出陣だ。


昨日、福に聞くと石臼(いしうす)が武家の屋敷では広まっていた。

武士が抹茶で碾茶(てんちゃ)を細かく挽くのに使われ、その他にも非常食を作るときにも重宝されているらしい。

戦で陣中食(じんちゅうしょく)(携行食)として、握り飯・乾飯、兵糧丸、味噌玉、芋茎縄などを携帯するが、非常食として、もち粉・そば粉・小麦粉・きな粉・すりごま・熟し柿を混ぜた団子を持ってゆく。聞くだけで栄養がありそうなものを手当たり次第に混ぜた団子だ。

忍びの非常食である兵糧丸(ひょうろうがん)と呼ばれるものを真似た。

小麦粉やきな粉は料理でもよく使われ、挽くのに便利なのだ。

城主である中根家にも当然あった。

俺は庭師に丈を短くした棒を作って貰って台所へ突撃した。

台所では、連日の次期当主の襲来に緊張が走った。

賄い方が俺に挨拶にくる。


「魯坊丸様。何か御用でございますか。御用があれば、ご足労願うなど致さずとも、こちらから窺わせて頂きます」

「ぎびずるな。ずごじ、ばじゃぼかぎだいだげば」(気にするな。少し場所を借りたいだけだ)

「魯坊丸様は気にするなとおっしゃっておられます。それと、今日は小麦粉を使います。小麦粉と人手をお貸し下さい」

「もちろんでございます」


小麦のことを福に話していたので、先回りして気を利かせてくれた。

板の上に小麦粉が置かれ、手伝いの三人が付いた。

小麦粉の山の上に拳で穴を作り、そこに食塩水を注いで粉ねてもらう。

手伝いはおどおどとした手つきだったが、すぐに馴れた手つきになって、俺が命じることもなく『水まわし』をはじめ、そのまま生地作りをはじめた。

俺は言葉も止まり、息を潜め見入ってしまった。


「ふぐ。うどぶばすぎが?」(福。うどんは好きか?)

「福はうどんが好きでございます」

「づぐでいるのば、うどぶだ」(作らせているのは、うどんだ)

「やはり、うどんでございましたか」

「りぐうぞぐいがいぼだべだい」(離乳食以外も食べたい)

「そうおっしゃって頂ければ、作らせましたのに」


うどんがあったなど知らなかったのだ。

素直にうどんが食いたいと言えばよかったらしい。

福を驚かそうと考えて失敗だった。

手伝いの手つきも堂に入っており、俺が指示する必要もなかった。

終りが近付いてきたと思った所で意外な行動になった。

なんと餅のように小さく丸め出したのだ。


「ばで!」

「魯坊丸様、どうかしましたか?」

「ざぼぼう゛おどめど」(作業を止めろ)

「畏まりました」


福は慌てて作業を止めた。

どうやら福らがいう『うどん』とはうどん団子汁のことだった。

最後の手順が違った。

俺は棒を渡すと「押してのばし」「巻いてのばし」「たたんで切る」を教えた。

最後が違ったが、麺が完成した。

次に出汁作りだ。


鰹節(かつおぶし)昆布(こんぶ)が普通にあった。

鰹節と呼ばず、堅魚(かたうお)という。

どちらも貴重品で高価な食材らしい。

湯を沸かし、少し塩を入れて鰹節と昆布を投入する。

味噌の凹んだ溜まりにできた液を投入すると完成だ。

賄い長がシンプルな出汁に驚いた。

庶民なら塩だけも珍しくないが、城主となるともう少し手を掛ける。

シンプル過ぎるなら、養父や母上には(ねぎ)を刻んで添えるように言っておいた。

ひさしぶりのうどんだ。

福が箸で麺を小さく切って口に運んでくれる。

相変わらず、味の良し悪しはわからないが、うどんを食しているというそれだけ満足した。

こうして俺の一日は終わらなかった。


昨日の報告を携えて大喜爺ぃがやってきた。

賄いのうどんを食して、俺の部屋に駆け込んでくる。


「魯坊丸様。この新作の『うどん』を爺ぃに売らせて頂いてよろしいでしょうか」

「あぶ?」(なんだ?)


熱田では、うどん屋がある程度に定番の食材らしい。

味付けは豆味噌を使うらしい。

せっかく、斬新なうどんを売るならば、俺が作った出汁で売りたいという。

好きにすればいい。


「魯坊丸様。そこ相談なのですが、鰹節と昆布を使うと高くなります。それを使わずに、あの味を再現できませんか?」

「ばぶ」(無理)

「無理だそうです」

「そこを何とか。まったく同じでなくともかまいません」


味噌たまりのみなら、どれも同じ味になる。

せめて醤油味になれば、変わった気もするが…………待てよ。

小麦があるなら、『しょうゆ』を造れるぞ。

豆のみで造る『豆味噌』と違い、豆と小麦を半々混ぜて造るのが『しょうゆ』だ。

濃厚な甘味とうま味、香ばしい香りがしょうゆの特長だ。

造り方は味噌とほとんど変わらず、最後に布に入れて絞る過程が違うだけであり、小麦の量を減らすと、独特な香りがする『たまりしょうゆ』も作れる。

その醤油で出汁を作れば、目先も変わる。

鰹節や昆布の代わりになる手軽な調味料なら『塩こうじ』がある。

但し、冷蔵庫がないと保存が難しく、小まめに提供するしかないが、できなくはないだろう。

新鮮な魚を塩こうじに一晩漬けて、それで出汁を取り、醤油で調えれば美味いうどんの出汁になる筈だ。

考えただけで涎が垂れてきた。


「じじ。みぞじぐじんおみずぐでぐれ」(爺ぃ。味噌職人を見繕ってくれ)

「大喜様。魯坊丸様が何か考えがあるようです。味噌職人を用意すれば、堅魚と昆布の代わりがつくれそうです。どうされますか?」

「味噌職人ですな。それならば、ツテがございます。すぐに用意致しましょう」


味噌を造るには、塩は切っても切れない。

本業が塩馬借なので、味噌職人がすぐにでも用意できるらしい。

よし、醤油を作るぞ。

焼き魚に醤油を掛けて、福に食べさせてもらうんだ。

序に、塩こうじ、豆腐、納豆を作らせよう。

どうせ、すべて豆を使う食材だ。

でも、塩こうじは、豆、小麦、米の色々なバージョンがあった方がいいな。

翌日、味噌職人が俺の話を聞いてびっくりした。

えっ、職業が分かれており、麹なら麹職人の分野であり、味噌屋は勝手に作るのは拙いって?

知らん。

何人も職人を抱えてられない。

細かい調整は大喜爺ぃにさせるから大丈夫だ。

俺の一言に味噌職人が青ざめた。

悪いようにしないって。


魯坊丸日記 第二十三話 「うどんをつくる」の裏舞台


なろう定番の『うどん』回です。

うどんが別に珍しい食べ物ではなかったと私は考えており、鰹節も同様です。

うどんの出汁としてシンプルに使われることに驚かれたかもしれませんが、絶賛されることはありません。

WEB版では、敢えて触れず、信長と魯坊丸のやり取りを重要しました。

(正確に言うと、長ったらしくなったのでカットしました)

小説版では、勺が足りないので、さらっと流しました。



石臼(いしうす)

日本に回転式の挽き石臼が伝来したのは7世紀頃であり、『日本書紀』にも石臼が登場するが、その石臼がどんなものだったかを知る資料はない。

一般に出回ったのは、鎌倉時代から室町時代にかけて抹茶を挽く道具として上流階級に普及し、庶民に普及したのは江戸時代中期らしい。

江戸時代の落語に「うどん屋」が登場することから、江戸時代の庶民の味として定着していた。

但し、今の長いうどんではなく、うどん玉であった。

(上方落語には「時そば」ならぬ「時うどん」という噺がある)

うどんの歴史は、何説も存在し、その1つに弘法大師空海が唐の国からうどん作りに適した小麦と製麺技術を伝えたという。

九州もうどん発祥の地と言っており、1241年に修行先の中国から麺や製粉の技術を持ち帰って伝えたのが始まったという。

いずれにしろ、うどんの起源は中国であり、シルクロードを通ってイタリアではパスタになったと伝わっている。


◆鰹節の歴史

鰹節に近いものが日本の文献に登場するのは、奈良時代の和銅五年(712年)です。

古事記に登場する「堅魚カタウオ」は、鰹節の原型とされますが、この堅魚は3世紀中頃、弥生〜古墳時代には作られています。

古代人は堅魚(カタウオ・干しカツオ)と煮堅魚ニカタウオ堅魚煎汁カツオノイロリを創案したとされているのです。

大宝律令や養老律令で、大和朝廷はカツオが取れる国々に対して、カツオ浦(カツオを水揚げする湾)を定めて煮干しカツオと煎汁の献納を強制していたと記されています。

煎汁は大陸伝来の調味料(未醤<ミソ>・醤<ヒシオ>・酢などの発酵性調味料)と肩を並べる純国産調味料として、飛鳥・奈良・平安時代を経て、鎌倉・室町時代まで重用されましたと書かれていました。

つまり、それなり身分が高い方なら手に入ったものであり、殿様なら鰹節を使った料理は珍しくなかったと考えるべきですね。


◆昆布の歴史

鰹節や味噌に比べると、昆布の資料は多く残っていません。

しかし、昆布と思われる海藻は奈良時代の『続日本紀』に登場し、昆布が朝廷に献上されたと記録されています。

昆布は語呂が「よろこぶ」に通じ、「養老昆布」という文字をあてた縁起物として広く使われてきました。

昆布の古い呼称を「ヒロメ」といい、これも「広める」に通じるとして縁起がよいされました。

鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。

昆布が庶民の口に入るようになったとありますが、この庶民とは豪商以上でしょう。

江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになり、今度は、本当に庶民の口に入ったと考えられます。

太平洋回りは江戸時代以降となりますので、当時は日本海回りで敦賀や小浜に水揚げされて、京に届けられました。


◆醤油の歴史

大豆などの穀物に麹菌という糸状菌と一緒に食塩水に浸けて発酵熟成させる「醤」(ひしお)という古くからある調味料が醤油のルーツとして発展していったようです。

鎌倉時代、紀州・湯浅で禅僧。覚心が径山寺味噌の製法から溜り作り、その後、径山寺味噌は紀州・湯浅の溜りとして発展します。

ただ、戦国時代に入ってから保存性が高くかつ作成しやすい味噌を主に調味料として使っていたため、醤の製造が徐々に衰退します。

しかし、同時に室町時代の末期頃から『醤油』という言葉が登場し、この頃から醤を元に醤油の製造が始まったようです。

永禄4年(1561)に下総の野田で、天正2年(1574)には下総の銚子、そして播州(兵庫県)・龍野、小豆島でも溜り醤油作りが始まったとされます。


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