一夜 魯坊丸、織田信秀の十男だって?
〔天文十五年 (1546年)初夏四月から夏五月半ば〕
目を開くと眩しい光が差し、何も見えない。
ここは何処だ。
手を上げて何があるのか確認しようとすると、口に何かを押し当てられて、自然と口がもぐもぐと動いて液体を飲み干した。
目の焦点が合わず、明るいとしか認識できず、耳から雑音しか聴こえない。
何故、こんな不自由な体になった。
思い返しても何もわからない。
腹が膨れると眠くなって意識を失った。
数日、もしかすると十数日は経っていたかもしれない。
日を追う毎に目の焦点が合ってきた。
口に押し付けられた液体が乳だと、すぐにわかったのは早い頃だ。
赤子は乳を美味そうに飲むが、実際は味などわからない。
美味くも不味くもなかった。
ただ、それをすっていると心が落ち着き、腹もおさまった。
そして、数日が過ぎると、耳の調整が進んだのか、音が拾えるようになった。
少し変だが、言葉は理解できるので安心した。
だが、問題があった。
俺の舌が回らない。
俺は言葉を発して話し掛けたが、誰にも理解されない。
戸惑った。
いないいないばあとか止めてくれ。
それの何が面白い。
兎に角、俺の声を聞け!
俺は不機嫌になって声を荒げると、俺が不機嫌というのは伝わるらしい。
俺は必死に伝えようとしたが、その必死さがいけなかったのだろうか?
手に負えないと思った女達が下女らしい女に俺の世話を丸投げしたのがわかった。
育児放棄だ。
乳母も乳を与えるだけになった。
日に二・三度ほど、俺の様子を見に来る母上が来る時だけ、世話をしているように装う。
セコイな。
俺が母上に訴えても、「あぶあぶ」としか聞こえず、母上はにっこりと笑うだけだった。
俺は訴えるのを諦めた。
今思い返せば、あの頃が一番幸せだったのではないだろうか?
寝て、乳を吸って、また寝る。
のんべんだらりゴロゴロのニート生活。
自由に動けないのは不便であったが、良い暮らしだった。
だが、そんな時期は長く続かない。
夏の暑さに負けた。
赤子は暑さを感じないが、体調が崩れる。
何も考えられない日々が続く。
朝から昼頃まで海風のおかげで涼めるが、昼以降が酷い。
そして、俺にとって運命の日を迎えた。
この主は日が暮れる頃に俺の下にやってきて、俺に跪くと『様』を付けて挨拶し、日々の報告をする。
母上が「この子はいずれ養子に迎えるのですから、堂々と呼び捨てれば良いのです」と言うが、養父は呼び方を変えなかった。
村人が“どう”“こう”とか。山を越えた佐久間家の者が五月蠅いとか、加藤-延隆に叱られたとか。
延隆って、誰だ?
知らんぞ。
本当にどうでもよかった。
前日は報告がなく、その日はお昼を過ぎて不愉快な時間が近づいてくる頃に屋敷の主が屋敷に帰ってきて報告となった。
「昨日は信長様の元服の祝いに古渡城に行って参りました。信長様は『うつけ』と評判ですが、噂とはまったく違い。立派な若武者でございました。魯坊丸様の事を気に掛けてくれております。良い兄君になられますと思われます」
ちょ、ちょっと待て!
『信長』、『信長』と言ったのか。
俺の頭はパニックとなった。
女も男も着物を普段着として身に付け、時には鎧姿を見た事もあった。
もしかし、戦国時代に転生したのか?
あり得ないだろう???
しばらくすると、俺が織田-弾正忠-信秀の十男に決まったと憤慨する養父の報告を聞いた。
後から生まれた弟の下にされた事に怒っていた。
そんな事はどうでもいい。
信秀の十男って。
親父、頑張り過ぎだろう。
魯坊丸日記 第1話.「戦国転生だって?」の裏舞台
1546年(天文15年)初夏
主人公は、国土交通省のエリート国家公務員でしたが、不祥事が発覚すると主人公が責任を取らされて左遷されました。(事件には、主人公は関与しておりません)
妻に離婚され、娘らにも会えない生活に変わります。
厚生省への出向で岐阜の山奥に移ります。
主人公は何もする事がなく、そこでのんびりと暮らしていると、村長から『村おこし』を頼まれて、主人公の知識チートが蓄積されたのです。
国家・国民の為に家庭も顧みないで努力した結果、プロジェクトは頓挫、家庭は崩壊、国民から罵倒を浴び、もう二度と目に見えない誰かの為に働かないと心に決めた主人公です。
そして、爺さん婆さんと老後のニート生活を楽しみに定年を間近にして所で、戦国時代に転生しました。
これが主人公設定の設定プロットです。
■魯坊丸が養子に入る中根家の歴史
魯坊丸の生まれた中根家は、三河の中根家から起こったと考えかれます。
その中野家は平清盛の叔父忠正の七男である七郎正持を祖とする一族であり、保元乱(1156年)より後に碧海中根村に逃れ、成人後に額田郡箱柳村に住んで中根を姓としたとされます。
以後、中根家は堂根筋六郷を400年にわたって治めました。
一方、同じ頃に額田郡を拠点にしていた徳川家の祖である松平家は、松平親氏の代に発展します。
松平親氏(徳阿弥)は新田氏の末裔を名乗っていますが、徳川家康が三河守護になるにあたって権威付けの真っ赤な嘘です。
実像の松平親氏は幕府の政所執事(伊勢貞行)に従う(幕府の)時衆僧であり、阿弥衆として将軍に仕え、三河守護の力を弱体化させる為に三河に遣わしたと、最近の研究で考えられており、親氏の代から伊勢家との関係が深くなったと考えられます。
実際、三河には幕府の奉公衆がたくさんいるのです。
さて、政所執事(伊勢貞行)の命によって中山十七名を征服し、松平家は(幕府)御料所を管理する被官として、松平家は西三河で絶大な力を持つにゆきます。
・岩津の戦い:14世紀前葉に山間部の松平郷から平野部の岩津郷へ進出し、岩津城を築いたとされる。
・伊勢貞行:生誕 正平13年/延文3年(1358年)から死没応永17年7月5日(1410年8月5日)まで
・中山十七名の征服:上記の年月日から考えて、14世紀半ば(1370年頃)、室町幕府第3代征夷大将軍 足利義満の在職中。
時代が下がり、この岡崎の松平清康(家康の祖父1511-1535)の時代になると、
中根家は堂根筋六郷は侵略を受け自立を維持できず、松平氏の臣従することになります。
その後、岡崎藩主本多家に仕えた中根家と、江戸で旗本となった中根家(中根主税)の先祖とされています。
一説では、1572年に南下する武田信玄を防ごうとm徳川家康は『三方ヶ原の戦い』で敗北したおり、
中根正照(正秋)は戦死し、正照(正秋)には子供がいなかったので、織田信秀(信長の父)の十男織田信照を中根家の養子としたとか?
中根信照が中根忠実(實)と名乗り、本多忠勝の妹を娶り岡崎藩士中根家の初代となった。
忠実は初め家康の子信康に仕えるが、信康の死後家康の直臣に戻る。
その後1590年、本多忠勝が大多喜を領有することになった際に、忠勝に付属され、以後代々本多家の重臣となった。
しかし、説は、後の天下人である徳川家康を中心にみるとまとまっていますが、色々と問題があります。
まず、『三方ヶ原の戦い』の時点で織田家と徳川家は対等の同盟関係であった。
しかし、天正9年2月28日(1581年4月1日)に織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである『京都御馬揃え』では、信照は織田家の者として連なっています。
【京都御馬揃え】
御連枝の御衆
・中将信忠卿(織田信忠)の80騎
・美濃衆・尾張衆、北畠中将信雄(織田信雄)の30騎
・伊勢衆、織田上野守信兼(織田信包)の10騎
・三七信孝(織田信孝)の10騎
・七兵衛信澄(津田信澄)の10騎、
・源五(織田長益)、
・又十郎(織田長利)、
・勘七郎(織田信弌)、
☆中根(織田信照)、
・竹千代(織田信氏)、
・周防(織田周防守)、
・孫十郎
しかも、1582年「本能寺の変」後には、信照は織田信雄に仕えて沓掛2000貫を領しているのです。
徳川家に仕える中根忠実と織田信照が同一人物ならば、尾張と三河に所領を持って、家康と信雄に両属したことになります。
どう考えてもおかしいのです。
信照が本多忠勝の家臣になったのは、信雄の没落後でなければ、辻褄が合いません。
まったくの別人であって、中根家の権威付けで子孫を名乗った可能性もありますが、信雄が秀吉に降伏した後、身の危険を感じた信照が徳川家康を頼ったともかんがえられます。
家康と秀吉が戦った『小牧・長久手の戦い』は、沓掛城主だった信照も徳川方に参戦していたと考えられます。
信雄が秀吉と和睦した時点で、徳川は撤退しますが、信照は秀吉を疑っていたので、家康と頼って逃げたと考えるのは素直な判断です。
(信雄の下にいる事に身の危険を感じた)
つまり、『三方ヶ原の戦い』で織田方として参加した信照はと、徳川家の家臣の中根正秋は別人だった。
この戦いで、中根正秋は戦死したのかもしれません。
また、信照は本多忠勝の妹を妻に迎えることとなり、徳川家との縁が深くなったと考えられます。
そして、『小牧・長久手の戦い』後に、信照は中根家の養子に入ることになった。
家康の子信康に仕えていた中根家は、謀反人の信康の家臣として不遇な立場であり、信照は中根家の養子に迎えることで立場を一新できたと考えられます。
さて、そんな仮説を立てて、信照の養父である中根忠良の生い立ちを想像しました。
家康の祖父松平清康が額田郡箱柳村の中根家に侵攻し、中根家は松平家に臣従しました。
しかし、中根忠良の祖父忠益は抵抗し、額田郡箱柳村を追い出され、松平清康に対抗している松平信定を頼りますが、信定も追い詰められて臣従したので、忠益は同盟者であった織田信定を頼った。
中根忠益は三河の名家の一つだったこともあり、織田信定は受け入れます。
また、織田信照には、中根家の血も流れているという説もあり、そこを踏まえると、中根家は熱田神宮とも関係が深かったと考えられます。
中根忠益の代に熱田の大喜家に娘を嫁に出していたと考えると、熱田の楊貴妃を謳われる信照の母は大喜家と中根家の間に産まれた娘だったとも考えられます。
そう考えると、忠良と信照は叔父と甥の関係となり、信照が中根家に入ることに抵抗なくなります。
天文四年(1535年)十二月『森山崩れ(守山崩れとも)』で松平清康が亡くなると潮目が変わります。
また、天文七年に織田信定が死ぬと、勝幡城を任されていた息子の織田信秀が後を継ぎ、同年に那古野城を計略により今川氏豊を追放して城を奪います。
当時、信秀は熱田の楊貴妃の元に通っていたので、娘を手に入れる為に那古野城を奪ったという説に繋がります。
※信照の母は中根七郎左衛門康友の娘という説もありますが、大喜家の娘という説と食い違います。
そこで中根七郎左衛門康友=中根忠益とし、忠益の娘が大喜家に嫁ぎ、大喜家の娘が熱田の楊貴妃という風に辻褄を合わせております。
熱田を手中に収めた信秀は、家臣である中根忠益とその子忠良に中根南城を築城させて守らせることにさせたと設定しました。
残念ながら中根南城には、築城者などの資料がなく、誰か建てたか不明です。
小説の設定では、中根忠益に中根南城を作らせ、その近隣に中根村が生まれていったとしました。
また、この地は熱田領の長根荘と呼ばれ、村上一族が抑えておりました。
その為か、中根南城には、北城と中城という出城があり、村上小膳と村上弥右衛門は配下の者を置いております。
大喜家は熱田の名家ですから村上一族とも縁が深く、信照が城主となれば、言うことを聞くでしょう。
そんなことを考えて、父の信秀が熱田掌握の為、中根忠良に預けたとも考えられます。
張州府志によれば、「村人の話では、織田越中守は天性の魯鈍な人物で、常に城にこもって外へ出ることはなかった。馬を1頭飼っていたが、周りには50頭以上いると言いふらし、その1頭だけの馬を下僕に1日中洗い続けさせ、たくさんいるように見せかけていた。」と書かれています。
ただ、張州府志は信照の時代より180年ほど後の宝暦二年(1752年)の完成です。
天正九年(1581)の馬揃の際、御連枝衆として中根と書かれているので、中根忠良の後を継ぎ、中根家の当主、あるいは、中根城主だったとも考えられます。
※残念ながら風評のみで、真実を語る資料は多くございません。<残念>