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十八夜 魯坊丸、作付けの報告をきく

〔天文十六年 (一五四七年)春3月中旬〕

種捲きの季節となり、長根の各村の代官一同が中根南城に集まった。

この代官は村人の中から読み書き算盤ができる者を撰び、親父、織田信秀の直臣として召し抱えられ、才能が認められると城仕えも夢じゃない。

槍に自信がない若者にとってチャンスである。

特に野心がある者は骨身を惜しまず、親父の為に働いてくれるという。

そんな長根の代官一同が集まり、作付け報告する。

養父はそれを纏めて親父の所に持ってゆくので、親父は味方の石高を把握でき、兵を何人出せと命令できた。

これなら、領主が石高を偽って兵を出し渋るのを防ぐことができる。

しかも抜き打ちで調査が入るので下手な小細工はしない方がよいと、養父が俺に説明してくれた。

なるほど、巧い手だ。

この周辺では織田弾正忠家しかやっていないという。

確かに守護、守護代、地頭、預所代、目代、小守護代、地頭代、荘官など様々な役職名があるが、総じて言えば、領主、あるいは、領主に代わって土地を管理する代官である。

この領主と代官を監視する代官を置くことで、親父は全体を把握しているようだ。

養父は城主だが、この熱田では古くから存在したので熱田領の荘園が多く、荘園の代官である荘官が力を持っている。

だから、新しい城主らは土地の者を嫁に迎えて、土着化して信頼を得るように動く。

俺は織田、中根、村上の血を引いているので、親父が一番御しやすいと考えたのだろう。

何事もなく進めば、養父の側室の娘が俺の嫁になる。

まぁ、まだ生まれていない架空の娘だけどね。


しかし、親父はすべての土地を監視している訳ではない。

寺院の荘園や独立領主の土地も点在する。

この熱田において独立領主の筆頭は、地頭も兼ねる志水甲斐家であり、幕府の御家人ゆえに親父も手が出せない。

志水甲斐家は形ばかりの臣下の礼をとっていた。

臣従ではなく、同盟に近い。

臣従と同盟の違いは、親父の代官を派遣しているかいないかで決まる。

俺は上座に座らされて報告を聞く。

「以上が今年の年貢高となる予定でございます」

「だ・ひぃ・ぎ」(大儀じゃ)

これが俺の仕事だ。

年貢は六公四民であり、織田弾正忠家の年貢は六割、民が四割である。

これはかなり厳しいと思った。

「で、ん、ぐ、ば、ぎ、び、じ、ぐ、な、い、が」(年貢は厳しくないのか?)

「魯坊丸様は六公の年貢が厳しくないかとお尋ねです」

「確かに大変ですが大丈夫でございます」

親父は民の不満が爆発しないように気遣っていた。

昔、『泣く子と地頭には勝てぬ』と言われるように、平気で八公にする領主も少なくなかったという。しかも、城や河川の工事で課役を命じ、戦が起これば徴兵を命じる。

無理難題を押し付けるのが地頭であった。

それに比べると、織田弾正忠家は一定の年貢を納めるだけで土地を守ってくれ、課役も少ない。

酷い地頭に比べれば、天国だという。

「信秀様は、麦や豆などを奨励され、そちらには税を課しません。しかも商人や職人の請負仕事にも税を取りません。副収入が多く、村は潤っております」

親父は副産物を奨励し、そちらには税を課さず、副業を奨めているらしい。

以前より、生活が軽くなったと喜ばれていた。

まぁ、成り上がりの織田弾正忠家が国人に認められる為に、公正で公平、無理を課さないことを心掛けているようだ。

だが、きっちりと石高を把握しているので、他の大名と比べると兵が充実しているようだ。

課役、そんな言葉が一抹の不安がよぎった。

「ぶぐ。ごんがぎぼ、じおぶずいぎぼ、がえぎになぶが?」(福。今回の浄水器も課役になるのか?)

「いいえ。魯坊丸様の呼び掛けに長が応えただけであり、課役とはなっておりません」

「ぞぶか」(そうか)

種捲きの忙しい時期に、十人も人手を寄越してくれた。

しかも十日も掛かった。

毎日、茶と茶菓子が出され、帰りに餅を一人三個ずつ持たせたが、日当としては破格に安い。

時期的に迷惑を掛けたのが間違いない。

俺が「礼を言いたい」と言うと、すぐに呼びましょうと言ったので止めた。

呼びだすなど傲慢だ。

俺から訪ねたいと言うと、福がすぐに手配すると言ってくれた。

翌日、長根村の長が村総出でお出迎えしますという返事を、福が持って帰ってきた。

えっ、どうしてそうなる。

今更、取り止めにできない。

二日後、長根村を訪問すると、村の手前から祭り旗のようなのぼりに『魯坊丸様、歓迎』の文字が棚引いていた。

俺、帰ってもいいですか?


魯坊丸日記 第十八話 「魯坊丸、長根村にゆく」の裏舞台


挿絵(By みてみん)


標高図と現代の地図を重ねたものです。

天白川の旧河口付近、中坪町は綺麗な枡状の道があり、埋め立てられたことが判ります。

また、長根荘の海岸部も枡状なので、おそらく海の一部だったと思われます。

そう考えますと、中根南は笠寺台地(松巨島)方面に突き出す半島のような状態です。

中根南城の西側に夜寒と呼ばれる宿場町があり、井戸田の山崎との間には、山崎川が流れ込み、(仮)山崎湾という感じの入り江があったと推測できます。


昔の地図を探すのが難しいですが、標高の地図と曲線の道が重なることがよくあります。

市丘町が本当に丘の上であり、昔の日向町の側まで海が迫っており、海側から日が昇るから日向なのでしょう。

川に近付くと綺麗な枡状の道が続きますが、山側の道は山際に沿って道が歪んでいます。

そこが昔の旧道ではないでしょうか?

長根荘がそこにあったことは判りますが、どこに村があったかは判っておりません。

そういう訳で瑞穂区の中根南城の東側には、塩窯神社、日光院、宝泉院、大泉院、性高院、行信寺、立田寺が並んでおり、そのラインより西側に村と田畑があると仮定して話を進めております。

今も、どこかに史跡や文献でも残っていないと探しております。


さて標高の地形図を見ると、少し小高くなった面に、中根北城、中根中城、中根南城が建てられて、熱田に入る敵を防ぐような位置に城があり、織田信照の中根南城は海岸に近い場所です。

中根南城の東側に長根荘があり、少し低くなっていました。

城の南西側に位置する海は浅瀬であり、干潮時には笠寺に渡河できます。

また、鳴海側へは舟を使って渡っていた中道と書かれています。

(※.さくら山の山頂がどこにあったのか不明であり、名残として桜山の地名のみ残っています。作中では、適当に中根北城の北側にある山としております。標高は20mから25mだったでしょう。しかし、山の東面に施設を作ったとすると、山を越えた西側から見え辛く、人工石炭や鉄工房を建てるのによく、また、川を挟んだ鳴海方面からは、尾根が邪魔で見え辛い日向町の北、瑞穂運動場東駅と書かれている付近という設定になっております。

猶、魯坊丸の寺小屋(学校)は、日向町辺りに建てたと仮定しております。

村があった場所が見つかると、ブッキングがぶつかりそうで怖いです。

さくら山の東側は尾根が入り組んでおり、逆に西面は穏やかです。

つまり、西側は大喜の上空を飛び、海を出ると熱田湊へ繋がるのです。

WEB版の飛びハンググライダーがさくら山から滑空して飛ぶシーンがありますが、これが中根南城の上空を飛ばない理由であります)


地頭とか、独立領主とは、ほとんど名前だけで意味がありません。

信長や家康に従って終りです。

話がややこしくなる上に進行にほとんど寄与しないので、あってもなくともよい存在です。

しかし、割と重要なファクターな武将もいます。

知多の地頭で荒尾氏は室町幕府の御家人を兼ねていましたが、戦乱の中で滅ぼされ、知多郡大野城主佐治為貞の子善次空善の婿となって荒尾が氏を継承しました。

為貞は反今川派として信長を支援しましたが、桶狭間の戦いの頃には今川方に属しておりましたが、娘を池田家に嫁がせていたので、織田方に戻ることが許された家です。

その父、荒尾空善なんてマイナーな武将はほとんど注目されません。

そんな武将を掘削するのが、『魯鈍ノ人』であります。

一方、志水甲斐守は熱田の方面に根付いていた独立領主と思われますが、ほとんど名前が残っておらず、江戸時代になると尾張藩の家老として登場します。

戦国時代をどうやって乗り切ったのか気になる存在です。

WEB版も小説版でも地頭とか話はできませんでしたので初登場です。


◆中世の土地の管理者

代官:預所代、国司の目代、守護代、小守護代、地頭代、荘官などを差し、公領および所領の政務・支配を代行する者をいう。


領主:土地を所有し、土地の民を直接的、あるいは、代官によって間接的に支配する者。


地頭:地頭(じとう)は幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した役職であり、平安時代は現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司、郡司、郷司、保司)を任命したが、幕府から御家人が派遣されて年貢を管理するようになった。地頭は武士であり、紛争などを暴力的に解決した権限を有しており、荘園領主に無理難題を与えることから「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉が生まれた。

室町以降は、地頭も国人に変質してゆき、名家を示す名誉職として代々名が継がれるようになったが、国人として実力のない者は淘汰された。


国司:朝廷から任命され派遣された官吏たちであり、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)史生ししょう博士(はかせ)医師(いし)などの官位を持つが、室町時代以降になると領主が領地の正当性を求めて官位を授かった。

守護代:守護に代わって職務を代行する者であり、その土地の有力な国人がなる場合が多かったが、他の土地から来た有力な国人が根付くことを多かった。

国人:国衆(くにしゅう)とも呼ばれ、荘園と公領の管理者となった郡司(ぐんじ)郷司(ごうじ)保司(ほうし)荘官(そうかん)の総称であり、惣領を中心に独自の勢力を持つ武士を差し、土豪(どごう)地侍(じざむらい)とも呼ばれる。

郡司:国司から郡の行政を任された者であり、国人から撰ばれる場合が多かったが、国司が名誉職になると、郡司も名家を示す肩書きとなり、国人として実力を失うと淘汰された。

郷司:郡の下部組織であった郷を治める者であったが、郡司に成り代わって、その土地を管理した。郡司と同じく、国人として実力を失うと淘汰された。

保司:保は天領を指し、小さな荘園の管理者という意味である。荘園領主から任命され、荘園を管理し、荘園内の一切の雑務をつかさどった役人である。公の荘園に対して、私の荘園を(しょう)と呼び、庄司(しょうじ)を据えられる。保司、庄司を総称して、荘官(そうかん)と呼ぶ。

庄司:荘司とも呼ばれ、荘園領主から任命され、荘園を管理する者である。保司、庄司を総称して、荘官(そうかん)と呼ぶ。

荘官:領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称であり、開発した田畑を朝廷や有力な公家、神社仏閣に寄付して荘園領主から管理を任された者を荘官と呼ぶ。


◆尾張の国の地頭

鎌倉時代、尾張守護として小野氏・中条氏・名越氏(北条氏一門)が任命された。

地頭:志水甲斐守、山澄淡路守、成瀬織部、遠山靭負、千賀志摩守、水野内蔵、高木修理

熱田の近くは志水甲斐守の勢力が大きかった。

江戸時代、尾張藩士の格式は12段階あり、この格式により役職が決められていました。

御目見以上は万石以上が最上位で、成瀬家・竹腰家・渡辺家・石河家・志水家の5家となっています。

この志水家は、尾張藩の家老職に就いていることからも格式高い家であることが判り、戦国時代に名が上がっていないですが、熱田地方でずっと存続していたと思われるのです。

甲斐氏が足利家直属の御家人であったことから、志水甲斐家も御家人として中立の立場を維持できたのではないかと想像しております。


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