八十五夜 遊戯道(アスレチック)の珍劇
〔天文十九年 (一五五十年)8月中旬〕(8月12日から17日)
八月二日に大雨が降った。
天白川の上流で河川が溢れ、氾濫を起こして大きな被害を出した。
河川工事を一時中止した。
平針上流に設置した霞堤が巧く機能し、水の流れを湾曲させて被害もなくやり過ごせた。
濁流が土手を越える事もなかった。
水が引くと、流れてきた土砂と石の片づけだ。
十日ほど掛かった。
その間、俺はずっと今川の動向を気に掛けていた。
上流の丹羽領は洪水で酷い被害であり、好機と見て今川勢が動くのではないか?
平針から二里半(10km)の福谷城が陥落したので、急げば一刻(2時間)で平針を攻める事ができた。
被害が大きい丹羽家を見て、弾正忠家も混乱していると考えておかしくなかった。
しかし、弾正忠家で大きな被害を出したのは、手付かずの土岐川 (庄内川)の北側のみだ。
ギリギリ土手を越えず、津島方面も大きな被害はなかった。
先に全体の土手を拡張したのが正解だった。
いつ攻めてくるかとドキドキしているのも十日も続けば、状況が変化しない事に慣れた。
むしろ、今川勢は博打に出てこない確信に変わった。
さて、同時に三河へ放った望月衆が次々と報告を入れてきた。
義元は西三河の矢作川より東側の多くの寺々に安堵状や寄進で取り込んでいる。
もっとも寺々は今川家の統治に警戒している。
今川家の先代氏親が『今川仮名目録』で、神社仏閣の領地に「守護不入」と定めた。
一見、守護は寺領に手が出せないとも読めるが、「寺院だろうが神社だろうが有力な家臣であっても、守護は入ってはならない場所はない」と公言したからだ。
あくまで守護が認めているに過ぎない。
他にも義元の革新的な制度を次々と打ち出していた。
主に寄親寄子、喧嘩両成敗、検地、年貢未入の禁止、宿場制、関所の廃止である。
しかも義元は家臣を城下町に集め、商工業者を家臣に組み込み、木綿などの産業育成し、街道の整備、関所を減らし、治水工事を推進している。
調べれば、調べるほど、最先端の政策を取り込んでいる事がわかってきた。
石高は駿河・遠江・三河を合わせてもかなり少ない。
確か戦国末で尾張五十七万石に対して、駿河・遠江・三河の三国で七十万石でしかない。
織田家と今川家の国高の差はあまりない。
しかし、今川は金の採掘と交易と手工業を伸ばしているので、十年も続ければ、国力は高くなっていただろう。
俺が居なければ、今川家は国力で弾正忠家を圧倒したに違いない。
そう、俺が居なければ……。
実際、熱田と津島が交易力を伸ばしている。
琉球交易で弾正忠家が潤っている事は今川にも周知の事実だ。
義元も危険性に気が付いる……と思う。
弾正忠家の経済力を危険視して、どこかで大博打の決戦を打つのではないか?
それが俺の予想だ。
あと十年、永禄三年頃までのんびりと進めたいと思っているが、未来は定かでない。
先が見えないのは厄介だ。
この十日間、今川勢は福谷城の周辺の乱取りを繰り返すばかりだった。
沓掛城の近藤-景春も討って出る事もなく、親父への援軍要請を再三に渡って要求した。
親父も佐久間-盛重などに兵500人ほどを預けて援軍を送っていたが、自ら出陣して決戦を挑む様子はない。
昼食の後、大切なお昼寝タイムを満喫していると、さくらが廊下を駆けて部屋に入ってきた。
「若様。遊戯道 (アスレチック)が完成しました。検分して欲しいそうです」
「判った。俺は先に裏庭へ行く。さくらは里の部屋で行って、二人を呼んでこい」
「畏まりました」
さくらが“とりゃ!”と叫んで駆けていった。
裏庭とは、城の東にある広場だ。
一時的に望月衆の屋敷にしていたが、黒鍬衆を解体して鍬衆をたくさん作った過程で宿舎が足りなくなり、黒鍬衆の屋敷とした。
今年の春、さくら山の麓に新しい宿舎が完成し、黒鍬衆が出ていった。
しばらく休暇で戻ってくる鍬衆の臨時宿舎としていた。その役目も臨時宿舎の訓練場で増築されれば終わりを告げた。使い道がなくなったので、物置代わりに俺の別邸とした。
俺の荷物が増えており、物置小屋に入らなくなってきたからだ。
しかし、本邸から別邸に行くのに城をでるのも不用心なので、城の東側に門を作り、渡り廊下で本邸と結んだ。そして、別邸の前にある広場を改造して子供用の遊戯道を作らせたのだ。
お市は里と違って活発な妹だった。
はっきり言って付き合っていると体力が持たない。
鬼ごっこは、お市とのおいかけっこだが捕まらぬお市を追い掛けてエンドレスになる。
チャンバラは、竹刀なのにお市が急所を狙ってくるので命懸けだ。
剣道で使う面と胴を作らせたが、防具のない箇所は痛い。
お昼寝の後に夕方まで付き合わせられるとクタクタだ。
身が持たないので半分を勉強に割いた。
古来の娯楽である射的の小弓、投壺、駒遊び、弾棋、偏継などでも時間を潰したが間が持たない。
お市にはワクワクが足りない。
そこで数学の勉強のトランプと花札を作った。
続けて、地理の勉強で尾張一周の双六、和歌の授業に小倉百人一首、将棋や囲碁を簡単にしたリバーシを作らせた。
お市が熱中したのは、積み木崩しのジェンガだった。
体を動かす運動系の遊びを半刻(一時間)まで減らす事に成功した。
だが、半刻でも少し辛い。
元気過ぎるお市の為に、安全かつ一人で遊べる遊戯道を作らせてみた。
依頼してから、あっという間に完成だ。
一つ一つを確認して納得した。
すると、さくらに連れられてお市と里が元気一杯にやってきた。
「路兄じゃ、急いで来いとさくらが急かすのじゃが、何があったのじゃ」
「兄上、何の用でしょうか?」
「二人の為に遊び道具を作らせた。試してくれ」
「おぉぉぉぉ、よく判らないのじゃが、わくわくなのじゃ」
「里もやってよいのですか?」
「もちろんだ」
さくらは二人に特殊な分厚い足袋を履かせた。
さくらと里が駆けてゆく。
まず、簡単な丸太飛びだ。次に、高さのないジグザグ平均台。網の梯子を登って、ロープにぶら下がって滑走するターザンロープ。丸太の上を歩く丸太わたり。懸垂しながら渡る雲梯、高さはないがロープに吊った板の上を歩くスカイウォーク。最後に丸太を組んだ三角の梯子を組んだ枠上り(ジャングルジム)だ。
お市がぐるっと外を回って戻ってきた。
「あははは、楽しいのじゃ」
「それはよかった」
「魯兄じゃが考えたのかや」
「そうだ。俺の大工衆と望月衆が作った」
「千代女、さくら、ありがとうなのじゃ」
少し遅れて、里も戻ってきた。
次に俺は「里が先に走って、お市が十数えてスタートしてみよう」と言ったが、「次は、魯兄じゃとの勝負なのじゃ」と言って、千代女に背中を押されてお市と勝負させられた。
もちろん、競争が一回で終わらない。
お市が一人でも楽しめる遊戯道なのに……結局、俺も走らされた。
お市と里が楽しんだのでいいけどね。
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八月十五日は津島の秋祭だ。
市神社(津島神社の境外末社)のお誘いでお出掛けだ。
たまに津島に行かないと、津島衆が臍を曲げる。
三泊四日のお泊まりだ。
疲れて中根南城で戻ってくると、お市と里に誘われて遊戯道を一緒にやった。
えっ、ちょっと待て!
平均台の角材が細い丸太に代わり、ターザンロープの高さが増し、枠上りが岩上り(ロッククライム)になっていた。
かなりの難度アップで完走できない。
お市の希望で少し上げたって?
冗談じゃないだろう。
もう遊戯道じゃなく、難戯道(スパルタンレース)だ。
俺が苦情を出していると……お市が軽々と完走してしまった。そして、里もなんとか完走している。
兄としての威厳がヤバぃ。
もう今川とか言っている場合じゃない。
翌日の早朝からランニングの時間を増やしました。
■今川義元書状からの今川目録の『守護不入』
天文九年に今川家臣の天野与四郎に『不入』における特権は、『火急之用』があれば、『印状』を以て別途申し付けると書かれている。
■今川義元書状からの動き
天文19年
1/28 治部大輔 花押 海雲寺 安堵状
2/25 治部大輔 花押 妙覚寺 免許状 (豊川市八幡町黒仏)
3/18 治部大輔 花押 長虎蔵司 安堵状 (極楽寺文書、多郡東浦町、新城市、岡崎市、豊川市)
4/8 義元 朱印 浦西方神主 沙汰状 (浦神明宮文書、岡崎市日名町708)
4 治部大輔 花押 杉山惣兵衛 安堵状
6/13 治部大輔 花押 大樹寺方丈 安堵状 (三河矢作川東側)
7/10 治部大輔 花押 平田寺 安堵状 (蒲郡市平田町?)
8/3 治部大輔 花押 慶覚寺 安堵状 (豊橋市下条西町西郷廻)
8/6 治部大輔 花押 別当多門長通 寄進状 (駿河須津八幡社修理料寄進)
10/8 治部大輔 花押 真如寺 安堵状 (蒲郡市)
10/10 (義元) 花押 大樹寺 定書 (岡崎市)
10/10 治部大輔 花押 大樹寺方丈 安堵状
10/12 よしもと 花押 覚平寺 宛行状
10/13 治部大輔 花押 惣社神主千法師 修書 (見付天神、見付惣社神主職相続安堵)
11/8 治部大輔 花押 牧野出羽守 安堵状 (牛窪城主、牧野保成)
11/9 治部大輔 花押 長田喜八郎 宛行状 (三河国大浜、大浜城城主長田広政)
11/9 治部大輔 花押 桜井寺 安堵状 (岡崎市)
11/13 治部大輔 判 天野孫七郎 宛行状 (大浜? or 天野家関係者)
11/13 治部大輔 花押 天野安芸守 修書 (遠江国周智郡犬居谷、犬居城主 天野 景泰)
11/25 治部大輔 花押 林二郎兵衛 免許状 (八幡惣社領之内、豊川市、林孫八郎光衡の子に、今川義元の旗本
で、林次郎兵衛光清)




