十五夜 魯坊丸、蝋燭の木を薦める
〔天文十六年 (一五四七年)春二月末〕
手押し竹ポンプ、これが完成したことで俺を見る目が急変した。
この中根南城の周辺は長根荘という荘園が広がり、村上一族が支配する土地である。
俺は村上の血縁として大事にされていた印象が強かった。
だから、織田家をヨイショする千秋季光が俺のことを熱田明神と触れ回っていてもどこか冷めていた。
そう言っても長根荘は熱田神宮の荘園である。だから、大宮司の季光の言葉を無視できない。
そんな感じだった。
だが、手押し竹ポンプという摩訶不思議な道具が作られた。
棒を上下するだけで水が吸い上げられて蛇口から水が溢れる。
それは神通力で水を吸い上げているようだと誰か言った。
そして、誰もがそう考えたようになったとか…………意味はわからん?
福は俺に教えられたように気圧差を使った吸い上げに過ぎないと説明したそうだが、誰も信じてくれない。
俺が祈祷で病気が治ると信じられないように、多く者は神秘的なことを神通力と考える。
その方がわかりやすいようだ。
そう言えば、誰からか言われたような気がする。
真実を知りたいのではなく、誰かが助けてくれるという嘘を信じたいのだと。
だから、詐欺師がいなくならない。
兎も角、母上、福、庭師などの身近な者を除くと、俺が熱田明神かもしれないと思いはじめた。
近場の毫家とか、僧侶とか、珍しいものを見にくるようになり、その客に一々説明するのが面倒になってきた。
もう勝手にしてくれ。
さて、蒸留器(ランビキ )の説明を聞いて青ざめた顔をして帰っていった大喜爺ぃがウキウキとした顔色で登城してきた。
「じぃ~、じょ・ぎ・げん・だ・な」(爺ぃ、上機嫌そうだな)
「魯坊丸様。お喜び下さい。炭焼き窯と蒸留器(ランビキ)の目途がつきました」
「だ・ひぃ・ぎ」(大儀じゃ)
「すぐに職人を寄越しますので、詳しい話をお願い致します」
「ばばぶぅ。ぶぐ、ばんどびづげぼ。びがじ、ばびがばっだ?」(わかった。福、準備をつけよ。しかし、爺に何があったのだ?)
一言ずつ発声は面倒になったので、俺は早口で一気に話しはじめる。
当然、大喜爺ぃは何を言っているのかわからないので福を見た。
福にゆっくりと大喜ぃに答えた。
「大喜様。魯坊丸様は何があったのか不思議に思っておられます。以前、体を小さくされてお帰りでした。しかし、今日は自信に溢れております」
「あははは、そのことでございますか」
大喜ぃは炭団で儲けたので、来年に備えて場所や人を確保した。
さらに、『ふにゃ石鹸』(ソフト石鹸)で大儲けできると、追加で材料を大量に用意したという。
このソフト石鹸は材料がありふれており、すぐに真似されると言った記憶があった。
ならばと、大喜爺ぃは敢えて高値で売るのではなく、武家なら買える値段に抑えて、大量に売って大儲けしようと企んだ。
倉の鍵を開いての大博打だ。
追加の布団と軟膏でもヒットしているが、綿と蜂蜜が余り手に入らないので大儲けとはならなかったらしい。
そこに、さらなる炭焼き窯と蒸留器が追加された。
その話に大喜爺ぃは焦った。
儲けている商家と言っても大喜爺ぃの限界を超えていたのだ。
創意工夫できるような腕の良い職人のツテもない。
何よりも俺の期待に添えないと、俺が他の者に儲け話をもっていってしまうのでないかと焦った。
だから、出来ないと言えなかったと言う。
「私は困り果てて、長の五郎丸様に泣き付きました」
大喜-五郎丸は大喜一族の長であり、熱田神宮の神官である。
息子が大喜田光城の城主を務め、井戸田荘と田子荘の二人の荘官も一族の者らしい。
つまり、熱田神宮の直轄地の東側一体を五郎丸が支配しているのだ。
そう言っても大喜五郎丸のみで荘園が守れる訳もなく、熱田神宮の力も絶対ではない。
だから、親父(織田-信秀)の庇護下に入っている。
一方、養父の中根-忠良は親父の家臣であり、千秋季光の与力として中根南城に入っている。
千秋季光は熱田を取り仕切り、養父は織田家臣として土地を監視している。
だが、実行支配しているのが荘官であり、城主より荘官の方が強かったりする。
熱田神宮や荘官などの機嫌を取りながら、織田弾正忠家は緩く支配している。
この微妙な力関係が判るだろうか?
兎も角、大喜一族の長である五郎丸が大喜爺ぃを歓迎してくれた。
「銭ならいくらでも貸すと申しております」
マジか!
催促なしの無利息で三百貫文 (三千六百万円)くらいなら貸してくれるらしい。
三百貫文とは大盤振る舞いだ。
百貫文あれば、武士として一人前の俸禄である。
槍一本で一貫文 (十二万円)。
鎧一セットで五貫文 (六十万円)。
騎馬武者鎧一セットで十五~二十貫文(百八十~二百四十万円)。
馬が三貫文 (三十六万円)。
鉄砲が五~十五貫文 (六十~百八十万円)、弾一発で百文。
〔最初の種子島は、銀二千両 (千貫文、一億二千万円)とある〕
因みに、熱田神宮の年貢は千三百貫文程度であり、井戸田荘の年貢はその半分くらいだ。
三百貫文が、如何に大盤振る舞いかがわかるだろうか?
だが、大喜爺ぃの話は終わらない。
五郎丸は熱田の神職であり、熱田衆である商人の惣に顔が利く。
そもそも五郎丸自身も大店である塩問屋『大喜屋』の隠居だ。
大喜爺ぃの塩馬借『橘屋』とでは規模が違う。
馬借と問屋がどう違うと言えば、馬借は馬の背で荷物を運び、問屋は船を持って海運を商うので動かせる銭の額が段違いに多くなる。
問屋『大喜屋』と馬借『橘屋』では規模が違った。
因みに、塩問屋・馬借と名乗っているが、塩をメインに運ぶだけであり、何でも運ぶ。
運輸業と考えるとわかりやすい。
但し、各地域に座(組合)があり、その座に認められないと荷物が降ろせない。
縄張り意識が強いらしいが、それは横に置こう。
大喜五郎丸の店はとても大きく、大喜爺ぃの店は大きくないということだ。
その五郎丸の口利きで、熱田衆を使って堺や下田と取引ができるようになった。
下田とは、土佐中村の下田湊のことであり、下田は遣明船の寄港地であった。
琉球を通じて明と交易もできる。
琉球貿易か。
「魯坊丸様。五郎丸殿からお願いを聞いております。熱田衆への手土産はないかという伝言でございます」
「でぶばべばびうぶ?」(手土産とはなんだ?)
「魯坊丸様は、手土産とは何を意味するのかと問われております」
「熱田衆にとってうま味のある取引はございませんか」
儲け話か。
そう言われても、“白菜、椎茸、に~んじん季節のお野菜いかがです” と、ラーメンのコマーシャルが流れたが、これは俺が食べたいだけだな。
先のことを考えると野菜の種は欲しいが、早急でない。
この時代で儲かるのは、サトウキビだが尾張に育つかは怪しい。
試す価値はあるが、儲かるとは断言できない…………う~~~~~~ん。
・
・
・
・
あった⁉
俺の脳裏に冬の寒い時期に雨戸を全部しめて、真っ暗な廊下を蝋燭を持って歩く福の姿が浮かぶ。
蝋燭は貴重であり、だからと言って灯明を持って歩くのは危険だ。
灯明は油を入れた皿に火をつけて部屋を明るくする。
しかし、持ち運びに不便だ。
だから、便利な蝋燭を使うが、蝋燭が高価だった。
そんなに高いかと言えば、蝋燭の原料となるウルシやハゼノキの実が輸入品だったからだ。
だが、そのハゼノキがこの尾張でも育つことを、俺は知っていた。
育て方も難しくない。
大体、接木苗で二、三年目、実生苗なら六、七年で、実が取れるようになる。
俺は大喜爺ぃにそれを提案した。
「おぉ、それは素晴らしい案でございます。悟りを得た思いです」
ハゼノキの育て方と蝋燭の作り方を、熱田衆にもってゆく大喜爺ぃの土産話とした。
トマトなどの野菜の種も手に入るかもしれないと、「可能なら」と条件をつけて頼んでおいた。
俺はまだ届かない吉報に胸を躍らせた。
魯坊丸日記 第十四話 「蝋燭の木を薦める」の裏舞台
道頓堀、堂島など大阪に人物名から付けられた地名が多く残っております。
この小説では、熱田の地名などから勝手に名付けした商家が多くあります。
【使った屋号】
判り易さで、本家の大喜五郎丸の本店を塩問屋『大喜屋』とし、大喜嘉平の屋号を『橘屋』、魯坊丸のダミー船問屋『熱田屋』とした。
その他の適当に決めた屋号:鬼頭屋、旗屋、桔梗屋、須賀屋、花屋、切戸屋、河田屋、川並屋、金屋(金山衆)、銭屋、油屋、小川屋
(魯坊丸がWEB版の本編で名乗った『旗屋』の屋号も地名から取ったものです)
さて、どうでもよい設定ですが・・・・・・・・・・・・。
玉屋町に桔梗屋呉服店という店があったそうです。
桔梗屋で連想するのが、漫画『一休さん』の桔梗屋です。
そこから想像して、主人の名を利兵衛、娘の名を弥生としました。
弥生は蘭丸と恋仲になり、信長から貰った八百石を捨てて清洲で呉服屋をはじめる。
それを魯坊丸が助けるエピソードを考えていました。
(※蘭丸とは、伊藤祐道のことです)
しかし、京から清洲に帰ってきた魯坊丸は忙しく、二人の恋仲を助けるエピソードがあったのを、完全に記憶から消去されており、いつの間にか消えました。
(公方様は死ぬ予定が、暴れん坊将軍の受けがよく、生かす事になって、大幅なプロット変更で大忙し、清洲編で出てくる閑話を忘れてしまったのです。桔梗屋さん、ごめんなさい)
因みに、私は玉屋町が熱田の近くにあると勘違いしておりました。
まぁ、よくある名前だから熱田に店が在っても、まぁいいっか。
なお、WEB版『魯鈍人』では、結局、桔梗屋が登場したことはありません。
書籍版では、桔梗屋が登場します。
(書籍化が決まって、資料を見直さなかったら、そのまま消えていたかもしれません)
また、魯坊丸が京で活躍した頃に公家のことを調べていると、天文二十一年(一五五二年)の夏に、京で『風流踊り』が流行ったと知って、もう一年前のことじゃんと涙を流したこともありました。
私は歴史的な史実を題材にエピソードを書くのが好きなのです。
今回、書籍版では、不遇の桔梗屋と、『風流踊り』を掛け合わせて挿入しました。
■尾張の商人と屋号
伊藤-祐道
祐道の父である祐広は、松坂屋の創業家である伊藤家の始祖であり、もともと信長の家臣だった。
蘭丸といえば、織田信長の家臣森蘭丸が有名だが、祐広も小姓役として信長に仕え、蘭丸を名乗っていた。
そして、800石を領していた。
蘭丸という名前は、祐広の子である祐道も名乗ってぽり、親子二代の蘭丸を名乗る。
どちらも信長が名付け親になっており、蘭丸の名前がお気に入りだったようだ。
商いを始めたのは祐道だから、彼がいとう呉服店の初代となる。伊藤祐道は、慶長16年(1611)に、清須から新しく城下町を築きつつあった名古屋に移り、名を源左衛門と改め、名古屋本町で呉服小間物商を始めた。これが、松坂屋の前身である「いとう呉服店」の始まりである。
・尾頭は、城畠という地名だったのではないでしょうか?
探してみましたが、残念ながらそれらしい史跡はありません。
この辺りは、古渡の豪族・尾頭次郎義次の居城があったと伝わります。
烏頭とも呼ばれいたともありますので、
城畠 → 烏頭 → 尾頭
(※新尾頭、尾頭町が成立したあとで町家となったところから名付けられた)
そんな感じで変わっていったと推測します。
尾頭城は、妙安寺(愛知県名古屋市熱田区新尾頭2丁目2−19)の辺りにあったとされます。
尾頭一族が賄う商人がいると仮定し、
義次が土御門天皇の命により紀伊国で暴れていた盗賊である鬼党の頭を討伐し、その功績により古渡一帯の領地を賦与され、その際に朝廷から「鬼頭」の姓も与えられたという逸話を元に、材木商『鬼頭』としました。
紀伊の国だから材木商と言っていますが、船持ちの商人という設定です。
※材木売は平安時代から存在し、材木商人、材木商、材木屋と呼ばれていた。室町時代に入り、堀川十二町の「堀川材木神人」たちは「材木座」を結成して、堀川の貯木場を独占、大鋸挽たちの製材した「大鋸板」の販売権を独占した。
おそらく、京に運ばれる材木を独占したと思われる。
木材を運ぶには船がいる。
そういう設定で、船を所有しており、堺や土佐の下田津などに船を出しているとした。(琉球貿易)
・須賀は、熱田の浜に沿った砂地、洲であったところであり、横須賀、蜂須賀、大須賀が残る。
(魯坊丸と蜂須賀小六のエピソードへ)
・旗屋は、もとは機綾と書いた。
雄略天皇のとき、呉国(中国)から来た漢織・呉織の二織女の一人を神宮に奉ったという。
地名を機綾とし、そこの呉服商の屋号『旗屋』とした。
魯坊丸が身分を隠す為に使った商家である。
(呉服商としていますが、旗屋は大店であり、呉服以外にも化粧品や小物などの商材を手広く商っている。作中では、魯坊丸に最初に投資した一人であり、酒も商っている)
・金山は、東熱田村にある金山社にちなんで付けられた。その地名から名付けられた鍛冶集団があったとされるので、『金山衆』と名付けた。
・適当に付けた屋号、花屋、切戸屋、河田屋、川並屋。
※他に字名から取ったと思われる地名
青池、明野、池内、河田、川並、切戸、五本松、桜田、三本松、千代田、中田、波寄、花、比々野、六野(むつの
〔参考資料〕
津田富春
高蔵宮のそばで沢という所にあるさびれた観音堂の本尊を移して建てた臨済宗の寺院、沢観音妙安寺。熱田神宮の周辺にあった四観音のひとつで、堀川沿いにあり遠くは鈴鹿山系も望まれる名古屋三景のひとつでした。
玉越三十郎【たまきさんじゅうろう(15??~1573)】
尾張国清洲の具足商人。浜松城下にいたときに織田信長の勘気を蒙り追放された。1573年、「三方ヶ原の戦い」に長谷川橋介、佐脇藤八郎、山口飛騨守、加藤弥三郎らとともに参陣して討死した。
甲良光広【こうらみつひろ(15??~15??)】
尾張国熱田神宮の宮大工。通称三郎左衛門。社寺の建築造営を担う大工を職務としていた工匠。岡部又右衛門の下で安土城本丸御殿の作事を取り仕切った、丹羽長秀の御用大工を務めた。のちに藤堂高虎の下で各城の普請を行った。
岡部又右衛門【おかべまたえもん(15??~15??)】
尾張国熱田神宮の宮大工。1573年、近江国佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を建造。安土城築城では大工棟梁として、五重七階の天守造営を指揮し、その功により織田信長より小袖を拝領した。
伊藤祐広【いとうすけひろ(15??~15??)】
織田信長家臣。通称蘭丸。織田信長に仕えて800石を領した。1573年、「河内国若江城の戦い」で、三好義継勢と戦い討死した。
伊藤祐道【いとうすけみち(1563~1615)】
伊藤祐広の男。通称蘭丸。別名伊藤源左衛門。1573年、父伊藤祐広が討死すると、伊藤祐道は親戚に引き取られ養育された。1611年、清須越により名古屋城に移り、本街に店を構えて呉服小間物商を始めた。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して討死した。
伊藤祐基【いとうすけもと(15??~15??)】
伊藤祐道の男。通称次郎左衞門。1659年、伊藤祐基が名古屋の茶屋町に呉服小間物問屋の『いとう呉服店』として再興した。名を源左衛門と改め、呉服小間物商伊藤屋を創業したのが、始まりである。1768年、伊藤屋は、江戸に進出し上野の松坂屋を買収して屋号を「いとう松坂屋」と改めた。
伊藤惣十郎【いとうそうじゅうろう(15??~15??)】
尾張国清洲の商人。屋号は「伊藤屋」。織田信長に仕えた御用商人。1572年、伊藤惣十郎は、織田信長より尾張、美濃両国の唐人方(輸入呉服)および呉服方の商売司を拝命した。国内商人はどの売り子でも伊藤支配の夷講へ加入その手形を所有する義務があった。また,清州で商売をする他国商人も支配した。1610年、嫡男伊藤助三郎は清州より名古屋本街へ移り後の伊藤松坂屋となった。
桔梗屋呉服店
玉屋町に軒を連ねていた。
永楽屋東四郎
屋号:永東書店
本居宣長の「古事記伝」出版で有名になったらしい。
十一屋
江戸時代から玉屋町で呉服店を開いてきたが、大正4年に栄町に進出し、いとう呉服店の近くで百貨店を開業した。
名前不明?
清洲の町にあった鉄砲町
滝兵右衛門
屋号:絹屋
滝家は、丹羽郡東野村(現・江南市)で居住していた初代絹屋兵右衛門が呉服太物卸商を開業し、成功を収めた。
〔戦国商人・文化人名辞典等を参照〕
◆室町時代の問屋
鎌倉時代に運送、倉庫、委託販売業を兼ね、後には、一般の商品も取り扱うようになった組織問丸に由来する。
近世になって問屋と呼ばれ、室町時代には問屋と呼ばれるようになる。
問屋という呼称が一般的になったのは,江戸時代に入ってからのことである。
江戸時代には、生魚・塩魚・八百屋物・薪・鰹ぶし・布・木わた・たばこ・塩・鉄・木蝋など,日用品のほとんどに関して専業問屋が誕生した。
米問屋・炭問屋・綿問屋・木綿問屋・油問屋など
■馬借
馬の背に荷物をのせて,陸路で運ぶ陸上輸送業者です。
室町時代に交通の要地に集団で住んでいました。
■問
おもに船を用いて,海路で物資を運ぶ水上輸送業者です。
また,港に倉庫を構えて物資の保管も行う倉庫業者でもありました。
室町時代に交通の要地である港町などに住んでいました。
馬借は、陸上輸送業者。
問は、水上輸送業者・倉庫業者である
(問丸は米屋、問屋は雑貨屋やスーパー)
油は油問屋 ← 菜種は菜種問屋
綿実は綿実問屋
大坂京橋三丁目の加島屋三郎右衛門(寛永二年、一六二五年頃)方を油宿として,山城方面の油を買い集め,諸国に販売したのが、京口油問屋の始まりである。
※。豪家とは、その土地に住む格式高い家という意味。権力がある場合もあるが、単に家柄が高い者もさす。熱田は古くから栄えた町なので、格式だけ高い家も多い。
糠谷家:木綿問屋、幡豆郡吉良町
小栗家:酒造、半田市中村町
内田左七家:庄屋、知多郡南知多町
服部家:大庄屋、海部郡弥富町荷之上石仏
望月家:釜屋、新城市黒田字高縄手
熊谷家:庄屋、北設楽郡豊根村
竹田家:商家(味噌)、名古屋市緑区有松町往還南
小塚家:商家(有松絞問屋)、緑区有松町往還南
丹羽家:商家(旅籠・庄屋)、熱田区神戸町
瀧田家:商家(廻船問屋・木綿業)、滑市栄町
岸田家:商家(脇本陣・庄屋)、小牧市小牧
現存する毫家は、江戸時代末期なので作中で使えません。