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七十夜 萱津の漬物

 〔天文十八年 (一五四九年)九月〕

 どうでもいい話だが、水戸黄門様は諸国漫遊をしたと言われるけど、実際は黄門様が回ったのは水戸領内だけだったらしい。

しかし、大日本史の編纂の為に家臣を諸国に送ったことが合わさって、水戸の黄門様が諸国を回ったという逸話が生まれたというトリビアを思い出した。

 どうして思い出したかというと、俺も尾張領内を漫遊している。

 行く先々で問題を解決し、時には襲ってくる盗賊を討伐した。

 さくらが伊賀衆の案内で望月衆を率いて、生き生きと盗賊を皆殺しにしてきたと返り血の付いた黒装束で報告したときは引いた。

 盗賊の正体は食いっぱぐれた農民なんだよね。

 織田領内は平年並み、対して岩崎の丹羽方は不作だった。

 戦続きで織田家も丹羽家も疲弊しているのは一緒だけれども、織田弾正忠家の傘下は親父や信長兄ぃなどが銭を貸し与えるか、俺の農地指導を受け入れる条件で熱田商人から低利で銭を貸し出してくれるので飢える民はいない。

 対して、丹羽領内では村同士が睨み合って小競り合いを続けているので不作が続いていた。

足りない分は難癖を付けて、他の村を襲って奪い取る。

負けた村は冬を越せないほど困窮しており、米がないならあるところから奪えばいいと盗賊と化す。

 さくらと楓が日頃の訓練の成果を競い出し、盗賊を根絶やしにしたので村人らから感謝された。

 俺は秋祭に参加を理由に東から視察を進める。

 どうしてこんなことになったかと言えば、時間は少し遡る。


六月に各地の領主や神社の神主から沢山の手紙が届いた。

 

 拝啓

織田-魯坊丸様におかれましては、ますますご盛栄のことと

お慶び申し上げます。

平素は格別のご高配を賜り、有り難く厚く御礼申し上げます。

さて、○○神社秋の大祭典を開催させていただきます。

織田-魯坊丸様が御参加いただけるようにお願いいたします。

 

 こんな感じの招待状だった。

 秋祭は七月から九月に行われる。

 去年は島田の牧家とか、平針の加藤家などのみだったが、下尾張中から送られてきた。

 信光叔父上から少しは参加しろとお達しを頂いた。

 俺を無視して、養父、母上、定季、千代女の四人を中心に相談していた。

 

「定季、どうして俺の意見は無視するのか?」

「そうでございますな。この件に関して魯坊丸様に任せますと、手近なところで終わらせようとする妙な癖がございます。ここは家臣が主に無駄な労力を掛けさせない為に、おおよその道筋を考えてから、ご判断を頂きます」

「若様。お任せ下さい。若様の威光を尾張中に広げてみせます」

「千代女殿、織田総構えの視察を兼ねております。できれば、植田川の上流と土岐川 (庄内川)の周辺を重点的に、尚且つ、津島方面へも顔を出さないと不満が起こります」

「承知しております」

 

 養父と母上は希望を述べる程度であり、縁故から依頼を優先して欲しいというに留めた。

 推薦の依頼を受けた家臣らが、そこに俺を行かせようとプレゼンをする。

 そして、一つ一つの名が記帳されてゆく。

熱田神宮の神事の日を外し、井戸田、長根、八事、島田、平針、別小江(わけおえ)猪子石(いのこいし)伊奴(いぬ)枇杷島(びわしま)萱津(かやず)甚目寺(じもくじ)大渕(おおぶち)、中島郡の妙興寺(みょうこうじ)、津島などを回ってゆくことになった。

 七月に入ると、今日は西、明日は東と飛び回った。

その間に熱田と中根南城の仕事も熟す。

七月から九月初旬までは秋祭の間隔が空いており、忙しいという感覚ではなかったが、収穫が終わる九月中旬から一日に二箇所も回る忙しさへと変わった。


今日は別小江(わけおえ)の秋祭だ。

その途中に土岐川護岸工事の視察も行った。

土岐川が大きかった。

川幅が二百二十間(400m)以上もある大きな川であった。

もちろん、そのほとんどが河川敷であり、河そのものは大きくない。

水量は豊富であり、東美濃から流れてくる土岐川と犬山方面から木曽川から分かれてくる大山川が合流し、さらに矢田川が合流する。

その下流は那古野の北部を流れる土岐川と比良の北部を回る土岐川に分かれていた。

つまり、比良、小田井が土岐川の中州のような感じになっている。

しかも大雨が降る毎に川筋が変わるので、辺り一帯が湿地や荒れ地として放置されていた。

大きな石がゴロゴロしており、そのままでは農地として使えない。

護岸壁で氾濫を抑え、農地改革が必要だ。

矢田川は別小江より半里(2km)ほど遡った曽根(そね)の辺りがわずかに高くなっており、ここを起点に護岸壁の工事を進めれば安全が確保できる。

地図で知ったつもりだったが、実際に見ると湿地と荒れ地の多さにびっくりする。

氾濫で流れてきた粘土だった部分が乾いてカサカサになり、そして、低地には水溜まりができて湿地帯となっている。

なんと言うか。

荒れ地の中に村が点在し、その周辺だけが田畑として整備されている。

おそらく、村の辺りが微妙に高い土地になっており、周囲に土手を築いてそれなりの工夫をして、多少の氾濫なら問題ないようにしているようだ。

定季が呟くように言った。


「雨が少ない冬の間に大動員を掛けて、曽根から別小江までの土手を完成させねばなりませんな」

「土手の内側に水田を作りたいがどう思う?」

「湿田なら可能ですが、水田は時期早々かと。区画整理した後に、陸田からはじめるのが宜しいかと。水田は水路が完成した後にされては如何でしょう」

「水路を同時に作るのは無理か?」

「水路の水を土岐川に戻すとなると高低差が必要です。上流から水路を引くか、この辺りから那古野の方に水路を掘り、台地の脇を通して熱田の方へ流すのが宜しいかと思われます」

「那古野城の強化も兼ねて、台地の脇に堀を掘るとするか」

「それが宜しいかと」

 

 大雨が降ると、矢田川や土岐川の水位が上がる。

すると、溜まった水を川へ放出できない。

川に放流するには、電動モーターで水を汲み上げるか、あるいは、下流まで水路を通す必要がある。

電動モーターなどないので、水路一択だ。

 ならば、台地の脇の堀を大きく掘って貯め池の機能を持たせつつ、熱田の近くから海へ放流するのが最善である。

 しかし、同時に工事を進めるには銭も人も足りない。

 派遣した鍬衆の頭に説明すると、那古野方面に水路を引く候補を調べるように命じておいた。

 堀は無理でも、排水路程度は確保しておきたい。

 

 翌日は萱津(かやづ)村の秋祭への派遣だった。

 萱津村の萱津神社には、日本武尊が東征の途中で参拝したという伝承が残っており、献上した漬物を日本武尊が気に入って、「藪二神物(やぶにこうのもの)」と褒め讃えた。

 この塩漬物は熱田神宮に献上されている。

 贔屓の神官から萱津に行ってほしいと頼まれていたが、忙しいことを理由に断っていた。

 しかし、清須に近い萱津の民を味方にしたい末森の方々の依頼もあり、俺は秋祭に派遣されることになったのだ。

 日本武尊縁の地なので熱田神宮の神官が派遣されるのは珍しいことではない。

 しかし、俺は熱田明神の生まれ代わりであり、織田-信秀の息子でもある。

 俺、熱田神宮、織田弾正忠家は三位一体だ。

 末森が考える織田弾正忠家に従えという三段論法は無理があるのではないか?


「無理ではございません。若様の優秀さを知って、萱津の民も若様にひれ伏しております」

「糟漬けの土産を持ってきたからな」

「そんなものが無くとも問題ないと思いますが、酒糟に付けた漬物の美味さを知って、若様の偉大さがわかったのでしょう」

「千代、今日は随分と褒めるな。さくらのような口調だ」

「これほどの歓迎を受ければ、気分もよくなります」

 

 萱津村の歓迎ぶりは中根村の民を彷彿とさせた。

 それほど糟漬けが気に入ったのか?

 熱田神宮が俺の派遣を決めた時点で、酒糟に付けた漬物を送った。

 気に入ったならば、一年間は無償で酒糟を提供するので色々な物を漬けて、名物を増やさないかと提案した。

 萱津の漬物は絶品と言われるが、塩漬物はどこでも作られている。

 だが、糟漬けは酒糟が手に入らないと作れない。

 古くから出回っていても大量に作ることなどできず、多くは出回っていない。

 だが、その酒糟を俺が安価で提供しようと言ったので、貧しい村人らが大いに湧いていた。

 

「話は変わるが、織田伊賀守殿の松葉城と、(織田)信次(のぶつぐ)殿の深田城はどっちだ」

「南西に一里(4km)ほど行ったところです」

「では、清須はどっちだ」

「北に一里ほど行ったところです」

「やはりな」

 

 早朝に酒造所の屋敷から出発し、佐屋街道を通って、岩塚から万場まで舟で渡ると、右に…………つまり、北の方へ移動したのだ。

 以前、津島に向かったとき、松葉城と深田城は佐屋街道の南と聞いていた。

 二城と萱津が離れていると感じた。

 しかも帰りに甚目寺(じもくじ)に寄るという。

 七月十日の夏祭りに誘われたが、急遽予定が変更になり、行けなかった詫びを入れておいた。

今回は改めて謝罪に行く。

 こちらも末森の依頼であり、甚目寺の機嫌を取って欲しいそうだ。

 甚目寺は清須から近い寺の一つであり、清須の織田-信友から引き剥がしたいという思惑である。

 思惑が色々と錯綜していた。


 それはともかく。

 萱津村も甚目寺も清須に近いと感じた。

 俺の記憶に残る『信長公記』萱津の戦いに違和感を覚えた。

 萱津の戦いでは、那古野の信長、守山の信光叔父上、末森の柴田勝家らが参加して、川を渡ると、おそらく、川を渡り切った万場から兵を三つに分けて、信長の一隊は萱津に向かっている。

 信長は松葉城と深田城がある方面ではなく、清須の方へ兵を向けたことになる。

 つまり、清須の兵は松葉城と深田城を陥落させた後に、清須の兵は清須に戻っていたのではないだろうか?

 清須軍は松葉城と深田城に多くの兵を残していなかった。

織田弾正忠家が攻めてきたので二城は清須に援軍を求め、清須から援軍が出たのを知った信長は迎え討つ為に北へ兵を向けた。

 そう考えると、萱津が戦場になった理由がわかる。

 

 萱津の東側には五条川が流れており、萱津の戦いで敗れた兵を追って、信長が清須まで川沿いに雪崩れ込んだ。

 わずか一里、全力疾走なら30分も掛からない距離だった。

 逃げる敗残兵を追っている内に清須に着く。

 現地に来ないとわからないことがあるものだと思った。

 俺の下尾張漫遊は九月末まで続いた。


■小説と史実の『萱津の戦い』の違い

WEB版では、「萱津の戦い、守護代信友の凋落」とサブタイトルを付けていますが、場所的には『岩塚の戦い』です。

 萱津の戦いと書いた方が判り易いと思ったからです。

 『信長公記』を読むだけなら、萱津は松葉城と深田城の二城と川を渡った万場の中間地点のように読めます。

 どこにも清須から援軍が出てきたとは書かれていません。

 不親切な書き方です。

 当時の方ならば、地図が頭に入っていたので、そんな妙な誤解もなかったかもしれません。


 小説版では、今川家と清須織田家の共同作戦であり、東西から挟撃するつもりで松葉城と深田城を陥落させた後に、土岐川 (庄内川)を渡って対峙しております。


 史実の織田信友は信長と信勝が争っている間隙を縫って勢力を伸ばすことを考えて、松葉城と深田城を奪ったのでしょう。

 ですから、目的を達した兵は清須へと引き上げたのです。

 

 これが作者の『萱津の戦い』の解釈となります。

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