表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/209

十三夜 魯坊丸、生活改善を決意する

〔天文十六年 (一五四七年)春一月十六日から月末〕

信長兄上の初陣で養父は負傷し、家臣は十人中十人が大小の負傷を負って帰ってきた。

養父を庇った家臣が重傷で生死の境を彷徨ったが奇跡的に助かった。

死人がでなかっただけ幸いだ。

那古野の家臣は倍以上の敵を退けた信長兄上の初陣勝利に『勝った。勝った』と喜んでいるが、織田勢の被害は相当だったらしい。そして、二日後に負傷している養父に褒美を与えるので那古野に登城するように使者が来たときはちょっとイラついた。

養父が軽傷といっても傷口からばい菌が入ったのか、翌日から養父は高熱でうなされた。

その病み上がりに登城しろというのだからむかつくだろう。

高熱の原因は傷口に馬糞を擦り付けたからだと思う。なぁ、最悪だろ。

傷の対処法をレクチャーせねば。

帰ってきた怪我人の傷口をお湯で綺麗に洗い流すと、傷薬を付けて布を当てで固定した。

そして、熱が出ることを予想して解熱剤も作らせた。

解熱剤は葉や茎を切ると白い乳液が出るから『乳草』(アキノノゲシ)を取りに行かせ、強引に鍋で乾燥させると摺り潰して水に浸してうわ液を白湯に混ぜで飲ませた。

本当は自然乾燥で干してから摺り潰すのが、時間がないから仕方ない。

皆、不安そうな顔で俺に従っていたが、三日経ってやっと来た大喜の薬師が褒めてくれたので、皆も胸を撫で下ろした。

得体のしれない赤子の指示で作らされた薬を信じていなかったようだ。

薬師と呼ばれるだけあって、薬草に詳しかったので色々と学ばせてもらうことにした。

俺の知識は山々で採れる薬草か、爺さん婆さんでも栽培できる薬草に特化しており、専門的な知識は少なく、銀杏の葉茶やゴボウ茶、ウラジロ茶、みかんの皮茶等々と商品化できる知識に特化していたからだ。


薬師は毒性のある薬草や茸の効用を教えてくれたので、有意義な情報を得た。

だが、通訳の福には難しいことばかりだったようだ。


「魯坊丸様。言っていることが難しくて訳するのが難しいです」

「がぶぅ」(頑張れ)

「人ごとだと思って……ぶつぶつ」


俺の知る知識ですら専門用語が多く『フラボノイド』、『糖尿病』、『尿路結石(にょうろけっせき )』、『心筋梗塞(しんきんこうそく)』などを説明する為に様々な引用を繰り返す。

通訳も頭を使わざるを得ない。

食事の時間も無駄にできず、福は文句を言いながら離乳食を匙で掬って俺の口に運んだ。

あかぎれた手が改善したと思っていたが、また赤く腫れているのに気付いた。


「こぼでば、ぼうしだ」(この手はどうした?)

「水汲みです。春と言っても、まだ水が冷たいのです」

「ぶゆぼぼうがづだいだぼ」(冬の方が辛いだろう)

「あははは」


福は笑って誤魔化したが、俺の追求にすべてを吐いた。

まず、福の仕事は全然減っていなかった。

侍女と言っても下っ端であることは変わらず、女中の頃と同じ量の仕事を押し付けられていた。

但し、侍女である福の生活を中心に女中らのシフトが組まれるので、寝不足や食事も取れないという不備は改善された。そして、俺が作らせた軟膏のおかげで手の荒れも改善していた。

だが、この城で重傷を負った家臣三名の面倒をみることになった。

毎日のように採ってきた薬草を摺り潰して、女中に傷口の薬を交換させていた。

その他にも食事や下の世話などもある。

昼夜を問わず、世話をするので、単純に五人ほどの女中が常駐することになってしまった。

そのしわ寄せが福にも回っていた。

中でも中根南城の水が福の手を痛めつけていた。

この城の南側に海があり、北側の正門近くにしか井戸がない。

毎朝、数人で井戸の水を汲み、それぞれの場所に置かれて水瓶に水を注ぐのが下人や女中の仕事だった。

そこに五人の女中が抜けた。

福に濡れた縄を引き上げて、井戸から水を汲む作業は重労働が加わった。

福は誤魔化すように去年の夏の話をする。


「夏の方が大変です。暑い上に壺の中に『ちいさいさま』がでることがあるのです」

「じじざじざば?」(ちいさいさま)

「水の中に小さく動く何かがいるので『ちいさいさま』と呼ばれています」


ボウフラか、駄目な奴だ。

福はボウフラを見掛けると寒気がすると言っているが、その水を取り替えないで使っていると言ったので、俺は「ばぁぶぅ (それは駄目だ)」と声を荒げた。

台所やその他の部屋に置かれている壺の水をすべて入れ替えるとなると、大変な重労働だ。

玄関で足を洗う水くらいなら見過ごせるが、勺ですすって呑む奴もいると聞けば、無視はできない。

これは生活改善じゃ。

もう戦国時代といって見過ごせない。

俺は徹底的にやると決めた。


魯坊丸日記 第十三話 「生活改善を決意する」の裏舞台


挿絵(By みてみん)


◆天文十六年(一五四七年)正月に信長の初陣があったとあります。

信長公記では、見事な初陣と書かれていますが、所々に放火したとしか書かれておりません。

「天文十六年丁未 翌年織田三郎信長御武者始、平手中務丞其時之出立、紅筋のすきん・はをり・馬鎧にて駿河より人数入置候三州之内吉良・大浜へ御手遣、所々放火候而其日ハ野陣を懸させられ、次日那古野に至而御帰陣也、」

所々とはどこでしょうか?

信長の初陣を飾ったとある場所に十三塚を立てたことで町名となり、碧南市に残ったようです。残念ながら十三塚は残っていませんが、津島社の前に『織田信長初陣の地』という看板が建っており、極楽寺周辺で長田重元が迎え撃ったようです。

十三塚を立てたのが長田重元だったので、織田軍の惨敗と残されています。

痛み訳の場合は、どちらも『勝った。勝った』と騒ぎますのでどちらが正解かは判りませんが、初陣で信長の評判が落ちていません。

一方で大浜を守り切ったのも事実です。

少数で守り切ったと考えるには、十三塚が立った経緯から見て、織田方の被害も大きかったと思われます。

三河湾に突き出た岬のような大浜に大勢の住民が住んでおり、織田勢を押し返す兵力があったとは考えられません。

また、長田重元を侮って少数の兵で攻めたとしても、十三塚が立つほど大被害を出したなら完全な敗北です。

そうなると、長田重元の不在と思って攻めたが、二千人の今川勢が碧海郡で待ち伏せていたと考える方がすっぽりと符号が合います。

二千人が待ち伏せしていた今川勢を追い払ったなら大勝利と考えるのも妥当です。

長田重元も信長に大浜攻略を諦めさせたので十分な成果だったのでしょう。

私は今川方の何らかの謀略があったと考えております。


◆碧南の民話

三河と尾張の国が、たがいににらみあっていたころの話です。

 大浜は、三河方にあって、長田重元が守っていました。ところが、同じ大浜にあっても、尾張方に心をよせる者があり、大浜上の宮の祢宜、河合はそのひとりでした。

 あるとき、河合は長田重元が岡崎へ出かけていることを聞くと、「大浜をせめるのは今です。」と、信長へ知らせました。

 ところが、河合が信長に内通したのを知った長田重元は、夜のうちに家来をつれて、岡崎からもどり、そなえをかためて信長軍をまっていました。

 どどどど………と、信長の騎馬隊の一団が、音をたて、土けむりをまきあげて、大浜街道をせめこんできました。これが信長の初陣でしたから、そのいきおいは、あたりをけちらすほど、ものすごいものでした。

「信長がせめてきたぞ!」というさけびが村中にひびきわたると、待ちかまえていた大浜の兵たちは、いっせいに刀や槍をかまえて敵をむかえました。

 敵味方が入りみだれて、村中がひっくり返るようなはげしい戦が始まりました。人数の多い大浜軍は、たちまち信長軍をおし返してせめたてました。極楽寺(天王)のあたりまで行ったとき、松林の中にふせていた大浜軍がときの声をあげて、信長軍をとり囲んでしまいました。「これはまずい。」と思った信長は、あたりの民家や寺に火を放ち、家来に退却を命じると、馬にむちをあてて、一目散ににげました。にがすものかと追いかける大浜軍と、道場山のあたりでもはげしい戦をくり返しましたが、信長軍は、たくさんの死体を残して、とうとう退却してしまいました。

 それから四、五日たったあるばん、ひとりの百姓が北大浜からの帰り、戦のあった近くを通ったときのことでした。赤い火の玉が、まるで空中戦のように、上に下にもつれあいながら暗やみをとびかっていました。こわくなった百姓は、急いで家に帰ると、ふとんをかぶり、朝までふるえておりました。

 あくる日、百姓が「きのうのばん、おら、火の玉を見た。」と話すと、「おれも見た。」「おれも見た。」「おれも見た、赤い火の玉が十以上もとんでいた。」と、うわさは、いっぺんにひろがりました。

 このうわさが、いつしか長田重元の耳にもはいりました。重元は、戦のあとを見て回りました。最後の戦場になった道場山の松林にきてみると、討ち死にした敵兵の死がいが、野ざらしになっていました。

「このままでは成仏できまい。死んでしまえば敵も味方もない。わしらでとむらってやろう。」重元は、さっそく家来をよびよせ、穴を掘ってていねいに葬り、土をもって塚をつくりました。そして、お坊さんにお経をあげてもらい、ねんごろにとむらいました。

 それからは、だれも火の玉を見た、と言う人はありませんでした。塚は、みんなで十三ありました。後の人々は、この塚を「じゅうさづか」とか、「とみづか」とかいったそうです。


参考資料:市民叢書『碧南の民話』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ