五十六夜 曲直瀬道三の訪問
食客3000人その1
〔天文十七年 (一五四八年)十一月第二辰の日〕(新嘗祭の翌日)
新嘗祭が終わると本格的に冬が到来する。
それに反して、師走に向けて熱田湊の熱気が上がってゆく。
鳥が鳴く前から湊から声が聞こえ、俺は目を覚ました。
京に送る清酒の樽が大量に倉に運ばれ、到着した船に次々と積み込まれてゆく。
京などで正月に売る酒だ。
十一月中に半分の荷を堺まで運び終えたいと考えており、搬出の最盛期を迎えていた。
それとは別に宮中の酒も用意している。
年の最初に行われる元日節会に新酒の特選を奉納するように親父が命じてきた。
総量が前回の半分なので問題ない。
前回同様、余分に運んだ清酒を山科言継卿が売ってくれる。
しかも、帝に献上する特選酒以外は代金を頂く。
山科卿が売るであろう清酒の代金を充填すれば、ほとんどタダみたいなものだ。
今年は酒の売上金はないが、再来年から献上金もあるので宮中はウハウハだ。
帝が呑まれる新酒とあって、杜氏らが厳しい顔をして制作している。
桶に入れ直す時間を考えると十二月の十日がタイムリミットと言い聞かせた。
一方、北伊勢の国人らに、また馬の供出をお願いしている。
恒例化するようなので望月家から馬を大量に仕入れてもらい、周辺の村々に馬を貸し出しておくことにしたが、馬が揃うには二、三年は掛かるらしい。
鎌倉街道に隣接する北伊勢衆や甲賀の山間部の方々と仲良くやって行かねばならない。
以前の報酬額で文句を言っている国人もいる。
額が問題ではなく、対立関係の国人と同額というのが問題らしい。
あぁ、順列とかが複雑で頭が痛い。
後藤家と協議してお家騒動に介入することになりそうだ。
望月出雲守に仲介を頼もう。
熱田湊から聞こえる威勢のよい声を聞きながら体を起こすと、いつものように朝の体操で体をほぐし、今日の予定を思い出す。
午前中に加藤順盛を中心とする造船関係者の会合だが、その後はない。
昼には、中根南城に戻れるか。
おいに~、さんし、にに、さんし。
うぅぅぃ、寒い。
「若様、お体を拭きます」
「頼む」
「では、拭きますね。る~る」
「楽しそうだな」
「それはもう。訓練がないのが天国です」
「そうか」
さくらが楽しそうにお湯に浸したタオルを絞って体を拭きはじめた。
熱田神宮では朝練が免除されるので、さくらはウキウキだ。
さくらは鼻歌を歌いながら吹き終えると、他の侍女に乾いたタオルで拭き直させて、厚手の下着を着せるように指示を出した。
侍女が増えたので熱田神宮には五人を選抜し、残った者は中根南城で侍女と忍びの特訓である。
さくらは下働きを新人に押し付けられるようになったのだ。
会合まで時間があるので、熱田神宮の所蔵で貴重本を読みたいところだが、その寒さの中で読書は辛い。
同行者が紅葉なら読んでいない貴重本を取りに行かせ、この温かい部屋で読書ができるのだが、さくらに本を探させるのは無理だ。
さくらは俺が読んでいない本などという曖昧な指示では動けない。
朝餉をいただいて、それから俺は他愛ない話をさくらから聞いて時間を潰す。
さくらと話していると千代女が戻ってきた。
「若様。会合の前に会わせたい方がいると、千秋季忠様がおっしゃっております」
「誰だ?」
「京の名医と呼ばれる曲直瀬-道三です」
道三?
斎藤利政の法名も『道三』だが、まだ名乗っていない。
他にも道三がいるらしい。
千代女の説明では、公方様の診察をやったことがある京の名医らしい。
その名医が俺を訪ねて尾張にまできた。
近々、中根南城を訪れるつもりだったらしいが、まず熱田神社の診療所を見学した。
診療所とは俗称であり、正式には祈祷待機所という。
悪霊が憑いた病人を一時的に休息させる場所であり、病院ではないのだが段々病院ぽくなっており、医者っぽい神官や僧医が診察をして、患者に取り扱いを注意して、飲ませる薬を渡す。
最後に患者の前で加持祈祷をしてお帰りいただく。
なんか加持祈祷がオマケとなってきたと、神官の誰かが愚痴っていた。
新嘗祭を遠目に見学した道三は早朝に千秋季忠との面談を取り付けたらしい。
朝の祝詞を終えた季忠は社務所で道三と面談した。
一様、道三は名のある名医らしい。
季忠は、道三に京で俺の素晴らしさを広めてもらおうと考えていた。
ところが、道三は俺をべた褒めし、俺に会いたい理由を季忠に語った。
意気投合した季忠は俺に少し時間があったと思い出し、千代女を通して面会を願ってきたのだ。
確かに暇だ。
季忠の頼みを無下に断る必要もない。
面談する部屋に炭ストーブを設置して部屋が暖かくなった頃合いをみて、千代女が再び迎えにきた。
俺が座ると、すぐに道三が入ってきて俺の前で頭を下げた。
「面を上げよ」
「京で診療所を開いております。曲直瀬-正盛と申します」
「京からわざわざ俺を訪ねてきたと聞いた。何か要望があるのか?」
「はい。織田-魯坊丸様が書かれた『家庭の医学書』について聞きたいことがございます」
「家庭の医学書?」
俺は首を捻った。
そんなものを書いた記憶がないからだ。
千代女が道三の持っていた写本を俺に見せてくれた。
パラパラとめくると、懐かしい治療法が多く書かれていた。
そう言えば、福が書いた本を写したいと、八幡社の神主が頼んできたことを思い出した。
写本の写本か。
「俺が書いたものではない。これは俺の侍女だった者がまとめた本だ」
「魯坊丸様が書かれたのではないのですか?」
「書いた者と話したいのであるならば、紹介するぞ」
「いいえ。その必要はございません。すべての知恵は魯坊丸様が考えておられると、千秋季忠様から聞き及んでおります」
「大したことは話してない」
「いいえ、魯坊丸様の知識は我が師である田代-三喜様に通じるところがあり、教えを乞いたいとやってきた次第でございます」
「俺は医師ではない。他よりちょっと知恵があるだけだ。この本の治療法も中根の医師と薬師、あと山師の知恵を合わせたものだ。俺一人の知恵ではない。中根南城の診療所を見学したいならば、許可を与える。好きなだけ学んでくれ。出来れば、我が医師らに名医の知恵を教えて欲しい」
「名医などではございませんが、私が知る限りのことはすべてお教え致します」
「それは助かる」
「ここに書かれている治療法に関して、詳しくお聞きしたいことが山程ございますが宜しいでしょうか」
「どこだ」
道三は熱田神宮内にある診療所を手伝っている僧医の一人から『家庭の医学書』を譲ってもらったらしい。
昔、河原者の子供らを治療した福の苦労を思い出した。
俺は病人のところに行けなかったので、福の話を聞きながら指示をあたえた。
そんな思い出話が終わると、次に道三が思った診療所の感想を語り出した。
熱田の診療所は医師が多いらしい。
家庭の医学書は熱田の寺々に広がっており、中根村で作った薬は熱田神宮に納められる。
意外と思うかもしれないが、神社や寺は医療機関を兼ねている。
病気の原因は悪霊であり、悪霊を祓えるのが、神社の神官や陰陽師や僧と決まっているからだ。
そして、寺には僧医と呼ばれる医師が大体は常駐している。
僧医は唐の国から伝わる医療に重きを置いており、その最先端と信じているので熱田の診療所に学びにくる。
お手伝いさんが沢山いる状況なのだ。
道三が神宮と寺が良好なことを褒めていた。
敵対しても面白くないからな。
薬を売るにあたって俺も色々と知恵を巡らした。
まずは薬を売る相手の厳選だ。
買えるのは神社か寺の関係者のみとして、神宮から唐の薬を超安値で売り出した。
皆が飛びつくように買いにきた。
そもそも薬師らは一袋が二文か、四文でできる薬を二十文とか。三十文で売り付けていた。
薬九層倍と言われるが、正に暴利だ。
半額にしても十分に儲かった。
だが、薬師と喧嘩してもうま味がない。
まずは、熱田中の薬師を召し抱えて、大量に薬草を栽培させた。
神宮や神社、寺が薬を売る値段は定価と定めた。
これで他の地域の薬師から恨みを買うことを気にする必要がなくなった。
但し、神宮の薬を買う神社や寺には条件を付けた。
金持ちには定価で売り、貧しい人には無償で融通するのが条件だ。
貧乏人に使った薬は神宮が補填する。
誰も損をする訳でもない。
それで元気になった者はわずかな銭を賽銭箱にお布施してくれるので、薬代は十分以上に回収されている。
こちらは想定外だったが、嬉しい誤算だ。
そもそも貧乏人が持つ銭の量は知れている。
あるところから取ればいいのだ。
だから、貧しい人でも蓄えがあるなら寺々が別途に加持祈祷料を搾りとっても咎めるつもりもない。
搾り取るのは自由だと思う。
だが、借財させて奈落に落とすとかは許さない。
貴重な労働力を失うのが嫌だからだ。
つまり、幸せになるのも不幸せな儘なのも、その人の力量次第であり、俺が関与することではない。
俺は貴重な労働力を提供してくれれば、それだけで十分なのだ。
その為に薬を安く売りはじめた。
俺は素直にそう話すと、道三が凄くいい笑顔になった。
そして、熱田の診療所を見学した道三の感想を言うのだ。
「主人を失えば、家族は路頭に迷います。子供を失えば、働く気力を失います。健康であれば、魯坊丸様は働く場所をお作りになられていると伺いました。集めた銭で彼らが生きる術を与えていると、千秋様からお伺いしました。すべて巧く回しておられます」
「皆が頑張っているからだ」
「私も貧しい者から銭を頂きませんが、公家様や武家様から大金を頂いております。守銭奴と罵られることも度々でございます」
「その苦労はわかる気がします」
道三も貧しい者から薬代をもらわず、金持ちから大金を頂くらしい。
だが、余りの大金に驚く者も多いらしい。
江戸時代にはじまった養生所は、幕府が無料で施設を提供したから機能したが、朝鮮人参のような材料を使うと治療費が高額になり、貧しい人には手が出ない。
あるところから取らないと回らない。
「神宮が率先し、周辺の寺々を巻き込んだことが素晴らしいと思いました」
「俺は薬草を売って儲けたいだけだ」
「そう言うことに致しましょう。千秋様が言われた通りでございます」
「何を吹き込まれた」
「魯坊丸様は謙虚なお方であり、決して自分の功績を認めず、自分の為にやったと言われると」
「自分の為だぞ」
「承知しております。魯坊丸様は魯坊丸様が描く世界に近づける為にやっているのでございますね」
「そうだ。俺にとって都合がいいのだ」
「魯坊丸様が描くこの世の往生楽土がどんなものか、私も見たくなりました」
俺はそんなものを目指していないぞ。
道三も季忠に毒されたな。
こほん、千代女が小さく咳き込んだ。
「千代。もう時間か?」
「残念ながら会談の時間が迫っております」
「すまん。いずれは時間を作る。話はそのときにしよう」
「承知しました」
そう言って道三と別れたが、次に会うのは十日後となる。
普通の人は寄生虫やウイルスの話をすると怪談話のように聞いてしまうのだが、道三は真面目に考えてくれた。
今後、日本が注意すべきヨーロッパで広まった黒死病や天然痘、コレラ、甲州風土病の住血吸虫症などでも盛り上がった。
俺にとって欠かせない人材となるのは、随分と後のことである。




