十二夜 魯坊丸、傷薬を作らせる(信長の初陣)
〔天文十六年 (一五四七年)小正月一月十五日〕
日も上がらぬ早朝。
養父の中根-忠良が十人の兵を連れて出陣した。
俺は母上、義理兄の忠貞と一緒に見送った。
今回の出陣は信長兄上の初陣らしい。
信長兄上の手勢は述べ八百人らしく、那古野城主である信長兄上に名を売り込みたいようで那古野勢が兵を多く出しており、熱田勢はわずか百人しか参加していない。
よくわからないが、場合によっては古渡の親父も出陣するらしい?
その場合、義理の兄である忠貞が城に残っている二十人を連れて参加する。
熱田勢が出せる兵は多くて三百人程度だそうだ。
今回の敵は大浜の長田-重元だそうだ。
少し前まで長田家は織田方・今川方の双方に与せず、中立的な立場だったが、水野-信元が今川方から織田方に寝返った為、逆の今川方に与した。
何故なら、知多半島と大浜の間に広がる衣ヶ浦を巡って水野家と争っていたからだ。
信元の故父忠政は娘の於大を松平-広忠に嫁がせて同盟を結んでいた。
長田家は水野家の背後である織田家と懇意にしていたが、忠政が死んで信元が織田方に寝返ったことで、逆に今川方に与したのだ。
親父は長田重元を織田方に引き戻そうとしたが、渥美半島の戸田-康光と組んで水野家を攻撃するようになったので、親父は重元を排除することを決めた。
そして、その機会を伺っていた。
昨年 (天文十五年)は、岡崎松平と安祥織田の小競り合いが続いていたが、重元は援軍を送らなかったので、岡崎城の松平-広忠が重元を呼び出したという報が入ったそうだ。そして、重元が岡崎に向かったらしく、昨日の今日で出陣となった。
養父を見送ると、母上は無事の帰還を願ってお参りに行った。
兄の忠貞は大広間でいつくるかもわからない使者を待って固まっていた。
今から堅くなってどうする?
信長兄上の動きを察した岡崎勢が援軍を送ろうとすれば、安祥城の織田勢が邪魔をする。
その報が入ると、後詰めとして古渡の親父も出陣する。
こちらに連絡が入るのは、それからだ。
俺は忠貞を置いて部屋に戻ると、福らを話し相手にゴロゴロして過ごした。
夕方になり、信長兄上の大勝利という報が入った。
皆が歓喜して勝利を祝う。
母上が養父の無事を聞くと、使者は少し暗い顔を見せた。
「お味方に多数の負傷者が出ております。殿も命に別状はありませんが、ですが、傷を負われたご様子でございます」
血の気が引いた母上を見た使者は慌てて訂正する。
「怪我は大したことはございません」
養父の負傷したのは嘘ではないが、身を挺して庇った家臣の血で養父は頭から全身に血を浴びて赤く染まっていただけであり、怪我そのものは大したことはないという。
再度、尋ねる母上に使者が問題ないと断言した。
とは言え、傷口からばい菌が入って破傷風になることもなると俺は思った。
だから、俺は福に命じた。
「ぶぐ。ぐずじをよごいじろ」(福、薬師を呼んでおけ)
「魯坊丸様。この周辺に薬師はおりません」
隣町の井戸田には一人いるそうだが井戸田も兵を出しており、同じように負傷者がいれば後回しになるかもしれない。
取り敢えず、井戸田に人を送って、薬師に来て貰うように頼んでおく。
ならば、俺は俺でできることもやっておく。
「ばばうえ、ぐずぢのう゛ぃぢくがばるばすが」(母上、薬の備蓄はありますか)
「奥方様。魯坊丸様が薬の備蓄があるかと聞いております」
「薬の準備をしなければ」
俺に答えることもなく、母上が動き出した。
ただ、その声に僧侶と神職を呼びに行かせるような声が混じっていた。
僧侶や神職を呼びに行かせてどうするつもりだ?
「魯坊丸様。傷口から悪霊や妖魔が入り込めば死に至ります。必要ではございませんか?」
福らは悪霊の類いを心配していた。
説明するのも面倒なので、それは横に置いて草に詳しい者を呼ばせた。
庭師が詳しいらしい。
「お呼びより参上しました」
「ばるいが、ざがじでぼじいぼのがばる」(探して貰いたいものがある)
「何か、探してほしいものがあるそうです」
俺はこの辺りで取れそうな薬草の姿や形を可能な限り説明する。
名前を言っても同じとは限らないからだ。
「白、紫色の小さな花が咲く草ですか。血止め草のことですかな」
チドメグサが『血止め草』と呼ばれていた。
そのままだった。
婆様がよく使う血止めの草らしい。
あと「アロエ」も「ロカイ」と呼ばれていた。
庭師にすぐに取りに行かせると、次に俺は台所に向かう。
「だだぐざんぼ、ぶおばかぜ」(たくさんの湯を沸かせ)
「たくさんのお湯を沸かしておいて下さい」
「がげでぎだ、げがじぼのぎずぼぶおでばらべ」(帰ってきた怪我人の傷をお湯で洗え)
「帰ってこられた方の中で怪我人が戻ってきたら、そのお湯で傷口を綺麗に洗って下さいとのことです」
消毒液が欲しいがないものはない。
熱湯のままで直接掛けるような馬鹿なことをしないように細かい指示を出しておいた。
そして、薬草が届いたら薬草を洗い、それをすり潰して傷口に当てる。
母上が薬を用意したが、量が多くはない。
追加で痛み止めや熱を下げる漢方薬を配合したいが材料がない。
だが、桂皮(シナモン)、紅花(ベニバナ)、山薬(自然薯、長芋)、葛根(クズの根)、大棗(ナツメ)、陳皮(ミカンの皮)、生姜(生の状態から乾燥させたショウガ)などは手に入る筈だ。
大喜爺ぃに頼んで用意して貰おう。
俺の知る薬草の知識は、この周辺で採れるものに限定される。
もっと漢方薬の知識は深めたいので医学書も欲しい。
「魯坊丸様。血止め草が届きました」
「あらっだで、ぼなぎぎにじろ」(洗って細切りにしろ)
俺はあらん限りの声を上げた。
小さい傷なら福にあげた軟膏を塗らせよう。
結局、養父は帰ってきたのは翌朝であった。色々と準備をしていたので、養父から礼を言われた。
人騒がせな信長兄上の初陣であった。
魯坊丸日記 第十二話 「傷薬を作らせる」の裏舞台
織田信長の初陣となった大浜は、衣ヶ浦と北浦に挟まれた三河湾に突き出た岬のような低地です。
この碧南の根元に当たる刈谷には、本刈谷貝塚などが点在します。
刈谷は縄文時代から発展していたことが判ります。
一方、鎌倉時代から碧南には、真宗大谷派の西方寺が明応5年(1496年)に開基しており、鎌倉時代以降に発展したことが窺われます。
津島神社などと同じく、初めは点在する島々だったのでしょう。
信長の初陣が西三河で行われたのは西三河が織田家の勢力下になっていたからです。
その重要な人物が松平信孝です。
◆松平信孝の動向
松平信孝は裏切りの人生を歩んでいる。
まず、天文四年『守山崩れ』は、安城家の一門(信定・信孝ら)・家臣と旧岡崎家の家臣の対立であり、阿部大蔵によるクーデターと考えられている。
信定は織田弾正忠家の信光の娘を嫡男の嫁に貰っており、織田弾正忠家の出城である守山を攻めるのは反対であったが、松平清康は内乱で弱体化していた尾張を奪い取ることに固執した。
※足利義澄・義晴派の清康は斯波義達を隠居に追い込んだ足利義維派の織田達勝を追い込むチャンスと考えていた。しかし、今川家も足利義植、足利義維派として活動しており、守山を攻めることで松平清康は、織田家と今川家の双方を敵に回したことになる。
信定は織田弾正忠家と結んでいるので足利義維派、今川家と通じていた信孝も足利義維派である可能性が高い。こうして、安城家と岡崎家の双方に足利義澄・義晴派と足利義澄、足利義晴派の内紛を抱えていたと考えると、クーデターが起こっても不思議ではない。
この『守山崩れ』で信定は実権を奪ったが、今川家の支援を貰った竹千代(広忠)を岡崎城に迎えたのは信孝であった。
こうして、信定を裏切って信孝は実権を奪った。
しかし、岡崎で実権を振るう信孝を毛嫌いした広忠は、渥美の戸田康光らを味方に付けて実権を奪い返します。
まず、天文九年(一五四〇年)に広忠が安祥城を織田氏に奪われた時、酒井忠尚は織田氏に心を寄せ、広忠に「難渋ヲ申懸」て重臣の石川清兼と酒井正親の切腹を迫りましたとあります。
『三河物語』では、酒井忠尚が岡崎城を乗っ取るつもりだったと書かれていますが、眉唾でしょう。
酒井忠尚は広忠の元を去り、織田方へ寝返って上野城主に戻ったようです。
信孝と懇意にしていた水野忠政は於大の方を広忠の妻に迎えていたが、広忠が戸田康光らと結んだ為に、水野忠政は広忠に不信を抱きます。
なお、水野忠政が亡くなり信元の代に代わったことで、信元は今川方から織田方へ方針を変更した。〔於大は天文十三年九月に於大は離縁される〕
広忠は信孝の懇意の者を追い出して、信孝の力を削いだ訳です。
その現状を憂いた信孝が今川家に訴える機会が訪れます。
広忠は年始の挨拶に信孝を駿河に送ったのです。
しかし、信孝が駿河に行っている隙に、信孝の妻や家臣を岡崎から追放したのです。
この事件は天文十六年の説もありますが、『角川地名大辞典』に天文十二年(一五四三年)六月に広忠が三木城を攻撃したとあるので、天文十二月の正月と推測されます。
信孝が織田方に寝返ったと考えると、岡崎の北にある酒井忠尚の上野城、岡崎の南に位置する松平忠倫の上和田城主、信孝の三木城によって南北で挟まることになっていた筈です。
この時点で織田方は矢作川の東岸まで勢力を伸ばしていたことになります。
天文十五年(一五四六年)に広忠は酒井忠尚の上野城を襲って陥落させ、忠尚を臣従させられます。その勢いで広忠は安祥城を襲ったようですが、逆撃を受けたようです。
翌年(天文十六年、一五四七年)、嫡子竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏の本拠・駿府に送ることにしたが、護送の任にあたった戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまったと『三河物語』に書かれていますが、岡崎城を南下すると、織田方の松平忠倫の上和田城主、信孝の三木城があり、そんな危険地帯を通る訳がありません。
では、鎌倉街道を通り、東三河の今橋城(吉田城)の戸田-宣成に託して、今川家に送ったことになります。
しかし、ここで牧野氏と戸田氏が争っていたことが問題です。
三河牧野氏は宝飯郡の牛久保城と渥美郡の今橋城(吉田城)を牙城にして、おり、宝飯郡内に牧野城、牛久保城、正岡城、瀬木城などを治めていました。松平清康に服従しますが、守山崩れで落命すると牛久保牧野氏は今川氏に帰属し、その傘下で勢力を盛り返していた。
しかし、天文六年(一五三七年)に戸田康光に吉田城を奪われた。
今川方と言っても戸田家は微妙な立ち位置だったのです。
『三河物語』の戸田家が裏切って竹千代を織田方に送った説が怪しい状況証拠なのです。
いずれにしろ、信孝が織田方に寝返って事で、西三河は織田家に大きく傾いていました。
【冬に採取できる薬草】
△センリョウ:お正月のお飾りでよく目にする赤い実は、縁起物として愛されている。数多くの赤い実がなるヤブコウジ科マンリョウ(万両)に対し、実の数が少ないことからセンリョウ(千両)と言われる。中国では、九節茶と呼ばれ、夏に採取し、乾燥した若い枝葉を使います。性味は辛、平。抗菌、消炎、去風除湿、活血し止痛の効能があるとされています。
△ヤツデ:葉が大型で、大きく掌状に裂けた独特の形をしているのでよく目立ち、見分けやすい。関東から沖縄に分布し、暖かい土地の海岸の林などに生えている。ヤツデの葉を乾燥したものは、八ハッ角カク金キン盤バンと呼ばれ、葉にはサポニンが含まれている。民間で去痰薬として使用されます。また、乾燥葉をお風呂に入れて薬草風呂にすると、リウマチや痔に効くと言われています。
×カンアオイ:日本固有種で、本州(千葉県~東海地方)の太平洋岸に分布する。薬草としては、開花期に根茎と根を掘り起こし、水洗い、乾燥、陰干しして用います。鎮咳、発汗、胸痛などに用い、鎮静作用が期待されます。
×ロウバイ:中国原産の落葉小高木です。日本へは江戸時代の初めに渡来し,冬の寒さや夏の暑さに強く,とても栽培しやすいことから,庭木や公園樹などとして観賞用に植栽されています。頭痛や発熱,口の渇き,多汗などの改善に用います。また蝋梅花には皮膚を再生する効果があり,民間ではごま油に漬けて火傷などに外用します。
○ビワ:漢方では乾燥させた葉を枇杷葉といい、咳止めなどに用います。民間薬としては、かぶれ、浴用などに使われます。
◎アロエ:中国では漢字で音写した「蘆薈」とし、日本で音読みして「ロカイ」とも称した。琉球方言では「どぅぐゎい」と称する。日本にはアフリカ喜望峰周辺原産で、樹高2m程に成長するアロエ・アフリカーナ(和名:喜望峰蘆薈)が、鎌倉時代頃に伝来した。民間では俗に「医者いらず」といわれてきたものであり、外用では火傷、切り傷、虫刺されに、また内用では胃腸痛、便秘など多くの効能があるとされる。
◎ツバキ:光沢のある濃い緑の葉をもちます。 名前の由来には諸説があり、厚みのある葉の意味で「あつば木」、つややかな葉の「艶葉木」、光沢のある葉の「光沢木」、ほかにもまだあります。椿油には、軟膏
◎チドメグサ:多年草、本州・四国・九州・沖縄・小笠原に分布する。収斂作用による止血成分が含まれ、止血の民間薬として古くから利用されてきた。葉をよく洗い、揉む、磨り潰すなどして外傷部(擦過傷や切創などの出血性外傷)に塗布する。 葉を洗ったあと乾燥すれば、生 薬のように服薬して用いることができる。