グーパー
「お姉さん今日は遊べないって」
隣の部屋に行った娘が、残念そうに帰ってきた。アパートの隣の部屋は、女子大生が一人で住んでいる。小学生の我が娘に、お菓子作りを教えてくれたり、お洒落な洋服を買いにつれていったりしてくれて、大変助かっている。妻は娘が幼い頃に死別しており、女性視点の無い私には、女神のような存在なのだ。
「そうか、残念だったな」
「怖いお兄さんが居たよー」
彼氏が急に訪ねてきたのだろうか?
「又、今度遊んでもらいなさい」
「はーい」
娘は、持って行ったエプロンを片付け、ピアニカを出して何か演奏しはじめた。
♪ド、レ、ミ、ファー、ソー、ラー、シ、ド、レ♪
♪ド、レ、ミ、ファー、ソー、ラー、シ、ド、レ♪
何の曲だろう? 聞き覚えの無い旋律が繰り返される。最近のアニメの曲だろうか? 何だか、気持ちがザワザワとする曲だ。
私は仕事を片付けながら、娘の奏でるピアニカを聞いていた。すると、今度は同じリズムで、同じ音を叩きはじめた。
♪ド、ド、ド、ドー、ドー、ドー、ド、ド、ド♪
♪レ、レ、レ、レー、レー、レー、レ、レ、レ♪
何だろう? 何が引っ掛かるんだろう? より一層の、ザワザワとした気持ちになる。思い出せそうで思い出せない何とも不愉快な気持ちが、私の仕事の邪魔をする。
そのうち娘は、自作の歌を歌い出した。
♪ごー、よんー、ぜろー♪
♪ごー、よんー、ぜろー♪
あれ? まさか、これは! 私は急いで娘の元に駆けつけ、歌の意味を聞くことにした。
「今の歌は、何の歌だい?」
「お姉さんがしてたー」
何だって!? してたって、まさか。
「同じように真似できるか?」
「うん!」
そして娘は、隣の家のお姉さんがしたように、やって見せてくれた。手を後ろにいる人から見えないように胸の前に隠すようにして、右手を広げて見せ、親指を折り、次に親指を隠すように全ての指を折る。それをゆっくり繰り返すのだ。
「隣に居たお兄さんは、知っている人か?」
「んー、前ぇに見たかも?」
私は慌てて、出ていこうとして思いとどまり、まずは娘に言って聞かせた。
「しばらくの間、何があっても、家から出ないようにするんだぞ?」
「わかったー」
私は急いで反対隣の家に行き、インターホンを何度も押した。
♪ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン♪
「はーい。何?」
寝癖がついたままのヘアスタイルで、体格の良い隣人が、少し眠そうな顔で出てきた。この人は消防士で、今日は非番だと聞いている。
「間違っているかもしれないけど、聞いてくれ!」
眠そうだった隣人は、私の慌てように目が覚めたらしく、話を聞いて、私の考えに同意してくれた。
「どうしたら良い?」
「訪ねていくより、炙り出す方が良いだろう」
「どうやって?」
「そりゃ勿論、火事だー!と叫ぶんだよ」
そして二人で、女子大生の部屋のドアの前で叫んだ。
「火事だー!!」
「火事だー!」
「早く逃げろー!!」
「うちももう駄目だー!」
すると女子大生の部屋から、家主の女子大生ではなく、包丁を持った若い男が一人で慌てて出てきた。
私はその男を押し退け、部屋に入り、女子大生を探した。部屋の外では、若い男と格闘している隣人の声が聞こえている。
「大人しくしろ!!」
「何なんだお前ー!!!」
「キャー、何なの!?」
「強盗を捕まえたから、警察に電話して!」
「はいー!」
返事をしている下階の住人の声が聞こえていた。
一見すると部屋に誰も居ない。私は、私と分かるように声をかけてみた。
「助けに来たよ。私は隣の、」
すると、洋服箪笥の中から、バタバタと叩く音が聞こえる。
慌てて洋服箪笥を開けると、猿ぐつわをかまされて、動けないように縛られた女性が、泣きながら倒れ込んできた。
「怪我はないか!?」
頬や目のまわりが腫れ、下着姿で縛られているようで、姿をあまり見ないようにしながら猿ぐつわと縄をほどき、目の前のタンスにあるコートを女子大生にかけてから、外を見に行った。
消防士の隣人は、若い男の上に跨がるように、体重をかけてのっており、のされた若い男は、バタバタと踠いていた。隣人は余裕そうに電話をかけ、消防署に救急車の要請を出していた。
救急車が先に到着し、女子大生を収容してもらい、警察の到着を待った。
パトカー2台に警察官が5名到着し、包丁を持っていた若い男を、強盗の容疑で連れていった。残ったパトカー1台と、警察官2名に、何があったのかと詳しく聞かれ、非番の消防士の隣人には取り敢えず休んでもらい、私は家にいる娘に声をかけ、一緒に警察署に事情聴取に行った。
「お嬢ちゃん、何があったか教えてくれるかい?」
「はーい。今日はお姉さんとお菓子を作る約束をしてたの。だから、お部屋に行ったんだけどね、怖いお兄さんが出てきてね、お姉さんは忙しいって言っててね。私が約束したのにって何回も言ったら、お姉さんが玄関に来たけどね、なんか元気がなくて、私の肩に手をのせて、指先でトントントン、トーントーントーン、トントントン、って何度も叩くから、覚えちゃったの。そのあとに、お姉さんがグーパーってしてるから、なんだろうってよく見たら、パーと、グーの間に、親指を先に折ってるから、じゃんけんじゃなくて、数字なのかなって思ったの」
調書を取っていたらしい警察官が、慌てて書いているのが目に入った。
「娘は、そのリズムと数字を、ピアニカと歌で奏でていまして、私が気づき、隣人の非番の消防士に相談し、火事だと騒ぎ、家から出てきたところを、消防士の隣人が捕らえました」
「成る程。では、消防士の隣人殿に、起きたら事情聴取にお越しくださるようお伝えいただけますか?」
「分かりました」
「ねー、ねー、お姉さんのリズムと数字はなんだったの?」
「トントントン、ツーツーツー、トントントンと言うのはね、モールス信号のsosで、掌を向けて広げたあと、親指を折り、隠すように全ての指を折るのを繰り返すのも、ハンドサインの、助けてと言う意味なんだよ」
「そうだったんだ! お姉さんが助かってよかった!」
「そうだね」
娘は、悲惨な姿は見ていないので、ただ助かったことを喜んでいた。
押し入った若い男は元彼で、相手の暴力が原因で別れ、接近禁止命令も出ていたらしい。親御さんがお礼に訪ねてきて、語ってくれた。