088最後の最高の舞台
■最後の最高の舞台
「ぐあぁっ!」
俺は酒の泉に倒れ、激痛を生じ続ける左ふくらはぎを押さえた。あまりの痛みで額に汗が噴き出る。切れた足はすぐそばに転がっていった。
俺の足が……! ちくしょう、何が起こった!?
「くくく……当たったようだな」
ついさっきまでいびきをかいていた竜生が、まったくのしらふになったかのように起き上がった。まるで悪意の黒雲が立ち昇ったかのようだ。冷笑と嘲笑は同時にできることを、目の前の怪物が教えてくれる。
「それがしの左肘の刃で切り裂いたのだ。お前が馬鹿丸出しで近づいてくるのを待っていて、な」
「酔っ払っていなかったのか……」
「いや、少しは酔ったぞ。後はそれがしの演技というわけだ。ヤマタノオロチを酔わせたいなら、八塩折之酒を山ほど用意するんだったな」
俺は激痛と恐怖で体が震えているのに気がついた。くそったれが……!
『逃げるぞ、姫英!』
俺は床に転がっているアメに手を伸ばそうとした。
「おっと、そうはいかんな」
灼熱が俺の右前腕で爆発した。竜生の左足が振り上げられ、その刃が俺の腕を斬り落としたのだ。血しぶきが舞い、俺は血液と酒の混合する水たまりへと逆戻りする。
「うあぁ……っ!」
もう痛みに悲鳴を上げる自動機械と化した俺だった。竜生が天羽々斬の剣を踏みにじる。
「オロチさまは死んだ」
不意に竜生が遠くを見るような目つきになった。声に寂寥が混じる。
「オロチさまを復活させた際は、とても輝いていたという草薙の剣。だが夏原姫英、きさまがヤマタノオロチさまよりそれを奪い取って以後は、もう完全に死に絶えてしまった。草薙の剣で何人ものいけにえを斬ったが、いったん死んでしまったものはもう元には戻せない。覆水は盆に返らなかったのだ」
まるで自分が被害者であるかのように、悲嘆を口からこぼす。
「ヤマタノオロチの一族は、ときおり現れるほとりのような能力者の存在を支えに、オロチさまの復活を願って生きてきた。そしてその鍵となる草薙の剣を探し、日本中を駆け回っていた。そこへもたらされたのが、暴走族を爆風で吹き飛ばして撃退したという少年の話だ。調べてみれば、山口県萩市周辺で超常現象によって死んだ人間が多いことが分かった。それがしはほとりと昌伯の双子を、少年――夏原姫英の通う六田高へ転校させた。教師に金を握らせ、同じクラスになるようにもした」
俺は左足と右腕を斬り落とされ、朦朧とする意識の中で竜生の声を聞いていた。
「それがしは双子の報告から断定した。八尾刀こそはかつて先祖がそのオロチの血で分解した、草薙の剣の小片だと。だから我ら西川一族は、私立探偵の隠れ家で4本、石彫公園で4本、合計8本を奪取させてもらった。そうして草薙の剣は現代に蘇ったのだ。そして島根の船通山で、オロチさまに草薙の剣を捧げ、この世に復活させた。あの若い女――磯貝とかいう美人をいけにえにな」
竜生は酒がほどよく回っているらしく、上機嫌でべらべらしゃべった。
「今朝、それがしが双子と磯貝とともに屋上へ行き、そこへお前を呼び寄せたのはなぜか分かるか? 最後の、最高の舞台を作りたかったからだ。磯貝はヤマタノオロチさまが好んだいけにえだ。双子はどちらもオロチさまの血が濃い。お前は『天羽々斬の剣』を持つ仇敵だ。それがしは西川一族の頭首だ。そして死んでしまった草薙の剣がある。それがしは最善の状況を作り、そこからすべてを片付けてしまおうと考えたのだ。そう、オロチの一族である我々すらも含んでな」
「……ああ、そうかよ。でも孫の西川姉弟を斬ったってのに、お前は何も悲しんでいないようだな」
「悲しむ?」
半オロチ、半人間の竜生はせせら笑った。
「何を悲しむ。こうしてオロチさまは、それがしを受け入れてお前を殺しかけているではないか。すべては結果だ。結果さえよければ、過程などどうでもいいのだよ。そうだな、これから国会議事堂まで行って、政治家を皆殺しにするのも一興だ」
奴はうんうんと笑顔でうなずく。長い首の先が上下に振れただけだが。
「我ながら悪くない考えだ。素晴らしい結果を生むだろう。よし、そうしよう」
『おい姫英、助けてくれ! このままじゃ折れちまう!』
竜生に踏まれているアメが泣きそうな声で訴えた。しかし自分の激痛で手一杯の俺に、彼を助ける余裕などあるわけもない。
ここまでか。俺はアメの破砕音――完全なる絶望の音を聞くのを恐れ、耳をふさぎたかった。
そのときだ。
「ぐぉうっ!」
数回の発砲音に続いて、竜生の巨体が横倒しになる。俺はそれと見て取ると、この好機を逃すまいとアメの柄を左手でつかんだ。
「逃げるぞ、アメ!」
『よし! しっかりつかまってろよ!』
天羽々斬の剣が猛スピードで俺の体を引っ張っていく。酒屋の入り口を抜けて外に飛び出ると、そこには唯さんの運転するスバルのGF1型インプレッサスポーツワゴンが停まっていた。そこから上半身を出して拳銃を構えているのは磯貝さん!
俺は窓から車内に飛び込んだ。アメはうまい具合に人や物をよけて俺を座らせる。
「磯貝さん、また助けられちゃいましたね」
「喜んでる場合じゃないわ。あいつ、全然効いてない!」
竜生が酒屋からこちらへ疾走してきた。




