087酩酊
■酩酊
逃げるのは別に悪い手じゃない。少なくとも、今は。俺はそう考え直した。
「西川竜生! 悔しかったらここまでおいで、だ!」
尻を叩いてみせる。オロチと人間の融合生物は、俺の挑発にあっけなく乗った。
「このガキめ! 今行くぞ、待ってろ!」
竜生は驚異的な跳躍力で屋上にのぼる。床が奴の体重で半壊した。そこから俺目がけて躍りかかってくる。
「アメ!」
『任せろ!』
天羽々斬の剣は風をまいて飛び、竜生の首から俺の身を逃した。化け物は校庭に着地して悔しがる。
「おのれ……!」
その周りで生徒たちが恐怖ですくんでいた。だが今の竜生には、彼らは目に映っていないようだ。奴の両眼は空に浮かぶ俺をにらんで離さない。
そうだ、それでいい。俺の六田高でこれ以上暴れさせてなるものか。
『この後はどうするんだ? やっぱりずらかるか?』
「もちろん。俺の言うとおりに飛んでくれ」
俺はオロチの好むものを考えていた。
ひとつは美しい娘。
ヤマタノオロチは、足名椎命と手名椎命がもうけた8人の娘を、毎年ひとりずつ食べたという。そして末娘の奇稲田姫も毒牙にかけようとしたところで、スサノオに斬殺されたらしい。
もうひとつは大量の酒。
スサノオはヤマタノオロチを殺害する前に、その八つの頭それぞれに八塩折之酒を飲ませて酔っ払わせたという。その酒は今でいう貴醸酒で、かなり甘いものだそうだ。それを竜生に飲ませて酔わせれば、こちらにも勝ち目があるというものだった。
『じゃあ目指すは酒蔵か。でもそんな場所、この近くにあるのか?』
「いや、ない。ただ酒の卸し売りの店ならある」
酒屋澄崎。日本酒も多数扱っている大きな店舗だ。家族でドライブに行った帰りには、ここへ立ち寄るのが常だった。店長や店員には悪いけど、今回は利用させてもらおう。
俺は『澄崎』の前に着地した。派手な破壊音を上げつつ、獲物を見つけた虎のような俊敏さで、西川竜生がこちらへ向かってくる。
「何だ何だ?」
近づいてくる怪物の音に、店の人が外へ出てきた。
「ひええっ!」
店長のおばちゃんが、ヤマタノオロチと人間の合成生物に悲鳴を上げる。俺はアメで店内の酒瓶や酒パックを砕き、ビールやら日本酒やらウイスキーやらワインやらで店内を満たした。そして店に携わるものすべての退去を確認すると、入り口と正反対の位置へ移動する。
『うまくいくのか……?』
「しっ、黙ってろ。来るぞ」
さっきまで疾走音だったのが、今は歩行音にかわっていた。俺は棚の隙間から入り口を盗み見る。全身ウロコだらけで、大人の2倍はある背丈の怪物が、首を長く伸ばして屋内を走査した。
「酒、か……」
竜生は喉を鳴らす。床に水たまりを作っている酒類を、ちろりと舌で舐め取った。
「うまい……うまいのう……!」
単純な歓喜の声がその口から漏れる。化けものは俺を追っていたことも忘れたか、無我夢中で酒に没頭しはじめた。まだ新品のままの日本酒を手でつかみ、その中身を浴びるように喉へと注ぐ。アルコール度数の高いものも次々に飲み下した。
その酒への飽くなき執念は、まるで重度のアルコール中毒者のようだ。今のあいつなら、アルコール度数96度の世界最強の酒・スピリタスさえ水のように飲み干せるだろう。
『おい見ろよ。やっこさん、目つきが怪しくなってきたぜ』
確かに首の先にある顔の両目は、以前の覇気を失いつつあった。竜生は顔を真っ赤にし、足元がおぼつかないのか千鳥足だ。それでも酒を飲みまくる。
やがて満面の笑みを浮かべながら、轟音とともに仰向けに倒れた。酔い潰れたのだ。俺は内心ガッツポーズした。棚を回りこみ、入り口側へ戻る。
「ぐうう……ぐうう……」
竜生のいびきだ。完全に寝ている。
『こんなアホみたいな作戦に引っかかるなんて、オロチの化身も大したことないな』
「それはいいとして、どうやれば殺せるんだ?」
『お前、ヤマタノオロチを倒したときのこと、もう忘れたのか?』
えーっと、あのときは草薙の剣をオロチの尻尾から剥ぎ取ったんだっけ。そうしたらぱったり動かなくなって死んだんだよな。
「八尾刀か」
『そうだ、八尾刀を全部奪うんだ。そうすればこいつも死ぬはずだ』
竜生の両肘・両手・両膝・両足。計8本の八尾刀。俺はそれを見下ろしてつぶやいた。
「これのために、今まで何人の犠牲者が出たんだ……? まあ俺も殺した側に入っているから、道徳的なことは言えねえけどな」
天羽々斬の剣が俺を叱咤した。
『そもそも武器は生物を殺すために作られているんだ。この俺さまもな。人間にできることは武器を使うか、捨てるか、二択しかない。もし……』
いったん言葉を区切る。やがて強い調子で言った。
『もし姫英、お前がこの死の連鎖を終わらせたいなら、今度こそすべての武器を捨て去るんだ。竜生を最後の死人として、な』
「……ああ、分かってるよ。じゃあアメ、最後の仕事だ。まずは左肩から……!」
俺は竜生の左肩を分断しようと、剣を振り上げた。
だが……
次の瞬間、俺は左ふくらはぎから下を失っていた。




