007夏原姫英C
(7)夏原姫英C
小学3年生の、セミがうるさかったあの日の出来事。あれからは、なるべく静かな空間や部屋を望むようになった。……というより、そうせざるを得なかった。
そして中学2年のとき、同じクラスになった古尾谷ゆかりさんに恋心を抱いた。今どき珍しく純粋な優しい子で、特に仲が良かったのだ。
自分が性同一性障害であることは教師たちしか知らない。告白する際、そのことを隠しておくのも失礼だからと、すべて打ち明けた。
だが、それは悲しい結末を招く。俺は彼女の表情にきざした暗雲に、続く言葉を内心で的中してみせた。
「ごめんなさい、夏原くん。私、たとえ心が男の子でも、女の子と付き合うなんて考えられないよ……」
古尾谷さんはそう断り、急いで去っていったのだ。そのことは俺の極めて高い自尊心を大いに傷つけた。以降、彼女は俺の秘密を口外こそしなかったが、よそよそしく冷たい関係になってしまった。
俺はなんで女の体なんだろう。どうして男の精神なんだろう。人はなぜそれに氷の視線を浴びせてくるのだろう。
力が欲しい。この体が変えられないのならせめて、男のような、男に負けない、そんな力が……
俺の希求は尽きなかった。
定期的にくる生理は、俺を打ちのめした。これほど嫌悪感を抱くこともない。そして、どんどん大きくなってくる胸も。
ある日、そのことについて妹の光に相談した。彼女はポテトチップスを食べながら、『花とゆめ』の『赤ちゃんと僕』から目を離さない。
「マラソンしたら?」
片手間のようにいう。
「何でだよ」
「マラソン選手の女子って、みんな胸がたいらじゃん。健康的にもなるし、いいと思うよ」
「そうか! その手があったか!」
不二子から電話をもらった銭形警部よろしく、俺は椅子から立ち上がった。
それから俺は、毎週日曜日に20キロのマラソンをこなすようになった。効果は出て、俺の胸はだんだん小さく筋肉質になっていった。なんか馬鹿みたいな気もするが、男性ホルモン注射を打てない俺にとっては確かに良策だ。
そんなある日。午前中に用事があり、俺は夕暮れのマラソンとしゃれこんでいた。さびれた街道の往復地点で折り返し、後は帰宅するだけである。今日も疲れたけど、気分はいい……
そのときだった。
「い、いやっ!」
女の子の悲鳴だ。俺は一瞬立ち止まり、ついで聞こえてきた方向へダッシュした。事件のにおいに、俺の正義感が働いたのだ。黄昏時に取っ組み合う男女が目に飛び込んできた。
女子高生が、二十歳ぐらいのパーカーの男に両腕をつかまれている。男の目はいっちゃっていた。周りに人影はないとはいえ、白昼堂々の暴行だ。俺は彼を止めようと、疾走して殴りかかった。
「何やってんだてめえっ!」
奴の背中に拳を打ち込む。だがしょせんは非力な女の腕力だ。パーカーの男は大してダメージも受けなかった。女子高生を離して振り返り、俺の顔面を全力でぶん殴ってくる。目の前がスパークし、激痛とともに俺は地面に倒れた。くそっ、情けねぇ。
だが俺が邪魔したことで、暴行魔はひるんだらしい。「ちくしょう!」と叫びながら、ものすごい速さで逃走していった。
「待てっ!」
追いかけようとする俺のジャージのすそを、女子高生がつかむ。
「置いてかないで……!」
それで俺が足踏みする間に、男の姿は曲がり角に消えていった。俺は悔しく鼻血をすすり上げる。
危機にひんしていた少女は向井渚と名乗った。この近くの六田大学付属高校1年生だという。俺は向井さんを彼女の自宅に送り届けた。そして電話により駆けつけてきた警官との事情聴取で、男の特徴を語った。
向井さんは、彼が数ヶ月前から自分につきまとっているストーカーだと語る。監視に飽き足らず、ついに実力行使に出てきたのだ。俺は間一髪のところを救ったということで、向井さん本人とその両親に厚く感謝された。
「それほどでもないっすよ」
俺は嬉しさを隠してけんそんする。何より、向井さんの可愛さ・美しさにひと目ぼれしていた。ストーカーは最低だが、向井さんを魅力的に感じたのはなんとなく分かる気がする。
そして後日、弓削尚孝という男がくだんのストーカーだと判明し、自供したということで逮捕となった。その報は俺や向井さんをほっとさせる。
俺が六田高を選んだのは、大好きな向井さんがいるからだった。しかし、他にも自転車で通える距離だったり、六田高が面接時に俺の特徴――性同一性障害――を受け入れてくれたりしたことが大きい。職員用のトイレを特別に使わせてくれる、秘密を守ってくれるなど、六田高の面接官は何かと親切に約束してくれた。
ここなら男らしくというより、人間らしく生きられる。俺はほかの選択肢を捨て去り、猛勉強で試験をパスした……
シャワーの熱さに陶酔しながら、俺は『爆裂疾風』がある今を喜んだ。もうほかの男に負けたりはしない。因縁を吹っかけてくるやつがいても、あの爆風であっさりのばしてやる。
そう思うと、俺の口角は自然と吊り上がるのだった。