077いけにえ
■いけにえ
磯貝さんはぐったりしていた。俺は縄の結び目をほどき、彼女を束縛から解放する。石碑の台から落ちそうになったので、あわてて抱きとめた。
俺の目の前に磯貝さんの横顔がある。何て美人なんだろう。まるで女神さまだ。
――と、悠長にときめいている場合ではなかった。俺は彼女を座らせ、その肩を揺さぶった。
「起きてください、磯貝さん。俺です、夏原です」
「うう……」
革製ホルダーに入っているエビアンミニボトルを取り出し、ふたを開けて彼女の口に当てる。
「飲んでください、ミネラルウォーターです」
「ん……」
磯貝さんの喉が上下した。まつ毛がぱちぱちと合わさり、彼女はこちらを見上げる。うつろな声を発した。
「夏原くん……」
「助けに来ました。もう大丈夫ですよ」
磯貝さんの両目がうるみ、次の瞬間、彼女は俺にしなだれかかった。
「こ、怖かった……! 車で移動中に目が覚めて……。あ、あんなに恐ろしい思いをしたのは初めてだったわ。縄は解いてもらえないし、この山を登るときも背後をいちいち蹴り飛ばされて……。この石碑に縛り付けられたときは、もう殺されるしかないんだってあきらめたぐらい……! ほ、本当にありがとう……!」
俺は磯貝さんを抱きしめる。大切な人を救出できて、本当によかった。
安堵で嗚咽する磯貝さんの声に、西川昌伯の声がかぶさる。
「やれやれ、また夏原か……」
彼はいつの間にかこちらへ近づいており、寝ぼけまなこを指でこすった。
「お前、どうやったら死ぬの?」
俺は拳銃を構える。銃口を昌伯の胴に向けた。
「それ以上近づいたら撃つぞ!」
昌伯は立ち止まらない。大あくびをした。
「儀式はもうすぐ終わる。そうしたら、後はいけにえの磯貝を草薙の剣でぶった斬るだけさ。ここまできたらジタバタしないで、さ。大人しく死んじゃおうよ」
「ふざけんな!」
俺は引き金を引いた。轟音とともに昌伯の胸へ弾丸がえぐり込む。血の塊が破裂した。
「ぐああっ!」
昌伯がその場に転がって、包丁を入れられた鮮魚のようにもだえ苦しむ。
流血する右手を押さえながら、彼の姉が駆けつけてきた。
「昌伯!」
「おのれっ! 痛てえなっ! よくもやってくれたなこのくそ夏原がぁっ!」
俺は汗をかいていた。このニューナンブM60の装弾数は5発。今のであわせて3発使った。撃てるのはあと2回だけだ――
そのときだった。通奏低音のように流れ続けていた祈祷師の声が、ぴたりと止んだのだ。
「ヤマタノオロチ降誕の祈り、全部終わったのね?」
民族衣装の老人がこうべを垂れた。
「ははぁっ!」
ほとりが陰惨な笑みを浮かべる。つかつかとほこらに歩み寄り、その上にのぼって、草薙の剣を左手で手にする。
「でやっ!」
半ば地面に突き刺さっていた刀身は、まるで飴を切断するように、土とほこらと祭司を斬り上げて地上に姿を現した。
「なっ……!」
俺は絶句する。さっきまでオロチの復活を願って唱えていた祈祷師を、彼女はいささかの迷いもなく斬り捨てたのだ。石彫公園でもそうだったが、オロチの一族は悲願のためなら誰でも身を投げ出すし、殺されても文句を言わないらしかった。
草薙の剣に血がべったりついたかと思うと、それはすぐに表面に吸い込まれていった。
代わってほとりの右手が回復する。彼女はパチパチパチ……と指を鳴らし、たちまち10匹ほどの『口』の怪物を出現させた。
そして、もだえ苦しむ昌伯の手に柄を握らせた。
「私が」
スーツ姿の男が、ほとりの弟のそばにひざまずく。昌伯は息も絶え絶えながら、彼を刺し殺した。とたんに昌伯の胸の傷が消え去る。
「よおぉぉしっ! 準備万端だぞ、こらぁっ!」
昌伯が草薙の剣を手に、意気揚々と立ち上がった。俺はためらいなく4発目の弾丸を撃ち込む。
だが……
「何っ!?」
俺の希望を乗せたその一撃は、あろうことか、空中で静止してしまったのだ。昌伯はげらげらと愉快そうに笑った。
「馬鹿が、そんなものが草薙の剣の保持者に効くものか。ほらよ、返すぜっ!」
昌伯が弾丸をデコピンする。俺の右肩に激痛が走った。
「ぐはぁっ!」
彼のはじいた弾が、正確に俺へと撃ちこまれた。曲玉の力ですぐ治るかと思いきや、傷口からは血が溢れ続ける。やはり曲玉は弱体化しているようだった。
「夏原くん!」
昌伯とほとりの本当に楽しそうな哄笑が響き渡る。磯貝さんが拳銃を手にした。
「よくも……!」
「おっと女ぁ! お前も弾丸を浴びたいのかぁ?」
磯貝さんの指と決心が鈍る。
「くっ……!」
ほとりが笑い収める。
「じゃ、美人さん。お別れね。さよなら。……昌伯」
「おうよっ!」
昌伯が草薙の剣を突き出した。先端が伸び、磯貝さんの胸に深々と突き刺さる。
「ぐぁっ……!」
致命傷。俺はその事実が信じられず、ただ絶叫した。
「磯貝さーんっ!」
次の瞬間だった。
閃光が分厚い雲を割り、鳥居を直撃したのだ。遅れて轟音と爆発が生じる。
「うわぁっ!」
俺は暴風で吹き飛ばされた。船通山の頂上が割れて崩壊し、巨大な八つ首の龍が顕現する。
視界が煙でふさがれる一瞬前に、俺は確実にこの目で見た。
龍が、ヤマタノオロチが、磯貝さんを飲み込むところを。




