060磯貝彰子
■磯貝彰子
六田高の英語教師が、なぜか遠く離れた私立探偵事務所で、謎の串刺し死体として発見された。この事件は2週間が経った今もなお、ほうぼうで推測と憶測の種子を撒き散らせていた。それは暗鬱と疑惑の花を咲かせて、いまだ枯れてしまいそうにない。
彼は文芸部の顧問でもあり、俺の尊敬する恩師でもあった。『刺突岩盤』という八尾刀の力で殺されたことは、俺のほかは数名しか知らない。殺した相手はその後、新興宗教の教祖を殺害した罪で逮捕されており、おそらくそのまま世に出てくることはなかろうと思われた。
それはともかく、六田高としては新しい英語教師の確保が喫緊の課題となっていた。この前終わった期末考査は採点にてんやわんやだったらしい。休日期間中の課題の決定や、赤点を取った生徒の補習授業の担当も必要だった。生徒の親からの苦情もあり、早急な代打の起用が必要だったわけだ。
そこでベテランの中年英語教師・形繭卓が乗り出したのだが、いかんせん腰を悪くしている。そこで助っ人の手を借りることになったらしいのだ。
「私は磯貝彰子と申します」
そういってお辞儀をしたのは、俺の好みのどストライクにはまる、類まれな美貌の女性だった。ショートの髪は漆黒で、整った鼻筋と魅惑的な両目には世の男子もイチコロだろう。もちろん俺もその一人だった。
「まだ26歳の部外者ですが、形繭先生の英語の授業を補佐させていただきます。どうぞよろしくお願いします」
俺は隣の浜辺さんに肩を叩かれた。何だろうと思ってそちらへ向くと、
「夏原くん、床にシャーペン落としてるよ」
俺はいつの間にかシャーペンを取り落とし、しかもそれに気づいていなかったのだ。
「はははっ」
文芸部の部室へ向かう途中、上山はその話で豪快に笑った。あんまり笑うので、俺は彼の肩を軽く叩く。
「何だよ、ちょっとぼけっとしてただけだろうが」
上山はすまん、と腹を抱えて言った。
「この前2年の先輩にふられてから、まだ日も浅いってのに、もう次の恋か。さすがは夏原だ」
何が「さすがは」だよ。……2年の先輩は俺がふったのだが、その事実は逆転させて伝えてある。俺はまだ胸に傷が残る身だった。
「雄大ちゃん、あんまり笑ったら失礼だよ」
そういう浜辺さんもくすくすと口元を押さえている。ちぇっ、ふたりともいい気なもんだ。
でも……。俺はやっぱり、磯貝さんに恋してしまったのだろうか。しかも一目ぼれで。上山にしてみれば、つまりそう見えるのだろう。
「でも、磯貝さんはすごい美人だったな。夏原の気持ちもよく分かる。それであの発音のたくみさ、流暢さ……。欠点は今のところ見当たらないな」
浜辺さんが恋人に同調する。
「そうね、すっごい優秀な人だと思う。憧れちゃうな。夏原くん、年齢差は10だけど、それでも付き合ってみたいの?」
「ちょっと浜辺さん、俺はまだあの人を好きだなんて一言もいってないけど」
「まあまあ、そこはさくっと認めようよ」
「あのね……」
俺は腕を組んで考えた。それこそマリアナ海溝より深く、深く。
「……まあ、歳の差は関係ない。俺はそう思う。世の中には親子ほど歳の離れたカップルもたくさんいることだし……。付き合ってみたい、かな」
ふった先輩といい、今回の磯貝さんといい、俺はどうも年上が好みのようだ。俺の最初の恋は同級生の女子に対してだったが、あの子も今考えると、年上気質だった気がする。
「あ、夏原くん!」
浜辺さんが俺のシャツをつまんで引っ張る。何かと思って面を上げると、目の前から話題の磯貝さんが歩いてくるではないか。俺は急に動きがぎこちなくなり、視線は吸い込まれるように彼女の顔から離れなくなった。
「さようなら」
放課後だ、ここはさようならが正しい挨拶だ。現に上山も浜辺さんもそういって頭を下げた。俺は――
「さようならです、磯貝さん!」
緊張に上ずり、やや調子はずれの声でそう言い放った。彼女は苦笑した。
「さようなら」
すれ違い、通り過ぎていく。俺はそのスーツの背中を目で追いかけながら、この世にこれほど嬉しい「さようなら」があるのかと驚嘆していた。
俺は、磯貝さんが好きだ。大好きだ。そのことを、改めて思い知った。




