002姫英の日常
(2)姫英の日常
向井先輩が俺を抱きしめている。試合用のテニスウェアではなく、かといって練習用のジャージ姿でもない。彼女は紅色のブレザーに白いシャツ、緑のリボンに灰色のスカートという格好だった。右胸に緑と黄色の校章が縫い付けられている。要は制服姿だった。2年であることを示す青い上履きを履いている。
俺はドキドキしていた。憧れの人に抱擁されるなんて、こんな幸福はないだろう。しかも顔が近い。彼女の吐息が鼻にかかってきたり、黒い瞳がうるんでいるのを目の当たりにしたり……
うん、これは夢だ。そうに違いない。明晰夢というやつだ。ならばここは恋心のおもむくまま行動しても、決してバチは当たらないだろう。
「先輩……!」
俺は彼女を抱きしめ返そうと、両腕を回した。柔らかい背中の感触に、心臓が飛び出そうなほど鼓動する。
と、そのとき。
「『放射火炎』!」
いきなり目の前の少女が二階堂さんになり、二人の間に炎が吹き上がった。熱い! 俺はひっくり返った……
「姫英お兄ちゃん、朝だよ朝! いつまで寝てるの?」
俺はあわてて飛び起きた。窓ガラスから差し込む日光に、それが照らし出す俺の部屋に――今までのがやっぱり単なる夢だったと思い知らされる。
「もう7時45分だよ。何度呼びかけても起きないから、入ってきちゃった」
「光……。俺、そんなに寝てた?」
「そりゃもう、ぐっすりと。だから目覚まし時計のかけ忘れには気をつけてね、って普段から注意してたのに……」
わが妹に情けない姿を見せてしまった。にしても、なんつう夢を見たんだ。前半まではよかったんだけどなぁ。
「光、起こしてくれてありがとな。学校の制服に着替えるから、部屋出て」
「あ、うん。分かった」
光は三つ編みの赤髪をしたがえ、紺に白いラインのセーラー服をひるがえしつつ退室した。まるでツバメだな。
俺はベッドから下りて着替え始めた。ちらりと自分の鞄を見やる。その開いたジッパーの中から、鞘に収まったままの小短刀が姿をのぞかせていた。刃の長さは、昨日測ってみたら20センチ弱だった。
二階堂さんの持ち物だ。今日登校したら返してあげないと。
準備を終えて1階に向かう。父の夏原飛鳥、母の夏原かもめがすでに出勤の用意を整えて朝食をしたためていた。
若くして結婚したため、どちらもまだ30代。おしどり夫婦というやつだ。
「おはよ、親父、お袋」
「おはよう」
「おはよう、姫英」
俺は腹をなでた。だいぶ空きっ腹だ。早速パンと牛乳、サラダと目玉焼きのご飯にありつく。泣けるぐらいにうまくて、昼までのエネルギーを充填するべく、休みなく手を動かした。
と、視線に気づく。
親父は少し不機嫌そうだった。しかも俺をにらんでやがる。
「何だよ親父、気になるじゃねえか」
彼は銀縁眼鏡を中指で押し上げた。いつもの癖だ。
「昨夜は帰宅がいつもより遅かったし、今朝は光に起こされるまで寝てたんだろう? 最近の姫英は時間にルーズ過ぎる。そういう細かいところから日常生活は乱れていくんだぞ」
「ザ・一般人な親父がいうと説得力あるな」
俺は素直にうなずいた。いまだかつて父を論破できたことのない俺だった。
やがてお袋が、続いて親父が仕事に出かけていった。光は鍵閉め当番を俺に任せて登校しようとする。
「なあ光、もし炎が出る短刀があったらどう思う?」
「アニメの見すぎだよ」
光は取り合わず、さっさとドアの向こうへ消えてしまった。うーん、われながら馬鹿な発言だった。しかし事実だったんだよな……
残された俺は『刀による殺人か 世田谷区の老人が惨殺される』との物騒なニュースを観ながら、ようやく食事を終えた。余は満足じゃ。