001発端
(1)発端
1993年4月、山口県萩市。六田大学付属高校の入学式から、もう3日が経過している。俺は新1年生として、1年B組に編入された。
まだ友達ができていないことに少しの不安はある。けどまあ、それについてはいずれ何とかなるだろう。生来の楽天家である俺はそう決めつけて、ホームルームが終わると同時に教室を出た。
鞄の中に入っているプレゼント。先輩、喜んでくれるかな。
下駄箱で外靴に履き替え、校庭に向かう。広い敷地の片すみのコートで、女子テニス部の部員たちが華麗なボールさばきを見せていた。その中に目指す人物を発見する。見学者の女子たちにサーブの打ち方を披露していた。
向井渚先輩――俺の憧れの人。六田高を選んだのは、彼女がいるからだとさえいっていい。茶色いセミロングに美しい顔立ちが目を引くが、何より注目を集めるのがその魅惑的な瞳だ。
「向井先輩!」
「あら、夏原くん」
黒真珠のような目が笑っている。迷惑に思われたりしてないよな、と少し気おくれしていたが、どうやらそれは杞憂に終わったみたいだ。
彼女はこちらへ駆け寄ってきた。ああ、そのしなやかな動作と揺れる髪が美しい。天使とはまさに向井先輩のことをいうんだ。
「今日も暇してるみたいね。練習、見ていく?」
「はい、喜んで! その前に、あの、ちょっと渡したいものがあるんですが……」
「へえ、何?」
俺は鞄のジッパーを開いた。中から黒猫のマスコットキーホルダーを取り出す。向井先輩の顔にぱっと花が咲いた。
「かわいい! これを私にくれるの?」
「はい、もちろん!」
「ありがとう!」
黒猫を渡すと、彼女はじっと見つめて嬉しそうに微笑む。よかった、喜んでくれたみたいだ。
「これ、私の鞄に付けとくね。じゃあ私、練習に戻るから」
「はい!」
俺は木陰のベンチに座り、向井先輩の勇姿を眺めた。至福すぎる……!
俺は10分ほど見物してから、帰宅の途についた。途中で古本屋をめぐり、目当ての書が入荷していないか確認する。これは俺なりの優雅なひととき。
割と時間を潰したあと、喫茶店にも寄って戦利品を鑑賞した……
気がつけば早くも夕暮れだ。ああ、今日も幸せだった。俺は店を出ると、薄闇のなか鼻歌を歌いながら、愛用のBMXでひた走る。途中で繁華街に入った。
1月にUCIと国際BMX連盟が統合を始めて、BMXも今から最盛期を迎えるのかな――とか考えていると。
「ん?」
若い女の悲鳴が聞こえた、気がした。まさか犯罪? 俺は急ブレーキをかけて数歩後退する。右の狭い路地裏の闇をにらみつけた。
茶色いコートを着た男が、ふらふらしながら何かわめいている。その背中が邪魔でなかなか気づけなかったが、どうやら六田高の制服を着込んだ少女に言い寄っているらしい。
同じ高校の人間として、こいつは見過ごせないな。俺はBMXから降りると鍵をかけて、男女に近づいていった。果たして非力な自分で大人の男に対抗できるだろうか? その不安で少し体が震える。
だが、そのときだった。
「『放射火炎』!」
女子の声が聞こえたかと思うと、なんと二人の間に炎が吹き上がったのだ。火傷した男は尻餅をついて痛がる。それで分かったが、燃えているのは少女の手にする小短刀の刃だった。炎を吐く刀は、しかしすぐにその火を引っ込める。武士の脇差――というには小さすぎた。
そのとき、俺と少女の目が合った。彼女は確か――同じ1年B組の二階堂香澄さんその人だ。そういや放課後の女子テニス部にも顔を出してたっけ。
「大丈夫か、二階堂さん」
俺が近寄ると、二階堂さんはひどく狼狽した。「見なかったことにしてくださいませ!」と叫び、短刀を鞄にしまいこみつつ、俺とすれ違って逃げる。中年男は相変わらず痛がっていた――どうも単なる酔っ払いのようだ。
俺は振り返り、二階堂さんを追いかけようか迷う。と、何かにつまずいた。
彼女があやまって落としていったものであろう、一振りの小短刀が地面に転がっていたのだ。柄は白いプラスチックだ。鍔はなく鞘は木造だった。
俺はそれを拾い上げると、鞘から出してみた。長めの果物ナイフに似ている。刃の先端を宙に向けて、ためしに『放射火炎』とつぶやいてみた。
だが小短刀はうんともすんとも言わなかった……