“命”
救急車に乗せられている担架には若い男が横たわっている。その傍では初老の男が警察官に囲まれ、膝をついてうなだれている。折れ曲がった道路標識には軽自動車がめり込んでいる。
奇跡的に軽傷で済んだ運転手はすぐに110番。同時に119番して救急車を呼んだ。そして、今、警察官に事情を聴かれている…。
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カウンター席に頬杖をついてグラスの底から湧き出る小さな無数の気泡を唯は眺めている。その向こうにある大きな窓から見える外の景色も視界に留めながら。そこへ一台の救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎる。唯はグラスの横に置いたスマートフォンに目をやる。そして、ため息吐く。待ち合わせ時間はとうに過ぎている。
「ごめん、遅くなった」
唯の隣に座って声を掛けたのは勇太だった。
「もう! 毎回毎回遅刻ばっかり!」
「だからごめんって!」
「まあいいわ。許してあげる」
「唯のそう言うところ好きだよ」
そう言って微笑む勇太。唯は勇太のそんな笑顔が大好きだった。思わず顔が赤らむ。唯は恥ずかしくなって席を立つ。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
勇太は頷いて唯を見送る。
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後から店に入って来たカップルが唯たちの後ろのテーブル席に陣取る。
「さっきの事故すごかったな」
「本当に。あの人助かるかしら?」
「多分無理じゃないか?」
「そうよね。ピクリともしていなかったものね…」
女の方がふと会話を止める。唯たちが座る窓の方を見て不思議そうな顔をする。
「どうかした?」
「うん…。そこに座ってる子、なんか変」
「変って?」
「なんか一人でぶつぶつ喋ってる…」
それを聞いて男も振り返ってみる。確かにそこには女性が一人しか居なかった。
「まあ、なんだ。あの子には俺達には見えない何かが見えるんじゃないか?」
「怖い! 怖い! やめてよ。そういうの苦手なんだから」
「まあ、あまり関わらない方がいいかもな」
「ねえ、気持ち悪いからここ出よう」
女はそう言って席を立ち歩き出す。男は仕方なく女の後を追う。
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事故現場ではまだ男を乗せた救急車が動けずにいた。受け入れ先の病院がなかなか見つからないのだ。そんな状況でも救急車の中では既に心肺停止状態鯛の男に対して必死の救命措置が続けられている。
「どうだ? 受け入れ先は見つかったか?」
「今、確認中です…」
「このままじゃ、病院に到着するまでもたないぞ」
「今、確認取れました! 中央総合病院に向かいます」
「中央総合か…。ちょっと遠いな」
ようやく救急車は事故現場を後にした。
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コンビニで買い物を終えた初老の男は駐車場に止めてあった。車に乗り込んだ。車を発進させた瞬間、目の前に小さな子供が飛び出してきた。咄嗟のことに焦った男はブレーキとアクセルを踏み間違えた。男は慌ててハンドを切った。間一髪、子供を轢かずに済んだ。ホッとしたのもつかの間、激しい衝撃と共に車は停止した。フロントガラスには折れ曲がった道路標識がもたれかかっている。男が車から降りると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「お、俺がやったのか…」
車の傍には若い男が倒れていて頭から血を流している。そっと近づいて声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
男からは何の反応もない。辺りは流れ出た血でみるみる赤く染まっていく。こうなってはもう自分ではどうしようもないと判断し、すぐに携帯電話を取り出し110番した。
「すみません…。事故を起こして人を撥ねちゃったみたいです」
通報を終えた男は母親に抱きかかえられて泣きじゃくる子供を見る。母親は子供を抱きかかえたまま男に向かって何度も頭を下げていたのだけれど、やがてその場から立ち去った。
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勇太は唯との待ち合わせ場所に急いでいた。
「やべぇ! また遅刻だ」
取り敢えず唯に電話しようとスマーフォンを取り出した。そのまま歩きながらスマートフォンを操作している途中で意識が飛んだ。
気が付いた時は何だか妙な気分だった。自分がどこに居るのかも判らない。なんだか動くものの中に居るような気がしたのだけれど、それが何なのかは判らなかった。ふと見上げた視線の先に唯が見えた。そこはいつも唯と待ち合わせしている店。いつも唯が座っている窓際の席。唯がそこで待っていた。
「行かなきゃ!」
勇太は唯が座っている席まで行くと手を合わせながら声を掛けた。
「ごめん、遅くなった」
「もう! 毎回毎回遅刻ばっかり!」
「だからごめんって!」
「まあいいわ。許してあげる」
「唯のそう言うところ好きだよ」
そう言って微笑む勇太。唯は勇太のそんな笑顔が大好きだった。思わず顔が赤らむ。唯は恥ずかしくなって席を立つ。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
勇太は頷いて唯を見送る。
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化粧室で鏡を見ながら顔色が元に戻ったのを確認して出ようとした時にスマートフォンに着信が入った。見覚えのない電話番号だった。唯は出ようかどうか迷ったけれど、取り敢えず出ることにした。
「唯ちゃん?」
「えっ? だれ?」
「椎名です。勇太の母親の」
「勇太のお母さん?」
「落ち着いて聞いてね。今、警察から電話があって勇太が事故にあって亡くなったって…」
何をばかげたことを言っているのかしら。勇太なら今、一緒に居るのに。
「あなた、本当に勇太のお母さんですか? 勇太なら今私と一緒に…」
「突然だから信じられないのは解かるけど、本当なのよ。私もこれから病院に向かうから」
そう言って勇太の母親だと名乗った女性は病院の名を告げて電話を切った。
「バカじゃないの!」
唯は呆れて席に戻った。
「あれ? 勇太?」
さっきまで居た勇太がそこには居なかった。
「勇太!」
唯は大声で叫びながら辺りを見渡した。驚いた他の客たちが一斉に唯の方を見る。
「あの、さっきまでここに居た男の子を知りませんか?」
みんな不思議そうな顔をして唯の方を見ている。
「その席にはずっとあなたしか居ませんでしたよ」
店員の男性が唯にそう告げた。
「ウソよ! さっきまでここに居たんだから!」
唯は手に持っていたスマートフォンで勇太に電話をかける。呼び出し音が鳴り切り替わる。
「勇太、今どこに…」
「お掛けになった電話は電源が入っていないか電波の届かない場所におられます…」
「ウソ! なによ」
唯は何度もかけ直した。けれど、勇太が電話に出ることはなかった。
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トイレに行った唯を見送った勇太は自分が今どういう状況なのかを理解し始めていた。救急車に乗ったままの自分の体が遠ざかって行くにつれて、もうここには居られないのだということに気が付いていた。
「きっと、唯は悲しむだろうな…」
そう思いつつも勇太は自分の体に戻った。ちょうど救急車が病院に着いたところだった。救急搬送口で出迎えた医師たちに救急救命士は首を振った。
「残念ながら既にお亡くなりになられました」
遺体はそのまま霊安室へ運ばれた。そんな自分の体を勇太は不思議な気持ちで見守っていた。
「死ぬってこんな感じなんだな…。このまま天国に行っちゃうのか…。もう一度唯に会いたいな…。それにしてもひどい顔だな。これじゃあ、唯は俺だって判らないかもな」
間もなく勇太の母親が到着した。勇太の変わり果てた姿を見るなり泣き崩れた。
「母さん、ごめんな。とんだ親不孝者になっちゃった」
それから、父親も駆け付けた。父親は母親を慰めるように肩を抱いた。
「へー、いつも喧嘩ばかりしていたけど、父さんって案外優しいんだな」
勇太は今まで一緒に暮らしていた家族なのに、まるで人ごとのように見ている自分が可笑しくなった。
結局、唯は来なかった。
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「唯、本当に行かないつもりなの?」
あの日以来、唯は部屋から一歩も出なくなった。そんな唯を心配して唯の母親は声を掛けた。しかし、唯からは何の返事もなかった。
「今日、勇太君は火葬されるんだよ。本当にもう会えなくなっちゃうわよ。本当に行かなくてもいいの?」
唯が出てくる気配がないので母親は諦めた。
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勇太の葬儀は身近なものだけで行われた。
「唯ちゃん、とうとう来なかったわね」
勇太の母親が呟く。
「まだ受け入れられないんだろう。本当なら今頃ウエディングドレスを着て勇太の隣にいたはずなんだから」
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唯は部屋の壁にもたれて膝を抱え、顔を伏せて座っていた。
「ごめんね…」
勇太の声が聞こえた。唯は顔を伏せたまま答える。
「いつも謝ってばかりね。でも、許してあげる」
「良かった。ありがとう。そして、その子をよろしく…」
そう言って勇太は微笑んだ。それは唯が好きないつもの勇太だった。唯は顔を上げた。それから立ち上がって着替えると家を出た。
唯が駆けつけた時、既に勇太の身体は荼毘に付されていた。
「唯ちゃん! 来てくれたのね。でも、もう、勇太は…」
「大丈夫です。ちゃんとお別れは出来ましたから」
「本当にごめんなさいね。でも、せめてもの救いは二人がまだ結婚する前だったことね。唯ちゃんも早くいい人を見つけて幸せになってね」
「はい。きっと幸せになります。だから、これからもよろしくお願いします。お父さん。お母さん」
「もう、無理してそんな風に呼ばなくてもいいのよ」
「無理なんかしていません。私はもう椎名唯ですから」
「えっ?」
驚いた顔をする二人に唯はバッグから取り出した婚姻届けのコピーと戸籍謄本を見せた。
「ウソ! そんな…。ごめんなさい…。こんな取り返しのつかないことになっちゃって…」
「いいんですよ。私はずっと勇太と一緒に居られます。ここに勇太の命が宿っていますから」
そう言って唯は自分のお腹をさすった。そのことを知った勇太の両親は顔を見合わせた。そして、唯を抱きしめた。
「唯ちゃん、ありがとう! 本当にありがとう…」
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17回目の勇太の命日。唯は椎名家の墓の前で手を合わせる。
「ごめん、遅くなった」
「もう! この日くらいちゃんと約束を待ってちょうだい。そういうところ、本当にお父さんにそっくりね」
「だからごめんって!」
「まあいいわ。許してあげる」
「母さんのそう言うところ好きだよ」
そう言って微笑む勇輔。
「まあ! この子ったら」
唯はそんな笑顔が好きだった。勇輔が産まれるずっと前から。改めて二人で手を合わせる。
「さあ、母さん、何か美味いものでも食べて帰ろうよ」
「そうね」
「ところでさあ、父さんの好きなものって何だったの?」
「あなたのお父さんの好きなものか…。それはね…」
「それは?」
「教えてあげない!」
「なんだよそれ!」
教えなくても、あなたはもう知っているのよ。あなたが好きなものはみんなあの人と同じなんですもの。