飲みやすい猛毒1-3
「はい。終わり!」
そう言うと、包帯で巻き終わった手首を軽く叩いた。
「痛いな~。もう少し、患者を労わってよ」
「労わって欲しいのは私の方よ。昨日は急患が入って、徹夜の手術明けなのよ? 医療費をケチりたいからって、ここに来ないでって何度も言っているでしょ?」
高本沙友里はイラついた口調だ。治療してもらっている手前、こんな事は言いたくないが、親友が怪我をしているのにこの言い草はないだろう。
「急患って何? 犯罪者? それとも警察関係者?」
これ以上反抗しても正論が返ってくるだけで分が悪いと察した私は、それとなく話を変えた。
「詳しい事は言えないけど、ほら」
そう言って高本が指さした方を見ると、救急で運び込まれた患者が並んでいるベッドの一個がカーテンで仕切られており、その前に二人の警察官が立っていた。
「ちょっと、寧々(ねね)。写真はやめてよ」
私がジロジロと見ていたので、慌てて高本が制する。
「分かってるって。沙友里に迷惑がかかるような事はしないよ」
「そんなこと言って。記者を無断で入れたってバレたら怒られるのは私なのよ?」
「今は記者の仕事もしているけど、本業は写真家だから問題はないでしょ?」
そう言っても、やはり気になってしまう。
「もう上がりだから、十五分くらいここで待ってて。一緒に帰ろう」
高本を見送り、何の気なしに警察官が立っているベッドの方に目をやると、一人のスーツ姿の男が警察官と話し合っていた。職業柄、こういった事には目ざとく、勘が働く。これは、何か揉めている。
包帯を巻いてもらうために脱いでいた上着を乱暴に掴み、急いで警察官たちの元へ駆け寄る。もちろん、物陰に隠れながら。周りから見れば怪しい奴だけど、今は周りの目を気にしている場合ではない。
「無理ですよ」
警察官の声が聞こえた。三人の声が聞こえるギリギリまで忍び寄り、ポケットに手を入れ、話に耳を傾ける。スーツ姿の男の後ろに陣取り、顔は見えないけど、明らかに雰囲気が悪い。
「だから、何度も言っているでしょう。まだ令状が降りていないので、警察では被疑者の所持品を預かっていません」
「だったら、ボクたちが勝手に盗るから、そこを退いてよ」
「被疑者は、とある半グレチームの一員だという情報を掴んでいます。今の被疑者に素性の分からない者を合わせる訳にはいきません」
「別に、口封じのために殺したりなんてしないよ。ただ、そいつの持っている携帯が欲しいだけ」
「被疑者の持っている携帯には、犯罪の証拠が入っている可能性が高いんです。あなたたちに渡す訳にはいきません」
「かーー。頭の固い人たちだな~。いいから、どけよ」
そう言ってスーツ姿の男が無理やりカーテンを開けて入ろうとした。それに腹が立ったのか、一人の警察官がスーツ姿の男の肩を突き飛ばした。
「痛いな。暴力はダメでしょ? 今のは笑って許してあげるから、もう邪魔しないで」
そう言って、スーツ姿の男が再びカーテンに手を掛け、さっきのように警察官が肩を突き飛ばそうと手を出した瞬間、スーツ姿の男が手を捻り、手を出した警察官が地面に転がった。あまりにも早く、自然な動きだったため、一部始終を見ていた私も、転がされた警察官ですら何が起こったのか理解できていないようだ。
「はい、そこまで~。イラついているからって、それを一般人に当たるのは良くないよ」
手をパンパンと二回ほど叩きながら、スーツ姿の男がもう一人現れた。優しそうな顔をした男だ。歳は三十代半ばくらいだろうか。口調や歳から察するに、おそらく投げ飛ばした男の上司だろう。
それを受けて、投げ飛ばしたスーツ姿の男が、「すみません。やりすぎました」と警察官に手を差し伸べた。
「ウチの馬鹿が失礼な態度をとって、大変申し訳ありません。ですが、携帯の方は自分たちが回収します」
警察官があっけにとられながらも、何か言おうとする前に、後から現れた男が自身の持っていたスマホを操作し、警察官に渡した。どこかに電話をかけていたようで、受け取った警察官は携帯を耳に当てる。「はい。・・・ えっ⁉ しかし・・・ 申し訳ありません。」短い会話だったけど、明らかに上司との電話だと分かるほどにかしこまった。しかも、ただの上司ではなさそうだ。あの緊張具合は、とっても上の上司だろう。
「失礼しました。どうぞ」
電話を受けた警察官は、自らカーテンを引き、スーツ姿の男を中に通した。一体、この男たちは何者なのだろうか。
男たちはすぐにカーテンの中から出てくると、「ありがとうございました」と頭を下げてその場を去った。
私は腰を屈めたまま、物陰伝いに歩き、二人の男の後を追う。男たちは何やら話しながら、どんどんと歩いた。警察官を投げ飛ばした男がペコペコとしているから、さっきの事を怒られているのだろう。
そのままエレベーターの前で歩き、下行きのボタンを押した。
ここは一階だから、下は地下駐車場しかない。先回りしようと、私は階段で地下駐車場に向かう。ここから階段がある場所までは少し距離があるから、小走りになる。
重い鉄製の扉を開けて、階段を三段飛ばしで下る。こんなチャンス、なかなか訪れないだろう。逃してなるものか。
急いで地下駐車場まで降りて、扉を開ける。エレベーターの場所まで先回りすると、ちょうどエレベーターが降りてきた所だった。
チン。という音と共に、エレベーターの扉が開いた。だけど、エレベーターの中には一人しかいない。後から現れた男が一人で乗っている。そして、柱の陰に隠れている私と目があった。かと思うと、急に体が壁に吸い寄せられた。
いや、違う。押しつけられたのだ。そう気づいた時には遅かった。
左手を後ろで締め上げられ、口を押えられているため、声を上げる事も出来ない。
「イエスなら一回。ノーなら二回。右手で壁を叩け。それ以外の行動はしない方がいい」
こんな仕事をしていると、命の危険を感じた事も何度かあった。だけど、これは今までで一番危険かもしれない。警察官を電話一本で黙らせる謎の男たち。怖い。怖くて漏らしそうだ。
壁を一回叩き、私は黙って彼の指示に従う。
「君はどうしてボクたちの後を付いてきたの?」
いきなり、イエスかノーの二択では答えられない質問をしてきた。どうやって質問に答えろと言うのだろう。
「だんまりかよ。それじゃあ、質問を変える。何者? 誰かの命令で後をつけてきたの?」
くっそ。この男、馬鹿なのだろうか?
「おい、バカ。口を押えているのに、どうやってその質問に答えるんだよ」
エレベーターに乗っていた男が、私の思いを代弁してくれた。
「そっか。ごめん」
男に言われてようやく自分のミスに気付いた様子で、警察官を投げ飛ばした男は、そっと私から手を離してくれた。
「イッタイな~」と文句の一つでも言ってやろうと思ったけど、不思議な事に痛みは感じなかった。締め上げられた左腕は痺れ一つなく、壁に押さえつけられた体は、口を押えていた手がクッションになって、痕一つ付いていない。
「ごめんね。ちょっと気が立ってて、手荒くなっちゃった」
私の服を払いつつ、私を押さえつけていた男は、エレベーターから歩いてきた男の横に並ぶ。
こんな可愛い乙女に乱暴をするなんて、どんな奴なのかと顔を見た瞬間、私の体に電撃が走った。綺麗に整った顔に、スーツの上からでもうっすらと盛り上がった筋肉が伺える。さわやか系のイケメンだった。
「すみません。俺達はこういった者です」
そう言って、エレベーターから降りてきた方の男が名刺を取り出し、それを受けてもう一人の男も名刺を渡してきた。
そこには、〈近江迅〉〈中末大吉〉という名前が書いてあった。普通は会社名や、役職が書かれているだが、二人から渡された名刺には名前しか記入されていなかった。
私を押さえつけていた男は、まるでお御籤みたいな名前をしている。
「失礼ですが、あなたは?」
近江と名乗った男の方が、私に訊ねてくる。突然の出来事に困惑して、自分が名乗るのを忘れていた。
「私は、写真家の宮田寧々(ねね)と言います」
私は名刺入れから、本業である風景写真家の名刺を渡す。
何年も前の話になるが、大きな賞を貰った事もある。だけど、風景写真で食べていけるほど、仕事がある訳ではない。だから仕方がなく、知り合いが編集長をしている週刊誌のカメラマンとして仕事を貰い、芸能人や政治家の不祥事をカメラに収めていた。
「好奇心旺盛なのはいいけど、危ない事には首を突っ込まないようにね」
そう言い残し、二人は私に背を向けた。こんなにも特大スクープのチャンスが、私から離れて行った。
「あ! そうだ」
不意にそう言うと、中末は私の方に歩いて戻って来た。心の準備ができていなかった私は、少し退いてしまう。
「これは悪いけど消させてもらうね」
私のポケットに入っていたボイスレコーダーを抜き取り、データを削除した。
「気付いていたの?」
「まあね。ボクの声が聴きたいなら、録音なんてしなくても、ここに電話してよ。関節技をきめちゃったお詫びがてらに食事でもしたいからさ」
そう言い、私に渡した名刺をクルッとひっくり返す。するとそこには、電話番号と、LINEのIDが書かれてあった。どうやら、まだ神様は私を見捨ててはいないようだ。