〈第三章〉居酒屋
〈第三章〉
「ラオって顔良いのに、中身みんなクズだから。」
新宿三丁目の居酒屋で行われたサークルの飲み会中、今年度新しく入った一年生数人を前に、酒で顔を真っ赤にした三年生の那奈が言った。学生団体「ルミナスプラス」は二十五人ほどの顔触れが在籍しており、外側はテニスサークル、内側はテニスとは名ばかり、飲み会ばかり行う団体である。此奴らとテニスなど一度もしたことがないし、僕はラケットを握ったことは人生で約十年前にたった二回ほどだ。つまりただの仲間に過ぎない。
「ラオってなんですか?」
一年生の初々しい声が口々に聞こえた。すると那奈は僕の方に腕を回して、自慢げに言った。
「蓮也のアール、葵のエー、オダちゃんのオーで、ラオ。」
オダちゃんというのは、小田切からとった柊のあだ名である。団体内で、僕と蓮也と男の先輩以外は、柊のことをそう呼ぶ。ちなみにこの団体の代表は柊が担っている。僕たち三人はいつも一緒にいるため、それぞれの頭文字をとって「ラオ」と呼ばれている。
「え、オダさんってそうなんですか?」
目を丸くした一年生の女たちが身を乗り出す。柊は顔が良いから皆の憧憬の対象だ。
「あ、でもオダは蓮也までサルじゃないか。」
那奈は僕にそう言った。
「柊は相手選ぶからね、ちゃんと。」
僕がそう言うと向かいに座っていた一年生がほくそ笑みながら僕に言う。
「蓮也さんと葵さんは分かるけど。」
「こら、分かるってなんだよ。」
「え、私は葵さんも意外。」
「いや、葵さんは柔らかそうに見えて、意外とキラースマイルで落としてるよ。」
「まぁ紳士だもんな、葵さん。」
僕が確立した形象は一年生にも伝播しているようだ。
「このサークル内で付き合ってる人はいるんですか?」
今度は斜め前にいた一年生が聞いた。
「今はいないな。」
「前はいたんですか?」
「前はね。それこそ葵とか。」
そう言って那奈は含み笑いしながら僕を見た。僕は一年ほど前にこの団体内の同学年の、神崎真央と付き合っていた。別れたばかりの時は少し気まずく、僕たちは自然と微妙な距離感を取っていたが、今はサークル仲間として、付き合う前の友達のような感覚で普通に話せる。
酒の力で付き合ったようなものだった。それこそ僕たちは飲み会で見事に潰れ、勢いで身体を重ねた。その後も真央からは連絡が来て、僕たちは度々会うようになっていた。そしてある日、真央は「もうこんな関係はやめる。」と連絡を寄越して来た。最初は他に好きな奴ができたとかそう言った理由だろうと、自分を落とし込んでいたが、今まで定期的に会っていた相手と忽然と合わなくなるのは意外と寂しくて、僕は「どうして。」と、彼女の宣言から二週間後に遅すぎる疑問を送っていた。そこで真央は「葵のこと好きになっちゃったから。」と電話越しで僕に言った。寂しかった僕は、また頷いた。そして僕たちは付き合うことになった。彼女は金髪のロングヘアで、派手な見た目だったが、中身は意外と真面目で、素直で、一言で言うと良い子だった。ただ彼女の愛は重過ぎた。束縛から始まり、携帯電話の中身の注視、趣味の禁止など、僕の中で耐えられない感情が爆発して、交際半年ほどで僕は彼女に別れを告げた。
「真央の大きな愛を受け止められなくてご免なさい。でも受け止めてくれる人は絶対に現れるから。ただそれが僕ではなかっただけで。」と。
「葵さん誰と付き合ってたんですか。」
興味津々の目が僕を見た。
「真央だよ。」
那奈は小声で面白おかしくそう言った。一年生は少し驚いていたが、僕は「今は友達だし。」と空気が重くならないようにした。真央は別の卓で先輩たちと飲んでいるようだ。楽しそうな声が聞こえる。
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「ギャハハハハ!」
何が面白いのかはいまいち分からないが、ほろ酔いの僕と蓮也は肩を組んで居酒屋を出た。久しぶりに最高に気持ちの良い酔い方をした気がする。
「葵、お前、二次会、行くか。」
少し息切れ気味に蓮也が僕の顔を覗き込みながら聞いた。
「行っても良いけど、終電があと少しだから渋いな。」
「お前、終電なんかに縛られるなよ。」
いきなり耳元で大声を出す蓮也の声と同時に、僕たちは笑い転げた。やはり何が面白いのかは分からないが、酒を飲むと悩みなどはどうでも良くなる。
「逃したら、一緒に朝までカラオケな。」
この流れはいつもだ。結局僕は二次会中に終電を逃し、蓮也たちとカラオケを宿代わりにする。ふと今の時間を確認しようと携帯電話を取り出すと、伝達の通知が見える。
目を凝らして読むと、『今日会えるかな。』の文字が見えた。
「おっと。」
画面を横から覗き込む蓮也は、嫌な顔で笑って僕を見た。
「沙羅ちゃんか。」
「かもね。」
僕も笑って返すと、後ろから柊の声がした。
「二次会行く奴、手挙げてー。」
口々に「はい。」と手を上げる面子を見ながら、僕と蓮也も大きく手挙げる。柊が数を数えると、ざっと八割はいた。帰宅組に手を振り、僕たちは大人数で歌舞伎町方面へ歩き始めた。
酔っている時の風呂ほど、記憶がないものはない。どこから洗ったのか、シャンプーは何だったか、タオルの色も何も覚えていない。気づけば頭はずぶ濡れで、胸がすいている。
「本当ごめんね、こんな時間に。」
時刻は深夜二時を回っていた。
「私もさっきまで歌舞伎で飲んでたから。」
部屋着姿の彼女は、とても化粧をしていないようには見えない。その言葉でさえも真相は分からない。そんなことを考えながら、薄暗い部屋の中心で僕は彼女にキスした。彼女も僕のキスに応えた。僕たちは正式に身体だけの関係になったらしい。
大学生なんて所詮こんなものだと思う。男女混合で飲み会をよくするような団体に入っていたり、そこに仲間がいたりすれば尚更そうだ。僕も蓮也のような友達がいなければ、こうはならなかっただろう。僕は何か問題や悩みや、その他諸々不承知なことに直面しているときに、「今宵はどうにでもなれ。」という感覚で、この行為に及ぶような気がする。またはなんとなく人肌恋しい時。ちなみに蓮也はいつ如何なる時もそういう気はあって、柊は、したいと思ったらするらしい。僕が一番まともに聞こえてしまう歪んだ世界だ。正直どうでも良い。
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大学の最寄り駅前にある居酒屋は、金曜日ということもあってかなり賑わっていた。この辺は居酒屋が多く、いつも学生は平日でもお構いなしに飲み歩いているが、金曜日は会社員も飲みに来るため、通常の平日よりも客が多い。大声で話をしなければ、向かいの席の相手にさえも伝わらない。そしてこの店で一番の盛り上がりを見せているのは、僕の目の前で腹を抱えて笑う蓮也と柊である。
「しょうがない、あの時は飲み過ぎてた。」
僕も笑いながらそう返した。彼らは僕が沙羅ちゃんにキスした十五分後には、僕が機能しなかったことが原因で、諦めたことが面白いようだ。
「分かるよ、俺も何回かあるから。」
蓮也は僕の肩を叩きながら言った。
「あれはしんどい。気持ちは出来あがってんのにさ。」
実際あの日、夜は諦め、身体を重ねたのは翌朝のことだった。さすがに僕も、あの時は自分が情けなくて仕方なかった。蓮也にはこういう相手をしてくれる女性が確か四人はいる。あくまで、僕が覚えているだけで四人だ。これが多いと感じるか、少ないと感じるかは人それぞれだが、言えるのは日本人の貞操観念から考えれば間違いなく多い。そのうちの一人が蓮也のお気に入りで、他の三人は気分や予定で選んでいる。ただ蓮也も人間だ。体裁を気にして、他に言うことはなく、知っているのは僕か柊、あとはサークルの特別仲が良い先輩くらいだ。
一方柊は、決まった人はいない。ただ柊は相好が良いので、正直街で女に声さえ掛ければ、その日の相手は事足りる。彼には細かい自分的規程があって、一度寝た相手とは二度と寝ないし、連絡先もほとんどの場合交換しない。交換してもすぐに消される。一日経てば、名前も顔も思い出せないほど、軽いことだと思っている。そういう部分に惹かれる人が多いのだと思うし、それが原因で彼は「隠れクズ」と言われるのだとも思う。ところで僕にはこういう相手はいない。いや、酒で羽目を外し、一夜だけの関係になったことは何度かあるが、身体だけを求めた特定の相手は今はいない。
「柊はないだろ。」
「俺はない。」
「まず柊が勃たなくなるまで酔ってるのを見たことがない。」
「そこまでするまでにこっちが死ぬな。」
「少々酔ってても機能するから。」
「お前は本当にバケモンだな。」
「女になっても柊にだけは抱かれたくない。」
「なんでだよ。」
「俺は確実に柊という沼に嵌る。」
男子大学生の話だ。ごく普通の話だと思う。僕は何にでもなれる。どんな自分にでもなれるし、どんな話にも入れる自信はある。偽るのが得意で、嘘を嘘と思わない。いつかこれが重荷になるのだろうか。僕が僕自身に潰される日が来るのだろうか。どんな時代でも、僕みたいな人間の最期は発狂が似合うのか。狂うと美しく死ねるのか。何一つ変わらない日々。だらし無い、のうのうと生きる日々。馬鹿らしい。
僕の母親は重度の鬱病だった。僕が物心ついた頃からだ。父親と僕はそれを誰よりも近くで見てきた。必死に支えたが、彼女は僕が小学五年生の冬に、我が子である僕の目の前で自殺した。初めて目にした人の死であった。
僕の努力は一瞬で絶たれたようだ。僕が誠意を尽くした時間は何だったのだろうか。それは一瞬だった。時が止まったようで、映画の一場面でも見ているのかと思った。止めようと思えば止められたと思う。何ならそういったことは今まで何度もしていたから。
だけど僕は止めなかった。彼女は十分頑張ったと思ってしまった。そんな彼女にかけられる言葉は、もう幼い僕には持ち合わせてはいなかった。軽々しく「頑張れ。生きて。」などは言えなかったし、正直僕も疲弊しきっていて、止める力が余りにも無かった。僕たちは互いに互いを殺した。
時々今でも母親は本当に死を望んでいたのか疑問に思うことがある。彼女は最期に「もう終わりにしたい。」とだけ言ったが、真相は分からない。口では何とでも言えるし、それが本人の思い込みなら尚更真実なんざ僕に分かる筈がない。救えるものなら救いたかったが、それが正しいのかも分からない。
いつでも人は正しい選択をしたい。今できる最善の選択を。そのために人は考えて、動いて、そして一喜一憂。しかしそんなのは合理化でしかないのだと思う。実は一番あり得ないと感じた選択が一番良い結果に動いたかもしれない。並行世界の自分の行動は、実は一つならず幾つもの大切な物を守れたかもしれない。それを考えないのが人間。自分がした選択が一番良かったと思い込む。どうしようも無いから。誰もタイムマシンは持っていない。運命を変える選択の場面に戻る能力を持っていない。ぜんまいの捩子は見当たらないのだ。当たり前だ。だから僕は母の自殺を止めなかった選択を、肯定した。ただ不思議なことに、これは世間的には否定される。何故か。死んでしまったらそれ以上がないからである。もっと良い未来が待っていたかもしれない、鬱病を克服できたかもしれない。大概の人がそう言うのだろう。
明るいな、この世界は。眩しくて、僕には合っていないようだ。僕は逆に考えた。これ以上彼女は生きていても、苦しいだけだと思った。だから見送った。どちらを選んだにしろ、彼女のことを考えての行動なのに、きっと後者は称えられはしないのだろう。これを公表すれば、僕は確実に精神異常者扱いをされるのだろうと思う。理不尽であるし、僕には理解ができないし、この世界に生きている人は思考が明るすぎると思う。いや、それさえも僕の我が儘でしかないのか。