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歯ぐるま  作者: 霜月うめり
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〈第二章〉図書館


〈第二章〉



 大学三年の六月下旬のことだった。

「あの。」

梅雨で湿り気に満ちた空気を一掃するように、図書館の中は大型冷房装置のおかげで冷たい空気が流れていた。頭上で声がしたように感じたが、知らない声だ。僕は構わず読書を続けた。

「あの。」

もう一度声がした。何やら声が先ほどより近づいている気がする。少し不機嫌に顔をあげると、目の前にいた知らない女と目が合った。

「はい。」

静かに言うと、女は少し微笑んで、目線を外しながら続けた。

「座って良いですか?」


 そんなことを聞くために、態々僕の読書の時間を邪魔したのか。声には出さないものの、心の中では判然とそう言った。

「はい。」

僕は小さく笑って、向かいの椅子を目で流した。

「ありがとうございます。」

彼女は何度も会釈をしながら、向かいに座った。読書をする様子は見えないが、重そうな荷物を持っている。課題でもしに来たのだろう。真面目そうで、服装や髪色は落ち着いている。歳は同じか、或いは一つ下くらいだろうか。装身具は派手でない。机の上に並べられた教科書の表紙には「消費者行動」やら「流通論」やらの文字が見えるため、経営学部と言ったところだろうか。にしても、なぜこんなにも席が空いていて、此処なのか。なぜわざわざ僕の向かいなのか。読書に戻ろうとするものの、いつもの癖で他人と意思疎通を図った瞬間、様々な憶測が脳裏を巡った。


 結局あまり集中ができず、僕はあれから数頁進んだところで席を立った。途中で集中が途切れ、今日は読書どころではない。僕は静かに荷物をまとめ、席を立とうとした。すると、向かいで課題に手をつけていた女は、僕の顔を下から覗き込んだ。

「よく来られていますよね。」

何か用事があるのか、僕と話がしたいのか、その導入か。共通の友人でもいるのか、ことづけ物でもあるのか。もしかして一度前に会ったことがあるのか。だとしたら相当薄い記憶のはずだ。僕には一切心当たりはない。なぜ彼女は声をかけてきたのだろう。僕だけが立って話すのは失礼な気がして、自然と椅子に再び腰掛けた。

「ええ、はい。」

何を考えているのかがいまいち分からない。僕は少し不信感を抱いた様子を見せるため、歪んだ不自然な笑顔をわざと傾けた。

「いきなりすみません。」

彼女は僕の表情から、自分の言動が悪いと感じたのか、少し俯きながら謝った。

「いえ。」

僕は先ほどよりも少し表情を柔らげながらも、やはり少し不自然な笑みを浮かべていった。

「これからも、ここに座って良いですか。」

彼女は勇気を出したようだ。理由は何故だか分からないが、別に困ることはない。ただ、読書の途中で話しかけられるのは困るけど。

「はい。ただ僕、読書に没頭すると、周りが見えなくなるので。」

遠回しに「僕が読書をしている時は声をかけるな」と言ってみる。

「それはご免なさい。これからは黙って来て、黙って座るので。」

物分かりが良い。

「ありがとうございます。」

「こちらこそ。」

短い会話を終わらせて、僕は改めて席を立った。小さく会釈をし「では」と一言だけ言って、本を元の位置に戻し、図書館を出た。相変わらず雨は鬱陶しいほど激しく降っていた。


 :


(あおい)、お前今日の夜暇か。』

高校からの友人で、同じ大学に進学した高杉蓮也(たかすぎれんや)から連絡がきたのは、土曜の昼の十二時前のことだった。

『お前はいつも急すぎる。』

喫茶店でのアルバイトの休憩中に蓮也にそう返事をすると、一瞬で返事が返ってきた。

『前々から中央大学の女の子たちと三対三で合コンしようってなってんだけど、俺、お前にそれ言ってないよな。』

『今初めて聞いたよ。』

『じゃあ今言った。六時に新宿東口。柊も来るからよろしく。』

『いつでも来れると思ってるだろ。』

『来れるだろ。土曜はお前、夕方にはバイト終わるから。』

『把握するな。』

『俺はお前が来る前提でしか飲み会はしつらえないんだよ。』

流れるように会話が進み、僕の夜の予定も埋まった。

 蓮也は昔から適当な性格で、一番仲が良いと言える相手だ。僕とは対照的で、脳天気で楽天家、悪く言えば上調子で派手、髪色もスマートフォンのケースもコロコロ変わる、貞操観念が成っていない。同じ文学部に進んだが、明らかに浮いている。勿論サークルも同じだ。

 もう一人の小田切柊(おだぎりしゅう)は大学で出会った同じサークルの仲間だ。彼は比較的冷淡で無口だが、時折飛び出す発言が突拍子もなく面白い。だが、類は友を呼んだようで、彼もまた意外ではあるが異性関係にだらしない。ルックスが飛び抜けて良く、SNSのフォロワー数が桁違い。お洒落に気を遣っていて、所謂インフルエンサー。二人とも酒に強く、いつも僕が先に潰れるのはお決まりだった。


 六時ちょうどに新宿に着く電車に乗っても、駅構内が広く、早足で歩いても東口にたどり着くまでには軽く五分はかかった。会社員の退勤時間と鉢合わせし、人でごった返す改札を通り抜けると、背が高く目立つ柊の隣に、けらけら腹を抱えて笑う蓮也と、複数人の派手な女性の姿が見えた。どうやら僕が最後だったようだ。

「葵、遅刻。」

「ご免ね、みんな早いね。」

軽く挨拶を済ました後、僕たちは歌舞伎町の大手魚介居酒屋へ入り、杯を掲げた。


 :


 次の日、目を覚まして最初に見えたのは、知らない天井だった。その途端に刺すような頭痛に襲われ、胃に違和感を覚えた。肌が空気にさらされている感覚は、服を着ていないことが原因だと一瞬で悟る。再び目を閉じて頭を落ち着かせると、隣に気配を感じて咄嗟に視線をずらす。昨日飲み会にいた女の裸体が僕の隣で眠っていた。なんとなく事を察し、ゆっくりと上半身を起こし、僕は床に落ちていた自分の下着を拾い上げ、ベッドに腰掛けたまま身につけた。生活感が溢れており、ここは彼女の家のようだ。やはり頭が痛く、気分もそんなに良くない。傍の小さな卓にあった新品らしきペットボトルの水をがぶ飲みし、少しの間、目を閉じていると少しだけ気分は良くなった。自分の携帯電話が落ちていたので拾い上げ、時間を確認すると朝の十時だった。何件か言付けが入っている。


 少し整理するために、昨日の記憶を辿る。僕たちは歌舞伎町内で店を変えて二次会に行き、そこで所謂飲みの場のゲームが始まり、僕は随分お酒を飲んだ。その後、解散の流れになったが、酒の力で僕たちは随分背徳的になっていて、なんとなく三つの組み合わせが出来上がっていた。詳しいところまでの記憶は流石にないが、確か最初に消えたのは蓮也だった気がする。女と腕を組んで、歌舞伎町の連れ込み宿、要するにラブホテル街方面に消えて行く情景が記憶の片隅にある。僕と一緒にいた、つまり今ここで寝ている女が「うち此処から近いから」と僕に囁き、そのまま徒歩でここまで来たようだ。なんとなく経緯は分かった。窓の外を見ると、韓流店の看板が多く見えた。おそらく歌舞伎町の隣の、新大久保にいるようだ。

『おはよう諸君。どうなったか教える事。』

一番上の連絡事項は、僕と蓮也と柊の三人のグループだった。ご機嫌に発言をしているのは言わずもがな蓮也だ。柊は特に返事をしていないのできっと見ていないのだろう。

『おはよう。起きたら沙羅(さら)ちゃんの家。』

それだけ打つと僕は携帯電話を机に置き、伸びをした。

「葵くん、おはよう。」

気配に気づいたのか、女が目を覚ました。

「おはよう。」

居心地が良さそうな部屋ではあったが、夜遊びを犯した次の日の朝は少し気まずい。

「お邪魔してご免ね。シャワーだけ借りて良いかな。」


 :


 昼下がりの新大久保は若い女性で溢れかえっていた。今日は珍しく日が照っており、少し歩いただけで汗をじんわりとかいた。結局風呂場を借りた後、彼女に誘われてもう一度抱いてしまった。一夜限りの関係だったはずが、素面のままもう一度身体を交わしてしまうと、今後も続く可能性があるので少し面倒だ。なんとなく長居するのも嫌だったため、十二時半には「昼から用事がある」と言ってマンションを出た。新宿まで歩こうかと一瞬思ったが、暑さに耐えられず、乗り換えが一つ増えるものの、新大久保駅の方へ爪先の方向を変えた。


 一夜だけの関係は、儚くて、僕は何と無く好きだ。それを切掛けに連絡を寄越されるのは好かないが、僕はそれくらいの脆い関係が、人間らしさを存分に滲み出しているように感じる。何故好きでもないものを求めるのだろう。それだけ欲求不満なのだろうか。そして、何故終わった後になって「どうしてこうなったのか」を必死に考えるのだろう。逆に、何故行動を起こしたときに、その疑問を自分たちに投げかけなかったのか。つまり、本能である。人間の本能だ。求めることは馬鹿のすることではないが、世間的には、誰にでも求めることは馬鹿のすることだと思われている。そして僕はその行動を日常的に起こしている。僕は馬鹿なのか。だとしたら人間の本能が馬鹿だということで、僕は間違っていないようにも感じる。結局自分よければなんでも良しという世界なのである。馬鹿はどっちなのだろうか。


 新大久保駅の工事はいつまでやるのかという話を、この前サークルの飲み会で誰かが話していたことを思い出した。相変わらずまだ工事中のようだ。電車を待っている途中、連絡が数件届いていることに気づいた。

『おはよう。葵、抱いたか。』

柊だ。

『柊はどうだった?』

蓮也の人生は暇なのだろうか。返事が早すぎる。

『もちろん食って無いよ。軽い酔いだったから食いまでできない。』

柊のクズ加減に引き込まれる女が少なくない。彼は駆け引きが上手い。

『まあそんなところだと思った。』

『蓮也もほろ酔いだっただろ。』

『俺はサルだ。』

『酒関係無いか、お前は。』

『乗り気で二丁目方向へ消えたの、お前らも見ただろ。』

話はそこで止まっていた。山手線の電車が僕の前に止まった。乗り込みながら、何件か前の僕への問いに答えを打つ。

『抱きました。』

すると、蓮也から高速の返事が返ってくる。

『だと思った。』

そこから緩慢な会話を続けていると、電車は一瞬で新宿駅に着いた。JRから地下鉄への乗り換えのため、手間がある。このまま家に帰っても、休日を無駄にしそうな気がした僕は、ふと新宿駅構内の本屋に立ち寄ることにした。お気に入りの作家が新作を出したばかりのはずだ。本のことになると気持ちが昂る。僕のような部類の人間は、楽しみや夢中になれるものが、一つでもなければならないと思う。

 特に小説が好きだ。人の頭の中を存分に覗くことができる。例えそれが主人公の起こした言動であったとしても、作家が考えたものに間違いはなく、たくさんの価値観を吸収することができる。世の中にはこんな考え方をして、こういう状況のときはこんな行動を起こす人間がいるのか、というのが大量に、しかも事細かく書かれている。こんなに丁寧な人間たちの取扱説明書が他にあるだろうか。


 目当ての本は店頭で平積みにされており、僕はその一冊を手にとった。新書の感覚が好きだ。その後も少し店内を回った後、勘定に向かった。そこには見たことのある顔があった。向こうも気づいたようで、小さく声をあげた。図書館で僕の向かいに座った女だった。

「どうも。」

小さく微笑み会釈をした。人間の生活のほとんどは偶然でできているのに、確率が低すぎると自分で勝手に判断している偶然が、実際に自分の身に起きたとき、何故人間はそれを偶然でなく「運命」だと勘違いしてしまうのだろう。正しく彼女はその「運命」が起っていると、たった今心の中で思っただろう。彼女の目がそれを語る。

「凄い。こんなとことで出会うなんて。」

彼女は笑いながら、僕が持ってきた本を精算機にかざした。名札には「半田(はんだ)」と書いてあった。

ここで働いているのかと、僕が当たり前のことを少し明るく聞くと、彼女は「はい。」と笑って答えた。会計を済ませ、袋を受け取る。

「では。頑張ってください、半田さん。」

名札にわざと目線を合わせて言うと、彼女は少し顔を赤くして言った。

「ありがとうございました。」

笑顔を見せて背中を向けた。やはり彼女が僕の向かいに座ってきたのは、僕と話がしたかったかららしい。


 :


 マンモス規模の大学には、校内だけでいくつもの食堂がある。うちの大学もその一つで、校舎は十号館まであるにも関わらず、一つの校舎につき一つの食堂が存在する。味も食堂の雰囲気も、品書きでさえもそれぞれ全然違うのに、不思議なことに生徒は綺麗に分散されて、決まって空いていたり、決まってごった返していたりする食堂はない。満遍なくどの食堂に行っても、同じくらいの人がいることはこの二年半の大学生活の中でも一番不思議なことの一つだ。

 僕は二年生を終えた時点で卒業要件単位の四分の三をとり終えていたので、三年生の時間割は、専攻必修科目などを除くと割と自由に組めた。一方蓮也は、遊び呆けていたため、まだまだみっちり学校に通っている。今日は蓮也と授業がほぼ一緒の水曜日だ。

「柊さ、今度結奈ちゃんとサシで飲みに行くらしい。」

二号館の三階にある食堂の、数量限定牛丼を頬張りながら蓮也は言った。結奈ちゃんとは、この前新宿で六人で飲んだ内の一人の女だ。柊が「抱かなかった女」と言った方が分かりやすい。

「展開早いね。」

一方の僕は、ありふれた魚定食を食べながら言った。

「金魚の糞だったじゃん。」

僕は「こら。」と小さく叱った。蓮也の嫌味ったらしい口調は昔からだった。本人は正直に言っただけらしい。「ご免ご免。」と、蓮也は続けた。

「でもあれから毎日連絡くるらしいし、惚れてるんだろ。」

牛丼を物凄い勢いで食べ終わった蓮也は、水を一気飲みして純情に笑った。

「それもあるだろうけど、あの中で一人だけお持ち帰りされなかったんだし、嫉妬もあるのかもね。」

僕は後三分の一ほど残った白米を箸で寄せ集めながら言った。人間、特に女とは、そういう生き物だろう。

「あー、そういうもんか。」

携帯電話の画面を見ながら、蓮也は少し考えて言った。

「こんなこと言うのもなんだけど、見た感じいつも仲良くしてるような感じじゃなかったでしょ、あの三人。お前がお持ち帰りした子、何ちゃんだっけか。」

桃香(ももか)ちゃん。」

「そう、あの子に至っては、なんか数合わせみたいな感じで、可哀想だったし。」

「俺、数合わせ抱いたのか。」

「結奈ちゃんも沙羅ちゃんも、なんか桃香ちゃんに嫉妬してた気がする。特に結奈ちゃんは。」

蓮也は「そうか。」と言いながら笑っていた。「男は鈍感」という言葉は間違っていないと思う。特に、独特な空気感を感じとることができない生き物だ。

「自分だけお持ち帰りされなかったら、もう何がなんでも、自分を抱かなかった柊に抱かれたくなるのかもね。逆に「私が断ったのよ。」くらいで一切連絡寄越さないか。」


 実際、結奈(ゆうな)ちゃんは一番よく喋り、一番露出の多い服を着ていた。インスタグラムもかなり派手。そしてフォロワーが多い。ちやほやされて育ってきたんだろうと一瞬で分かったし、話の進路が沙羅ちゃんや桃香ちゃんに路線変更されると、少し不機嫌そうだった。そして必ず「私も。」と入ってくる。持っていた鞄も高級ブランドのものだったし、やけに歌舞伎町の地理に詳しかったり、歩いているだけで出会った顔見知りの数も普通ではない。実家は金持ちで、週末はホストクラブ通いというところか。


 沙羅ちゃんはその取り巻きの印象がかなり強かった。と言うより、少し結奈ちゃんの信者感があった。自分の話題になると、少し話すだけですぐに「でもそれを言うなら結奈も。」と慌ててと言うよりは、誇らしげに結奈ちゃんへ注目の的をずらした。服の系統も二人は似ていたが、持ち物は沙羅ちゃんの方が少し手軽なブランドだった。また彼女は唯一の地方出身で、一人暮らしをしている。地方から上京して中央大学に入ったのなら、高校時代まではかなり真面目だったのだろう。「大学に入ってできた最初の友達」とも言っていた。都会に上京して初めて出会ったのが、結奈ちゃんのような爛爛とした女であったなら、影響を大いに受けたのか、使う言葉もなんとなく似ていた。彼女と二人で話したときは、見た目よりも真面目なのだろうと感じた。彼女を神格化させ、憧れを抱いているのだろう。余計なお世話だが、沙羅ちゃんは結奈ちゃんよりも、桃香ちゃんのような友人と一度付き合ってみて、自分を見つめ直すべきだ。


 一方桃香ちゃんはと言うと、落ち着いた性格で、あまり饒舌な姿は見せなかったが、その分一番気の利く行動をしていた。杯が空いたら「何か頼みますか。」と言ったり、店員さんを呼ぶのも女陣の中で言うと、全て彼女がしていた。服装も大人っぽく単調だったが、会計の時に一瞬見せた財布が高級ブランドのものだったが印象的である。また彼女は一見と突っつきにくそうだったが、酒を飲んだら意外と人懐っこくなることも分かった。後半になると蓮也と楽しく話していた。

「お前は何も考えてないようで、本当に人のことをよく見てるな。」

感心したように蓮也は、白米の最後の一口を食べようとする僕を見てそう言った。昔から蓮也は僕にそう言う。最初は彼が見ようとしていないだけだと思っていたが、僕たちが極端に対照的すぎるのが原因だということは数年前に悟った。



 蓮也と四限までの授業を一緒に受け、彼は五限に向かった。この後六時半から、僕たちの学生団体が定期開催で行う飲み会がある。五限は六時過ぎに終わるため、ここから一時間半ほど時間がある。僕は迷わず図書館に足を運んだ。この間買った本を通学がてら読むために、家から持ってきた。正直椅子さえあればどこでも読書などはできたが、この時間は野外活動などで周りが騒がしく、読書に集中できないのは目に見える末々だったため、僕はやはり大好きな図書館へ足を進めるのだった。


 いつも座る席になれた足取りで向かうと、その向かいの席にあの後ろ姿を見つけて、ふと立ち止まった。参った。僕が後に来る場合があるのか。先週副業中の彼女に偶然会ったばかりだ。ここで敢えて違う席に座ることもできるが、それはそれで違う気がする。僕は再び足を踏み出し、いつもの席に向かった。僕が彼女に遠回しに声を掛けないで欲しいと言ったものだから、僕から挨拶するのは図々しいだろう。彼女に向かって会釈だけをして、椅子を引くと、彼女はたちまち笑顔になった。

「先日はどうも。」

図書館にしては少し大きめの声に感じたが、周りは特に気にしていないようだ。

「どうも。」

僕は小さめの声で微笑んで挨拶を返した。

「私、半田椿(はんだつばき)って言います。経営学部の三年生です。是非仲良くしていただきたいです…。」

彼女の声は、語尾に向かうにつれてどんどん小さくなっていった。恥ずかしさが勝ってしまったのだろう。自分の名前を言うのは意外とそういうものである。彼女の恥ずかしさをカバーするように、僕も続けた。

東堂(とうどう)葵です。文学部三年、よろしく。」

同級生か。彼女は笑って続けた。

「あの、結構前から、仲良くしたいなと思っていて。」

僕たちは囁くように話した。図書館では禁忌を破る行為を、今この僕がしている。先ほどまでは、話をする人がいると読書に集中できないなど、大きな声でほざいていた僕が、今では話をする側に回っている。人間とはこういうものだと思う。

「東堂さんが読んでらっしゃる本、私も好きな本ばかりで。」

一瞬困惑し、時が止まったように感じた。なんだ、本か。僕ではなくて、僕が読む本に興味を持っただけなのか。

「この前買われていた、それです。その本の作者さんも私すごく好きで。」

自惚れていた自分が急に恥ずかしくなった。四つほど隣に座っていた男に鋭い目つきで見られてしまった。流石に非常識だったようだ。僕は「すみません。」と小さく頭を下げ、人差し指を口に当て、彼女を見た。

「ご免なさい、つい。」

彼女もまた彼に頭を下げた。そして僕にも頭を下げた。僕たちは笑い合って、それぞれの時間に入った。不思議な知り合いができた。

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