〈第一章〉東堂葵
〈第一章〉
昔から、授業中に保健室へ行く道のりが大好きだった。
教室という区分の中で、学級という組織が存在して、全員が鐘の音一つで行動を起こしている狂った状況だ。一日にあり得ない量の知識を吸収する為、授業という教えを全校生徒が、半ば強制的に受けている中、自分だけが保健室への道のりをたった一人、歩いている。休み時間は人で溢れかえる廊下を、今は僕だけがたった一人で歩いているのだ。教室を覗けば、教師や生徒たちは決まって僕のことをじろじろと見る癖に、僕の邪魔をする者は一人としていない。
不思議な時間、異様な感覚。僕はそれが大好きで、自らの足音を聞きながら、廊下の真ん中を緩々と歩いた。つぶさに味わった。言動とは裏腹に、身体の調子は至って良好であった。
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友人は多かった。気づけば僕の周りにはいつも誰かしらがいて、友人に困ったことは一度もなかった。勉強も運動もできる方だった。勉強面では特に文系が得意で、自分で言うのもなんだが都内で言えば、同級生を凌駕するほどの学力はあった。僕はごくごく普通の学園生活を送った。部活には入っていなかった分、家には早く帰っていたため、僕は決まって本を読んだ。
もう一度言うが、僕は友人に困ったことは一度もない。保健室に行くたびに、僕を心配してくれる人は必ずいた。僕は正直に言えば、俗に言う人気者と呼ばれる部類だと思う。班活動をすれば班長に、学年が変われば学級委員になり、先生からは生徒会長も勧められた。ただ、みんなが知っている僕は、本当の僕ではない。こう言えばこう思われるだろう、こう言えばこんな空気になるだろう、そんな憶測が、僕の頭の中ではいつも飛び交っている。そして僕は自分の理想像を生きている。
わざと爽やかに笑っている。わざと場の空気を和ませている。わざと弱者の味方になって、「優しい」という印象を周りに蔓延らせている。背筋でさえも、わざと伸ばして姿勢を良くし、食事は丁寧に食べ、書く字は教師よりも綺麗に書いた。
ただこんなことは、思春期の青年、特に僕のような十代後半の学生なら誰しもがしている自己同一性の確立であることも、僕は知っている。僕がしているのはそんなことではなくて、自分にさえ嘘をついて戯けているということだ。
僕は何者なのか。考えるのさえ嫌いで、僕はもう長年この感覚で生きている。この世に嫌いなものはなかったが、唯一嫌いなものが自分だった。そして、特別寵愛しているものも自分だった。僕は自分が一番嫌いであるにも関わらず、如何せん自分が一番可愛い。所詮僕は道化師で、この感覚は一生消えないものなのだと悟っていた。というより、僕は元からこのような性分なのだと自分に言い聞かせた。
「僕は誰にでも優しくなくてはならない」、「僕がこの空気をどうにかしなければならない」、「僕は人気者である」、自分が自分に命令している。では本当の自分はどっちなのか。そんなのは知らなくても生きていけるはずで、最早知らない方が幸せなのかもしれない。敢えて僕は答えを求めることを早期にやめた。どうせ短い生涯だ。
恋愛もそれなりにした。いや、恋愛と呼べるのかは不明だが、彼女ができないと嘆く少年漫画の主人公のような学園生活は、少なくとも送っていないと言える。人気者と付き合いたい人なんて、高校という小さな世界にたくさんいるだろう、順当である。好きかと聞かれれば、まあ嫌いではないし、付き合ってくれと言われれば、大きな欠点はないため首を縦に振る。僕の恋愛に愛はなかった。よく言う成り行きであって、流れであって、愛があるものとは呼べない。十代の付き合いなんて、ほとんどがそのような軽いものだろうし、僕自身これが可笑しいことと思ったことは一度もなかった。
高校を卒業し、僕は都内の大学の文学部へ進学した。高校から一緒に大学へ進学してきた友人もいたし、読み通り、友達はすぐにできた。今までろくに苦労はしていなくて、わざと自分の実力よりも低めの大学、世間では中級大学と呼ばれる大規模大学した。なぜなら僕は頑張るのが大の苦手だからである。
大学なんて人生の夏休みである。文系に進めば尚更だ。授業中はゲーム器やらラップトップやらの電子端末を弄るものばかり、中にはイヤホンまでしていて、授業とは一体なんなのかを考えさせられるような光景まであった。だが別に僕に正義感はなく、それはそれで其奴のやり方であると自分を落とし込んだ。僕はというとまあ人並みに携帯電話は触るが、それなりに授業は聞いたり、配布資料に教授の言葉を書き込んだり、それくらいの作業はした。
大学は楽な世界だった。無理に友達を作らなくても、十分生きていける。教室という区分はなく、ご飯を一人で食べている学生なんて数え切れないほどいるし、図書館に行けば友達と騒ぐような奴はまず来ない。大勢でにぎにぎしくしたい奴はすれば良いし、独りでいたい奴は独りでいれば良い。他人から干渉されない、なんて楽な世界なのだろうと思ったが、やはり僕は仮面を捨て切れず、いつの間には僕の周りにはまた人だかりができていた。サークルにも入り、先輩からも可愛がられ、理想像としての僕はまたもや短期間で確立された。
今まで苦労をしたことがない。頑張ったことがない。挫折したことがない。僕の中の闇はいつ何時も僕に住み着いてはいたけど、奴が僕を邪魔したことはないし、僕は闇とさえもうまく付き合っている。闇にさえ、愛されている。
大学生になっても読書は好きだったが、それよりも好きなのは、読書中、誰にも邪魔されない時間だった。声をかけてくるものはいない。透明の遮蔽物が僕の身体全体を覆っているような感覚で、その時だけは何も考えずにただ書いてある文字を目で辿れた。
高校三年生の秋から始めた喫茶店でのアルバイトは、大学に入っても続けていたが、それにしても大学生活は特にすることもなく、僕は暇さえあれば図書館に入り浸るようになっていた。大学の図書館は高校とは規模が違う。僕の大学の図書館は二階建てになっていて、一角には映像媒体が並んでいたものの、ほとんどが本で埋め尽くされていた。日本のものだけでなく、海外の本もある。僕の知らない分野の本がたくさんある。高校の時のように、本を読んでいて隣から一声かけてくる顔見知りの奴や、決まって図書室にいる何をしに来たのかも分からない騒がしい奴らは、此処にはいない。僕にとっては幸せな空間であることは確かだった。本を読んでいると我を忘れる。文字だけの世界に身を置ける。この感覚を表現する言葉があれば良いのにとさえ感じる時間であった。