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五、オラシオンの旅人

 あれから半年の月日が経ったが、僕の記憶は戻る気配すら無く、結局図々しくも邦彦さんの喫茶店に住み込みで働かせてもらっているままだ。

 しかし、変化がないというわけではない。例えば僕はちきんと届け出を出して、仮の名前と戸籍を貰った。市役所では朝から晩まで隔離されて専門の人に質問攻めに晒されたり精神科で検査を受けたりと、それはもう大変というか、面倒くさかった。

 それとこれは小さなことだが、接客の仕事もだんだん慣れてきた。常連のお客さんの顔はちゃんと覚えてるし、ちょっとした世間話程度なら自分から振ることもできるようになった。だが、やっぱりコミュニケーションは得意ではないようで、人と話すときの緊張は未だに消えていない。

 そして、若葉はついに学校へ行くようになった。クラスメイトとの半年で開いた距離はまだ塞がり切らず、勉強も追いつくだけで精一杯らしいが…。心成しか、彼女の朝家を出るときの顔は、以前よりさわやかなものになっている気がする。


 そんな僕達だが、休日は決まって市内の色々な場所を散策している。これは若葉が言い出したことで、多分記憶を取り戻す手がかり探しだろう。

 別に戻らなくても良いのだが、何より彼女と小さな旅をするのが楽しいので断らなかった。

 「前の僕」が一度見た景色なのかどうかはわからないが、今の僕はどれも初めて見る景色なので、新鮮で刺激的だ。


 今日来たのは、市内で一番大きな公園。都市の真ん中にあり、駅が近く、人通りも激しい。ついでに大きな噴水やとうもろこし屋、アイスクリーム屋まである。そんないかにも都会的な公園だが、なぜか僕が思い出したのは若葉と初めて行った公園だった。

「なんかあの公園と同じ匂いがするね、旅人さん。」

 若葉には結局「幽霊さん」とか「記憶喪失さん」ではなく「旅人さん」と呼ばれることになった。幽霊より字面の見栄えがいいし、記憶喪失さんよりしっくりくる。個人的には気に入ってるが、よくよく考えて見ると変な呼び名だ。

「僕も同じこと考えてた。」

 そういえば、今日はこの公園のステージで音楽団の無料ミニコンサートがあるらしい。毎年やっているコンサートなだけあって、ステージの目の前で敷物に尻をつけて開演を待ちわびる人も少なくはない。

 今、タキシードを着た指揮者が入場し、客にお辞儀をした。

「若葉、演奏始まるっぽいよ。」

「ほんとだ。」

 町を見守る木々を風が静かに揺らし、春が香る。

 どこからともなく鈴が鳴った。耳を澄ませると、それは懐かしい音色だった。

 耳とか、目とか、そういうものが感じたわけではない、ただ心のどこかに隠れた「僕」を、優しく包み込む音色だ。

 木琴が響く。笛音が揺らぐ。

 どれもやわらかい。

 聴きふけっていると、「時」という概念を忘れて、ただそこに「僕」だけがある。そんな感覚に浸ってしまう。僕が今生きているのがこの世界で、そこから先はわからない。僕の場合、その前もわからない。

 わからないし、知らないし、見えない。だけど全然不安じゃない。

 だって今僕はここで、若葉の隣で、演奏を聴いているから。


 …さぁ、次はどこへ行こうか。

最後まで読んで下さった皆さん、本当にありがとうございました。 


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