三、若葉色の町
カーテンの隙間から漏れる陽の光が目に染みる。
僕が記憶喪失になってから二度目の朝だ。
昨日は風呂を借りた後に、僕は死んだように眠りについた。色々あって、気がつかないうちに心身ともに疲れていたのだろう。
埃で鼻がむず痒い。無論、急遽用意して貰った部屋なのだから仕方ないし、泊めてもらっただけで有難いのだから文句は言えない。
それはそうと、頭痛や怪我の痛みは収まったみたいだ。睡眠はどんな薬よりも効くっていうのは本当らしい。
僕は鼻を抑えつつ、顔を洗いに洗面所へ向かった。
そこで鏡を見て初めて分かったのが、自分が若葉さんと同じぐらいの、高校生ぐらいの歳だろうということだ。
当たり前だが、人間は自分の肉眼だけで自分の顔を見ることは出来ないから、今の今まで自分の顔を僕は知らなかったのだ。
「メシができたぞ。」
邦彦さんの呼ぶ声がしたので、僕はカフェのカウンターに向かった。
この喫茶店は朝に人はそんなに来ないらしい。というか一人もいない。
「ほら、食え。」
邦彦さんがそう言ってテーブルに出したのは、大きく切られたたまごサンドと、温かいコーンスープだ。
しかし、喫茶店でタダ飯を食べるのは何か抵抗がある。本当にお金を払わなくていいのか、という気持ちになるのだ。
僕はたまごサンドを恐る恐る口に運ぶ。
「おいしい…。」
その感情は記憶を失って初めてのものだった。その簡単な四文字が、僕の目の奥の何かを熱する。
「ど、どうしたんですか…?」
若葉さんがまた心配そうに僕の顔を見る。咄嗟に顔を手で探ると、目の下にぬるくにごった水滴があった。
「いや、ちょっとゴミが…。」
古典的で苦しい言い訳だが、今はそれしか言葉が見つからなかった。
「そうだ、若葉。お前町の案内でもしてやれよ。どうせ暇だろ。」
そこに邦彦さんが切り出す。
「私、が…?」
「あいつの出身がここかどうかはわからんが、しばらくここにいるなら教えてやった方がいいだろう。嫌か?」
「私は全然…」
「そうか、じゃあ飯食い終わったら行ってこい。」
僕が何も言わない間に色々と決定してしまったらしい。しかし、確かに町のことを教えてもらうことで何か思い出すかもしれない。誰かの手を借りることができるのは、少し心強い。
…思い出したら?今の僕はどうなってしまうのだろうか。記憶を失う前の僕に侵食され、逆に今の僕を忘れてしまうのではないか。そうしたら、今の僕は死ぬことになるのだろうか。
やっぱり、なにか怖い。
しばらくして、僕達は町の散策に出掛けた。気になるのが、若葉さんは学校へ行く訳でも無いのに制服を着ていることだ。そもそも今日は休日なのだろうか。カレンダーを見ていないのでわからないが、もし平日だとしたら、学校はどうしたのだろう。
「…あの」
さっきから無言を貫いていた若葉さんが、沈黙を破る。
「なんてお呼びすれば、いいでしょうか…。」
確かに、僕は自分の名前を知らないので名乗っていない。
名乗っていないので、若葉さんや邦彦さんは「お前」とか「あなた」と代名詞でしか僕のことを呼ぶことができなかったのだ。
それにしても…
「なんて呼べ、か…。いや、なんでもいいですよ。」
急にそんなこと聞かれても、急に仮名を思いつく訳はない。
「なんでも、ですか…。…困りました。」
しかし、それは僕に限ったことではなく、彼女にとってもそうなのだろう。他人を急に名付けるなんて、なかなかできることではない。
僕に似合う言葉としたら、何があるだろう…。
「幽霊、とかどうです?」
悩みに悩んだ挙句、結局僕が出したのはそんな自虐に近い自分への比喩の言葉だった。
生きた心地がしない、というよりも、一度死んでしまった気がする。そんな僕にはぴったりな隠喩だ。
「なんでまた、幽霊…?」
若葉さんは素直に困惑している。騙したような気分になってなんか嫌だ。
「いや、僕は記憶喪失だから。前の自分が死んで、その抜け殻みたいな状態だと思ってて… それで、幽霊と変わらないなって思ってるんです。だから、僕の呼び名なんて幽霊さんで十分です。」
それは全て本心だった。嘘偽りのない、本当に僕が思っていることだ。しかし、若葉さんは…
「あなたは生きてるじゃないですか。」
真っ直ぐな目で、真っ直ぐにそう言った。
「生きているのに、なんで幽霊にならないといけないんですか…?あなたは、生きていますよ…?」
そういうことじゃない。僕が言いたいのは、記憶が無い前の僕が死んだということで…。
「私のお母さんとお父さんは、死にました。去年です。」
「…。」
言葉が、詰まった。
「私が出かけてるあいだに、火事で。私なんかより全然生きる価値がある人達だったのに…。私はそれから学校も行かないようになって…。いわゆる不登校です。せっかく邦彦さんに引き取ってもらったのに。だから、簡単に死んでるなんて言わないでください。どっちかというと、私の方が…。」
彼女は地面を見つめた。昨日の僕と同じだ。前を見ても行き先がわからないから、下を向くのだ。地面より下には行けないから、地面は安心するのだ。
「ごめん…。でも、ありがとうございます。」
「いえ… すみません、私。普段こんなに話さないのに…」
若葉さんはまたいつものおどおどとした調子で縮こまる。なんとも言えずに、僕はただ彼女の後ろを着いていく。
それからどれぐらい歩いただろう。時計がないので分からないが…。
「公園です…。ごめんなさい、案内と言ってもこれぐらいしか分かるところなくて…。」
目を開けた先にあったのは、住宅街の民家やコンビニが所狭しと埋まっている町並の中、場違いに数種類の噴水や水場が並んだ公園であった。敷地に沿って植えられた若葉色の木が、風が運んだ水の冷気に優しく揺らされる。
初めて来たような気がしない、という感覚はあるが、デジャブに近いものであり、懐かしさなどは感じなかった。
「…私、小さい頃はよくここに連れてきて貰ってて…。ごめんなさい、本当は私が来たいだったかもしれません。一人でこんなところに来る勇気も、きっかけもなくて…。」
申し訳なさそうに身を縮めながらも、その風景に見惚れる姿を見ると、ここは若葉さんの大切な場所なんだろうなということが、心の底からわかる。
「ここ、好きなんですか?」
「はい…。私の名前は、この一帯から思いついたらしいんです。ごく普通の住宅街に、公園の若葉色の空気が流れ込んだ、そんな町の雰囲気から。…お父さんが付けてくれました。」
「良い名前、ですね。」
「でも全然似合ってないです。私には何の特技も長所もなくて、人見知りで、内気で… 生きてる価値もないのに、私だけ生き延びて…。しばらく行かないうちに学校も怖くなっちゃって…。せめてあの頃に戻れたらなって、思っちゃいます。」
若葉さんは溜め息もつかずに、また地面を見つめ始めた。安息を求めて、解放を求めて。
気づけば僕も同じ所を見続けそうになっていた。
でも、それは本当に安息なのだろうか。解放なのだろうか。
過去なんて所詮自他の記憶で、認識されて初めて成立するものだ。
一方今という時間は確実にあるもので、それを作っているのは今生きている僕だ。その今から目を背けてまで、「記憶」に縋るのは、「記憶」を懐かしむのは、本当に「生きている」というのだろうか。
そんなことのためにある記憶なんて、本当に必要なのだろうか。
「す、すいません…。私、また…。」
春風に木々が踊る。葉が何枚か落ち、舞う。
「もうそろそろ、帰りますか。」
返す言葉なんて、どこにも見当たらなかった。これは多分、記憶喪失のせいではなく、知らないだけだ。
僕が、僕の目が、僕の耳が、僕の手が、僕の鼻が、僕の心が。この公園の事も、この町のことも、彼女の事も。
元々知ってすらいなかったのだ。




