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二、空白の記憶

 気が付くと、まず最初にコーヒーの香りがした。

 次に照明の眩しさ、流れるジャズ風の音楽、布団の感触、そして最後に体中の痛みだ。

「目覚めたようだな。」

 男性のダンディな声がする。それが僕に向けられたものだと理解するまでに、だいたい三秒ほどかかった。

「あ、あの、本当にすいませんでした!おおお、お怪我とか、まだ痛みますか…?」

 さっきぶつかった自転車の少女だ。真っ直ぐな黒髪は肩まで降りていて、全体的に小柄。顔つきからしておそらく高校生ぐらいだろう。銀縁のメガネのレンズには片方だけ小さなひびが入っていることから察するに、結構な事故だったのだろう。

「ああ、大丈夫大丈夫…。」

 嘘だ。本当はとんでもなく痛い。強く頭を打ったらしく、脳がひっくり返るほどグラグラと痛みが染みる。

 映画なら頭を打ったことをきっかけに何か思い出したりするのがお決まりだが、僕は残念ながら何かを思い出す気配すらない。


「あ、あの…」

 少女はまだ心配そうに僕の様子を伺いつつ、目を忙しなく泳がせる。自転車でぶつかった相手が気絶までしてしまったのだ、そうなるのも無理はない。随分と他人事のように言っているが、そのぶつかった相手は僕自身のはずなのだが…。

「いや、本当に何ともないんで。…それより、ここは…?」

 久しぶりに人と話しているという実感が怖いほど湧いている。そんな僕に丁寧に答えたのは、またしてもダンディな男性の声。

 改めて見ると、彼は背が高く肩幅が広い。

「ここは喫茶トキワ。俺が経営している喫茶店だ。さっきはうちの娘が本当にすまなかった。これから救急車を呼ぼうとしていたんだが、その必要が無さそうで安心だ。」

「救急車だなんて、そんな大袈裟な…」

「大袈裟じゃないです!私のせいで… 本当に大丈夫なんですか…?」

 落ち着きを未だ取り戻していない少女が、会話に割り込む。

「本当にそんな大した怪我じゃないですよ。前を見ていなかった僕も悪いですし。」

 前半は嘘だ。それはそうと、ダンディな声の男性はどうやら少女の父親のようだ。

 華奢で控えめな彼女の雰囲気は、全体的にワイルドな印象の父親とは似ても似つかないから、ほんの少し驚いた。


「安心ついでに、名前と住所と電話番号を教えてくれないか。後から病院に行ったりするなら保険の手続きとかをしなくちゃいけないからな。俺は浅木邦彦だ。」

「あ、浅木若葉です…。」

 少女改め若葉さんが小さく頭を下げる。

 しかしこれは困った質問だ。僕の事を聞かれても、答えられることなんて何も無い。強いて言うなら、今頭が痛いってことぐらいだ。

「ど、どうも…。それで、名前なんですけど…。わからなくて…。」

「わからない…?どういうことだ?」

 邦彦さんは意味がわからない、と言うように唖然とした。

「実は僕、記憶喪失みたいで。名前も出身も電話番号も、さっぱりわからないんです。」

 あはは、と僕は薄っぺらく笑ってみせる。一方若葉さんの顔色はさっきの倍以上に悪化した。

「そ、それはさっきの事故で…?」

「いやいや、違いますって。昨日の夜からずっとこんな調子で…。」

 若葉さんはそっと胸を撫で下ろした。確かに自分のせいで相手の記憶まで奪ったかもしれないとなると、おぞましいほど怖いのだろう。


「そうか、そんな事情が…。警察とか病院には行かなくていいのか?記憶を取り戻すには一人じゃ無理だろう。」

「なんというか… 今はそれどころじゃないというか。記憶も戻したいかどうかって言われると、よく分からなくて…。」

 実際、気がついた時から記憶は全て「空白」だったのだから、喪失感のようなものは無い。しかし、両目がふさがったような不安はある。

 さっきまで考えもしなかったが、僕の家族や友達はもしかしたら僕のことを探しているかもしれないし、これから生きていくとしたら記憶が無いのはかなり不便だ。

 人と話すと、一人では想像に至らなかったことが心配と浮かぶ。

 そもそも僕は、ほんの少し前まで自分は幽霊かもしれないと思っていたというのに。

「そう、か…。なら、しばらくウチに居たらいい。事故の謝罪代わりと言ったらなんだが、なんせここはカフェだ。飲み食いぐらいなら一人増えたところで大した負担にはならん。落ち着くまでここに居て、それからのことはその後考えればいい。若葉、それでいいか?」

「わ、私は全然…。」

 思いもよらない提案に、僕は普通に驚いた。

 彼らにとって僕は他人だ。それは記憶喪失だとしても、事故で怪我を負わせてしまった相手だとしても、絶対に変わらない、列記とした事実なのだ。

 そんな赤の他人に、どんな事情があろうと居候しないかと提案できるだろうか。

「なんで… そこまでしてくれるんですか?」

「なんでって言われても、成り行きとしか言えないなぁ。人生なんて、だいたい成り行きと勘で進んでいくもんだ。で、どうするんだ?」

 彼は嘘偽りの無い真っ直ぐな目で、そう言った。もちろんこの提案は僕にとって嬉しいことでしかないし、少なくとも今日ぐらいは休みたい。そのための「場所」を、こんな簡単に貰えるなんて。

 それに、この提案に乗らないと、僕の命が危うい。

 僕にはお金もないし、携帯電話もない。この調子で町を放浪し続けていては、いつか力果てるのも目に見えている。

「すみません。お言葉に甘えて、数日ここに居させて下さい…。」

「もちろんだ。とにかく今日は休んだ方がいい。若葉の隣の部屋が空いているから、今日はそこで休んでいてくれ。あ、ホコリ臭いけどそこは勘弁してくれな。」

「いえ、本当にありがとうございます。」

 しかし、ここまで甘えていいのだろうか。

 見ず知らずの人の家に居候して、部屋まで用意してもらって。

 だというのに僕は、何も言えず、どうすればいいのかも、どうしたいのかも分からず、自分のことすら知らない。生きてるのか死んでるのかもよく分からない、そんな状態なのだ。

 記憶が無いというのは、やはり不便だ。

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