一、オラシオンの幽霊
町を見守る木々を風が静かに揺らし、春が香る。
どこからともなく鈴が鳴った。耳を澄ませると、それは懐かしい音色だった。
耳とか、目とか、そういうものが感じたわけではない、ただ心のどこかに隠れた「僕」を、優しく包み込む音色だ。
木琴が響く。笛音が揺らぐ。
どれもやわらかい。
聴きふけっていると、「時」という概念を忘れて、ただそこに「僕」だけがある。そんな感覚に浸ってしまう。…というよりも、そんな世界に飲み込まれたような気がしてしまう。
そんな夢を見たのは、もう昨日のことだ。
僕は幽霊だ。名前も、記憶も無い。家族の顔も思い出せないし、友達の顔、というか、居たのかすらもわからない。そもそもを言うとここがどこかという事すらさっぱり見当もつかない。
昨晩目が覚めた時には記憶が無くて、それから何の地図も道標も無く彷徨った結果、ここにたどり着いたというわけだ。
しかし、当然だが早朝の町にはちらほらと人が歩き、車が詰まっている。
僕の記憶があろうがなかろうが、町にとっては何の関係も無いのだ。
かく言う僕にも不安で不安で仕方なくてどうにかなりそう、という程のパニックはない。
自分が誰なのかということがわからないっていうのは、意外と気楽なものだ。本来背負っていたはずの義務や責任、罪でさえ、今の僕には関係が無いのだから。
なぜなら、僕は死んだからだ。魂なんて「記憶」が形作った概念なのだから、それを失った以前の僕はもう死んでいるのだ。
実際今の僕も生きているとは言い難い。誰の目にも触れていないようだし、自分も何がしたいのかはよくわからない。
自他からの観測が無いなら、それは生きているとは言えない。少なくとも、僕は生きているような実感がない。
ひょっとしたら、本当に僕は幽霊で、誰にも見えていないということもあり得る。むしろそっちの方がある意味納得がいく節もある。
ポケットに手を突っ込む。ジャリンと耳障りな金属音を立てた小銭は、五百円玉ひとつに、十円玉ふたつ。喫茶店でコーヒーを飲んでお釣りが来るか来ないかぐらいだ。
この調子では本当に亡霊に成り果ててしまいそうで、不安、というか視力を失ったような感じがする。
当然何も面白いものなんて見当たらない地面を見ながら、宛も無く歩き出す。
「あっ…!」
「え…」
地面を見ながら宛も無く歩く男と激しく衝突したのは、青い自転車を走らせる、制服を着た少女だった。
彼女の顔から弾け落ちた銀縁のメガネが反射したのは、無様に倒れる僕と、その肩を揺らす少女。
体中の力が抜け落ちる最中に、僕が感じていたのは痛みと、そして安堵。
どうやら僕は死んでいなかったらしい。