時間のよどみ
田舎道でわたしは車を停めた。
「どうしたの?」
助手席に座っていた妻が,けげんそうな顔をした。
わたしは車から降りて,遠くの山林を眺めた。
「子供のころ,この道路は舗装されていなくてね。」
妻に説明した。「この道をまっすぐ行くと,どこか未知の世界に迷い込むんじゃないかって本気で信じていたのさ。本当は隣町があったし,別の道を通ってその町には何度も行っていた筈なんだけどね。」
「ふうーん。」
妻はあまり関心がないようだった。
わたしは妻を連れて,近くにある墓地に向かった。以前から行ってみようと考えていたのだが,なぜかふんぎりがつかなかったのだ。
小さな墓地だ。墓石も十数個しかない。わたしはすぐに目当ての墓を見つけた。そこには『佐藤正人』という平凡な名前が刻まれていた。
「誰のお墓?」
妻が訊いた。
「小学校時代の同級生だよ。」
わたしが答えた。「正直言ってあまり記憶がないんだ。クラスも違ったし,途中でいつの間にか学校に来なくなったからね。」
「死んじゃったの?」
「亡くなったのは二十歳ちょっと前かな。去年親から聞いて知った。」
「病気?」
「進行性筋ジストロフィー症という難病だったそうだ。小学校のころから足が不自由で,車椅子に乗っていた。」
わたしは深く溜息をついた。嫌な記憶がよみがえってきたのだ。
わたしは親から身障者を差別してはいけないと,幼少時からきびしく教育されてきた。障害者をジロジロと見たり,指さすことも禁じられた。だから正人くんに対しても同情していたし,会えば気を遣っていた。
ところが正人くんはけっこう生意気だった。こちらが気を遣っているのに,彼はいつも自分勝手だった。
ある日些細なことで口喧嘩になった。初めはわたしが我慢していた。しかし彼がわたしの親の悪口を言ったので,わたしもとうとう切れた。
そして言ってはならないセリフを口にしてしまった。
「この,びっこの乞食!」
一瞬正人くんはキョトンとした顔をした。そしてゆっくりと口をへの字に曲げ,大声で泣き出した。
「ひっどーい。」
妻が非難した。
「恐いもの見たさもあったのだろうな。それに子供なんて意外と残酷なものだよ。あるいはどこかに差別心があったのかもしれない。」
「恨まれたでしょう。」
「さあ,わからない。とにかくそれ以来,わたしは彼を避けてしまったからね。」
ただ時々夢に見ていた。なんともいえない苦しい夢だ。
「その後彼はどうなったの?」
「中学に入る前に,県外の専門施設に入所したらしい。」
国立療養所という特殊病院だ。同じような患者を多数集めている。
先日,そこに勤務していたという医師に会って,話を聞いた。
「死期が迫ると,子供たちもなんとなくわかるようだよ。」
彼が抑揚のない声で説明した。「ほとんどは心不全で亡くなるんだ。呼吸が苦しくなってくれば,もうそろそろって思うさ。何人も仲間の死を見ているからね。そうなると患児は個室に移される。同室の子供たちは・・・なんていうのか,無表情で見ているんだよね。」
「死に対する恐怖とか,仲間の死を悲しむ心情はないのか。」
「それはわからないな。一種独特な雰囲気だよ。諦めているわけでもないし,達観しているわけでもない。魂が抜けているような感じなんだ。」
なんとなく雰囲気だけは伝わってきた。
わたしは正人くんの墓の前で手を合わせ,目を閉じた。
突然めまいがした。
目を開けると,周囲の様子が少し変だった。異様に明るい。
「やっぱり来たんだ。」
妻がいた場所に,正人くんがいた。昔と変わらず,車椅子に乗っていた。
わたしは不思議と驚かなかった。彼の登場を予測していたような気がしていた。
「正人くんには謝ろうと昔から思っていた。本当にひどいことを言った。」
「気にしてくれていたんだね。」
正人くんが嬉しそうな顔をして言った。「だから君は『時間のよどみ』に入ることができたんだ。きっとそこに,子供心の破片を残していたんだろうね。」
「よくわからないな。『時間のよどみ』ってなんだろう?」
「気にすることはないよ。ボクだってよくわからない。ただなんていうか・・・時間って川の流れのようなものじゃないかな。すべての水が同じく流れているように見えて,本当はよどんでいる所だってある・・・なんだ,説明になっていないかな。」
正人くんが笑った。
「わたしのことを怒っていないのか。あんな辛いことを言ったのに。」
「気にしてなんていないさ。あんなこと,辛い部類には入らないよ。」
そう言って正人くんは,わたしの目を見つめた。
再びめまいがした。
暗闇の中,わたしはフワフワと宙に浮いていた。
ここはどこだろう?
誰かの家の中のようだ。古い廊下がうっすらと見える。
部屋から正人くんが這って出てきた。トイレに行くらしい。
これは過去だ。わたしが小学生のころの,正人くんの家だ。
トイレの近くの扉が少し開いていた。正人くんは音を立てないように注意して,扉の隙間から部屋の中を覗いた。
「正人が可哀想じゃない。」
母親の声が聞こえてきた。
「療養病院は,難病ならお金がかからないそうだ。」
父親が説得していた。「専門の病院だから,正人も幸せだろう。来月からでも入院できるそうだ。」
「でも兄弟は仲がいいし,正人だって家を離れたくないんじゃないの。」
「いいか!」
父親がしびれを切らしたように言った。「オレたちは弟の方を教育しなくちゃいけないんだ。跡継ぎを育てるにはお金だってかかる。お前だって正人の面倒ばかり見ていられないだろう。」
「だって・・・」
「よく考えてみろ。正人は――どうせ死ぬんだ!」
わたしは正人くんを見降ろした。
彼は廊下でうずくまっていた。声を押し殺して,大粒の涙を流していた。
「あれ以来,ボクは泣かなくなったよ。」
再び墓地に戻っていた。
わたしは言うべき言葉もなかった。専門病院にいる子供たちの心境が理解できたような気がした。
「さ,行こうか。」
正人くんが,わたしの手をとった。
「どこに行くのかな?」
「森の向こうだよ。君だってボクと同じ能力を持っている。ボクの真似ができる筈さ。」
わたしは正人くんの車椅子を押して,わたしの車に戻った。
そして助手席に彼を座らせた。
「同級生だったのに,わたしがオジさんになって運転するのも,ちょっと変だね。」
わたしが笑った。
道路はいつの間にか舗装されていない,砂利道に変化していた。
「さあ,出発だ!」
正人くんが元気そうに叫んだ。
「この先は隣町だよ。」
わたしはとにかく車を走らせた。
隣町はなかった。
山林に入ると,本当はすぐに抜ける筈なのに,ますます木々が生い茂ってきた。
「おとぎ話の世界のようだな。」
突然目の前にカラフルな家が現れた。よく見るとその家はチョコレートでできていた。
「楽しいだろう。」
正人くんが言った。わたしも笑ってうなずいた。
少し奥に入ると,今度は古い農家の家が現れた。わたしは車を降りて,ゆっくりと家に近づいた。なんだか竹取物語にでも出てくるような古めかしい家で,廊下には古代の衣裳を着た老夫婦が腰掛けていた。
二人とも動こうとしない。よくみると,老夫婦は蝋人形だった。
「あー,びっくりした。」
車に戻って,わたしが大声を出した。正人くんも喜んでいた。
さらに奥に進むと,そこは火星だった。遠くに足の長いタコ型火星人の姿が見えた。三人集まって,何か話しでもしているようだった。
「気づかれないように,注意しろよ!」
正人くんが小声で言った。
わたしもなるべくエンジン音をたてないようにして,ゆっくりと運転した。
火星人の一人が恐ろしい顔をわたしたちに向けた。
「逃げろ!」
正人くんが楽しそうに叫んだ。
わたしもアクセルを思いっきり踏みつけた。
「ああ,楽しかった。」
わたしが運転席をリクライニングして言った。「また会えるかな?」
「いつでもね。」
正人くんが答えた。「ボクはいつだって『時間のよどみ』で待っているよ。ボクの居場所はここしかないから。」
そして正人くんの姿は・・・少しずつ薄くなっていった。
「あなた,大丈夫?」
妻の声がした。
わたしは運転席で寝ていたようだ。
「お墓の前で気分が悪くなったようだから,近くの人を呼んで運んでもらったのよ。」
わたしは車の窓から外を見た。すでに薄暗くなっていた。
夢だったのかな・・・わたしは首を振った。
なんだか,いつもの肩凝りがとれているようだった。
後日,わたしは実際に正人くんの家を訪れてみた。
両親はすでに他界しており,大人になった弟さんが家の中を案内してくれた。
「この場所で兄は両親の話を聞いていたのですか。」
彼は廊下の隅にしゃがみ込んで言った。「僕は信用しますよ。今までもここに兄が住んでいるような気がしていました。ここが兄にとって『時間のよどみ』だったのですね。」
廊下は古くなっていたが,わたしの記憶と間違いなく一致していた。