第四話 事態流転
クリオスが体を休めるとともに黙考に沈み、カルナロアががちゃごちゃと瓦礫を漁る。
そんな時間が、少しの間、流れていた。
最初に異変に気付いたのはカルナロアだった。
異変に気付いた時、カルナロアはとっさに、その手に掴んでいた漆黒の彫刻の破片を、思い切り異変の源に投げつけていた。
黙考の間に瞑目していたクリオスは、カルナロアの立てた物音に、一拍遅れてそれに気づいた。
急激な思考の切り替えに、けれどその対応が遅れることはない。
傍らに立てかけてあった投擲杖を手に取り、即座に臨戦態勢をとった。
カルナロアが瓦礫を投げつけた先、玉座に座ったクリオスに正対する位置。
そこにいたのは、幽精と思しき朧げな人影だった。
《―――~~__~――》
鳴き声とも歌ともとれない音のうねり。
言語として意味を聞き取ることができなくても、幽精の発するその音が圧縮された魔術詠唱であると、対峙する二人は知っていた。
けれど、知っているだけだ。すでに半ば失伝されたその詠唱法は、ごくわずかな高位魔術師が唱える姿を、特別な儀式の際などにごくまれに見かけることができる。そんなような技術だったはずだ。
いかに過去の亡霊たる幽精であっても、否、むしろ未練や妄執によって意識の混濁した幽精であればこそ、そのように高度な魔術詠唱のできる個体はかつて見たことも聞いたこともない。
そして、その圧縮詠唱が「耳を疑うような」ことであるならば、たった今目の前で起こったことは、「目を疑うような」ことだった。
カルナロアが牽制に放った瓦礫の投擲。
その瓦礫が幽精に届くかと言う瞬間に、幽精が瓦礫へと手をかざす。
次の瞬間には、ピタリと動きを止めた黒い瓦礫がその形と軌道を大きく変えながら、クリオスへと向かって放たれたのだ。
幽精であれば、魔術効果のない物理的な攻撃は通じず、瓦礫の投擲などは多少驚かせて魔術詠唱を中断させる程度の効果こそあれ、大きな反応などはないのが普通だ。
いっそ幽精ではなく高位魔導士であるならば、詠唱を省いた障壁を展開し、瓦礫の激突を防ぐ、といったこともあったかもしれない。
けれど、目前の幽精の取った選択は、そのいずれでもなかった。
瓦礫の動きを止める、形を変える、射出する、それぞれ異なる魔術を必要とするそれら全てを、ほとんど同時にこなして見せたのだ。しかも、圧縮詠唱には支障をきたすことなく、つまりは、すべての詠唱を省いたうえで。
驚愕しながらも平静を保ったクリオスは、これに対して風弾の連続射出で対抗した。
瓦礫の質量を考えれば、一発の風弾では相殺は難しい。
それでも、二発、三発もぶつけてやれば撃ち落とすことはできるであろうし、そこから先については瓦礫のその先、つまりはそれを放ってきた幽精への攻撃になるはずだ。
下手に身をかわして体勢を崩すよりは、そのまま攻撃へと移った方がいい。
幽精の身で圧縮詠唱を可能とする相手の魔術技量を考えれば、その詠唱の中断は、それほど急いでしかるべきだ、と、そう判断したためだ。
しかし、その目算も向かい来る瓦礫が一切その勢いを減ずることがなかったために崩れ去る。
先刻、幽精が瓦礫に対して加えた魔術は、停止、変容、射出の三つだけではなかったらしい、と、脳裏に浮かべながら、クリオスはわずかの間だけ逡巡する。
身をかわすべきか。風弾の射出を継続すべきか。
決断の前に、視界に人影が割り込んだ。
カルナロアだ。
瓦礫を投げつけた後、すぐさま駆け付けていたのだろう。
いかにクリオスと仲が良くないとはいえ、幽精を相手にする際、決め手となるのは魔術の射手だ。
幽体である相手に物理攻撃は通じず、魔力を注いで鍛えた魔術武器があっても空中を浮遊することができる相手に攻撃を届かせることは難しい。
それが分かっていたからこそ、攻撃の要となるクリオスを護ることに徹する。熟練の冒険者であればこその、合理的な判断だった。
それを見て取ったクリオスは、それに応えるために、攻撃の継続を決める。
瓦礫はカルナロアが止める。そこに疑いはなく、不安や心配もない。
私情は横に置くとして、冒険者として、カルナロアの実力は熟知している。
ゆえに、彼女が攻撃を通すことはないとの前提に立って攻撃する。
それが最善だ。そのはずだった。
「ちょっ……とっ! なにこれぇっ!?」
悲鳴のような、カルナロアの戸惑いの声が上がる。
目算が崩れたことに動揺する間もあればこそ。
咄嗟に動作を切り替える暇も与えず、ぐにゃりと不定形生物のように形を変えてカルナロアの首に絡みついた黒い瓦礫はまったく勢いを落とすことなくクリオスへと向かい、カルナロアごとぶつかってその身を再び玉座に叩きつけた。
「っく……」
「…っつぅっ…もうっ!なによあいつっ!なんなのよっ!」
クリオスが短く呻きを漏らし、予想外のことに顔をしかめたカルナロアがそれでも体勢を立て直そうと、身を起こそうとしてもがく。
けれど、その時にはすでに遅かった。
幽精の詠唱する声は止み、それはつまり、大規模な魔術を発動を意味していて。
それを証明するかの如く、闇色の魔力光が玉座を中心に立ち上がり、円柱状の儀式陣を形成した。
「ああ、やはり…」
「っ!!クリオス、あんたこんな時に何言ってっ……」
もがくカルナロアも、クリオスの呟きも呑み込んで、収束する闇がその姿をかき消していく。
寸刻の間を置かず、魔力光が収まるころには幽精の姿さえも掻き消え、かつての戦場、かつての魔王の座所は、侵入者がいたことなどまるでなかったかのような静謐に満たされていた。
~~~~~~~~~
~~~~~~~~~
「……あれは…」
「あ。やっと起きた。遅いってのよこの貧弱鍾乳石」
気づけば途切れていた意識を覚醒させたクリオスは、いつも通りの悪態をついてくる女ドワーフの言葉をひとまず無視して、全身の感覚を確かめる。
意識が途切れる直前の記憶で、カルナロアがぶつかってきたと思しき左腕、左わき腹のあたりに鈍い痛みこそあるものの、全身の感覚に欠損はなく、流血時特有のぬるりとした暖かさもない。
ひとまず五体満足ではあるようだ、と認識して体を起こそうとしたら、鈍い痛みの残っていた左腕、否、左の手首に鋭い痛みが走った。
「おーそーいーっていってるでしょぉーっ!早くっ!起きろっ!」
カルナロアの言葉とともに、左手をぐいと引っ張られる感触。痛みの根はどうもカルナロアにあるようだ、と否が応にも気づかされ、眉間に力を込めながらも痛みを止めるために引かれるまま体を起こした。
「まったく君は。万人が君のように大雑把な体をしているわけではないと知るべきで……」
「うるさいうるっさーいっ!後ろからぱこぱこ魔法飛ばしてりゃいいからって体鍛えてなかったあんたの責任を人に押し付けてんじゃ……
……なによぅ」
ようやく普段の調子を取り戻して皮肉を言いかかるクリオスに、負けじと言い返しかかったカルナロアが、不意に止まった口上に気付いて怪訝の目を向ける。
一方のクリオスの視線もまた、怪訝の目だった。
ただ、その向かう先はカルナロアの顔よりやや下だ。
そこに何を見ているのか。
すでに知っているカルナロアは、いかにも不服そうに顔をしかめる。
「いやはや。君にそのような趣味があろうとは。
あ。念のため言っておきますけれど、僕にそういった趣味はありませんのでくれぐれも期待しないように」
「予想を裏切らない反応をありがとう、しねっ!」
青筋浮かべた笑顔でカルナロアの放った拳が、クリオスの皮鎧に包まれた胸部を叩く。
腹が立ったのでぶん殴ってやることに躊躇はないが、依然として安全が確保されているとは言い難い状況。
同行者になまじダメージを与えたり悶絶させる意図もないので、ちょっと咽させる程度に妥協してあげたのだからいっそ感謝してほしい。
そんなことを思うカルナロアの首元には、黒い輝きを湛えた継ぎ目のない無骨な首輪…首枷と呼ぶべきだろうか。硬質で太さも厚みもたっぷりあるソレがはめられていた。
なお、がっちりと一体化した小さな輪から延びるじゃらりと重たげな鎖が延びる先はクリオスの左手首だ。
そこには、カルナロアの首にはまっているのと同種同質の手枷が嵌められている。
「っかはっふっ……まったく……無益な暴力に訴えるあたりはやはり精神的未熟の顕れでしょうかねぇ…」
「ふんっ。いまだにその減らず口を叩けてることに感謝してほしいくらいなんだけど?」
本当に。いっぺん手加減なしで白クロつけてやろうかしらクロだけに。
とは思っても、それで減らず口が減るようにも思えないから実行はしない。今はそんな場合ではないのだ。
「……で、茶番はさておき、ここどこだと思う?」
そう。今考えるべきは帰還すること。
気が付いた時には目の前に広がっていた、継ぎ目のない奇妙な石造りの建造物から、どう脱出するのか、ということだ。