月人
すみません、キーワード設定むずかしくて、もしかしたら間違っているかもしれません。どれかといえば…恋愛要素かなと思って設定して、でもそれほど恋愛を押し出してるわけではないので…
ご指摘いただければすぐに訂正します…
物心のつかないうちから、わたしはその男と暮らしている。
男の半分の半分くらいの夜ご飯を頬張りながら、テーブルの向かいに座って、がつがつと黙々と食べ物を口に運ぶ男に目をやる。
煙草のにおいの染み付いた汚いポロシャツにそうっと包まれた実は筋肉質な身体、伸ばしっぱなしにしたままのふわふわの猫っ毛。
それから箸を持つ自分の腕、その下に見える行儀よく椅子に座る自分の脚に目線を落とす。
健康的という言葉とは縁のないくらい痩せていて、白い。足首には鎖がついている…ように錯覚した。
食べ終わった食器を洗って水切りかごに立てかける。自由に動くことを許されないこの家の中で、キッチンだけはわたしのテリトリー。ほこりも塵も、カビもない。ここにいる時だけは、ちょっぴり自由だ。
エプロンをはずして洗濯機に放り込み、しずかにしずかに玄関の扉をあけた。男に気づかれないように、そうっと。
空気ごと夜につつまれたみたいな暗がりのなかにある街灯のあかり、家の窓から漏れるあかり。邪魔だなあって、そんなこと言ってもどうにもならないのだけれど、消してしまいたいと思った。
いちにちでいちばんすきな時間がはじまる。
夜と空気を吸い込んで、そうっと、恐れるように敬うように、上を見上げる。
真っ暗な空にぽつんと置かれた月、今夜は三日月。
月はわたしに似ている。
はかなくてつめたい、綺麗な月。
「かぐや」
ぞっとした。男の声が耳元で聞こえたのだ。
「外に出ていいなんて、誰が言った」
「ごめん…なさい」
ふん、と鼻を鳴らして男が家に入ったのを見届けて、もういちどだけ振り向く。上を。
「これで最後かも、しれないの」
わたしは買われた子、売られた子。
明日こそ、いや、今晩こそ、殺されてしまうかもしれないから。
家に入ると男が立っていた。
一瞬体が竦んで、だけど目は逸らせなかった。
「今日が何の日か知ってるか」
男が言う。
こうしてわたしに命令以外のことを言うのは初めてだった…気がする。
「いいえ」
「毎日月を見ていたろう」
わたしは殺されてしまうのだろうか。あれほど焦がれて憧れた月も、もう見納めなのだろうか。
漸く男から逸らした目を窓に向けて窓越しに月を見る。
さっきと少しも変わっていない月。逃げられないのね、あなたも、わたしも。
やっぱり月はわたしに似ている。はかなくてつめたい、綺麗な月。
「毎日月を見ていたろう」
いつの間にか火をつけた煙草越しに吸い込んだ空気をほうっと吐いて、ふっと笑う。すこしだけ見惚れた。
「ちょうど二十年前のこの日だ。お前がこの家に来た」
それから男は昔話をはじめた。
あの頃はどうかしていたんだ、俺も、ほかの奴らも、この国も。だってそうじゃあないか、金があるかどうかだけで人を判断するんだ。
お前の両親だってそうだった。金の為に、お前を売った。俺がお前を買ったんだ。
そんな話はどこにでも転がっていて、そんなことが許されてしまうってのが信じられなかった。
だからお前を買ったんだ。
二十年経ったら月に帰そうと決めて、かぐやと名前をつけた。
お前だって気づいたろう。家の外に街灯ができたこと。だんだんこの国が変わり始めたこと。どうしようもなく月に惹かれる理由も。
だけどなあ、かぐや。世界は変わったんだ。
お前がこうして俺なんかに縛られていなくちゃいけない世界は、終わったんだよ。
お前はもうひとりで生きていけるんだ。自由なんだよ。
男は話し終わるとさっさと立って自分の部屋へ入ってしまった。
わたしが月へ?わたしが自由?
そうしていると男の部屋の扉が開いて、そこから男が顔だけ出して言った。
「明日、必要なものを買いに街へ行こう。お前は行ったことがないだろう。最後にひとつ願いを叶えてやる」
つぎの日の朝起きると、いつもとは大分違っていた。
洗濯された感じのいい服を着て、きちんと髪をセットした男が朝ごはんを作っていたのだ。
「食べたら行くぞ」
「…はい」
いつも着ていた服はどこかへ消え、その代わりに高そうなワンピースが置いてあった。
お前はもう俺のかぐやではない、そう言われたような気がしてすこし悲しくなった。
それでも着替えると男は、綺麗だな、と言って笑った。
男の車に乗ったのは初めてだった。黒く光る車はすこし狭くて、いままでにないくらい男と近づく。
依然しみついている煙草のにおいは、香水の香りと混ぜ合わされてなんだか甘い。
はじめて男のよれたシャツ以外の服を見て、はじめて煙草以外の香りを嗅いだことでわたしもいくらか興奮していたのだと思う。
「どこに向かってるの?」
「街って、言ったろう、馬鹿」
馬鹿なことを言ってもぶたれないのが不思議だった。
「あれはなに?」
「あれは東京オリンピックの…」
「オリンピック?」
「去年、あったんだよ、そういうのが。世界でいちばん大きな運動会みたいなもんだ」
ふうん、と言ったら車が止まった。街に着いたらしかった。
正直なところ、はじめて男とした会話らしいものにうきうきしていて街どころではなかったのだけど、一歩車の外に出たら凄かった。
大きな通り。沢山の車。大勢の人。色とりどりのお店。
男はわたしをニヤッと見て、すごいだろう、と笑った。何も言えずに頷くと、満足そうに鼻を鳴らした。
それからいちばん近くの服屋に入ってたくさん買い込み、隣の店で買った真っ赤なスーツケースに詰め込んだ。向かいの理髪店で髪を整えてもらって、その二軒隣の店で男と同じ量のオムライスを食べた。
がらぁんがらぁんとスーツケースをひっぱりながら、街を闊歩した。
見るものの殆どが知らないものばかりで、そんなわたしを見ながら男はずっとニヤニヤ笑っていた。
スーツケースの中の空白がすべて埋まった頃、夜になった。
「おい、かぐや」
「なぁに?」
「何がいい。ひとつ願いを叶えてやる」
そういえばそうだった。
わたしは、だから、ひとつ口にする。
「月。月が見たい。一緒に」
男は車を走らせて家の近くの公園に行った。
途中で買ったお酒を持って、二十歳だけどお前にはまだ早いだろうってひとくちもくれなかったから、オレンジジュースをちびちび、飲んだ。
「しかし本当に、お前は月が好きだなあ?」
月が昨日よりもつよくあかるく見えたのは、わたしも月もちょっぴり世界を吸い込んだからか。
はかなくてつめたい、綺麗な月。
「ええ。好きよ」
それきり会話はなかった。
「帰るぞ」
しばらくして男がそう言うので従った。
「明日からお前はかぐやじゃないんだからな」
「え?」
男はポケットからなにやら長方形の紙を取り出すとわたしに差し出した。
「切符だよ。これで電車に乗るんだ。お前の家に帰れるよ」
「わたしの、家?」
「そうだ。月だ。お前の本当の家族がいるところに」
わたしにとっては二十年も一緒にすごしたこの男こそがそれにあたると思っていたのだけれど。
売られた子の扱いにしてはずいぶんいい方だった。ぶたれることはあったけれど、殺されることも、犯されることもなかった。
「わたしは、その紙で月に帰るの?」
「そうだ。さしずめ、天女の羽衣代わりってところだな」
男はさも愉快そうに笑うと、今度こそ車に乗り込んだ。
「明日駅まで送ってやるから、そうしたらお前、もう俺のことを思い出すんじゃあないぞ。ここでのことはすっかり忘れて、本当の家族と暮らすんだ」
男がブレーキを踏み込んで、ぶろろろろ、と大きな音がした。その音の隙間を縫うように、糸みたいに細い声で、しかしはっきりと聞こえた。
いままでごめんな。
不思議に涙が出た。
男は何もなかったかのように話し続ける。
「全くよぉ、お国も余計な戦争しやがって。負けなければこんなふうに売られる子供もいなかっただろうによぉ」
がたたん、がたたん、車の後ろに積み込んだスーツケースが音を立てた。
かたたん、がたたん、もしまたこんな戦争が起こったらよぉ。
がたたん、がたたん、そん時は今より技術もあがって。
がたたん、がたたん、こうして育ててやれる大人も、いなくなっちまうほど。
がたたん、がたたん。
みんな死んじまうんだろうなあ。
ほら、ここから見る最後の月だ。
最後まで読んでくださり、ほんとうにありがとうございました!