第1話:白いキャンバスに描いて《断章4》
恋愛指導部で相談してみて、真夜は告白したいという気持ちが強くなっていた。
――先生が好き、その気持ちをとめることはできそうにない。
美術準備室ではいつものように栄治がくつろいでいた。
「先生、暇そうにしてるね」
「しょーがないだろ。火曜日は授業がないんだからさ。専門分野の教師ってのは暇な時は暇なものだ。昼からは教頭の付き添いの運転手係として他校に行ってくる」
ふわぁ、とあくびをする栄治はいつも通り、ポットのお湯を沸かし始めた。
「他校って何をするの?」
「教頭の面倒な仕事っぽい。私立校同士の意見交換ってやつじゃないか」
「ふーん。高町先生はホントに雑用係みたいだね」
「悲しいがそれが新人の教師の役目だ。雑用も給料のうちってな」
――美術教師って楽そうに見えるけど大変なんだ。
先生ってのは授業をするだけが仕事ではない。
食後、雑談しながら真夜は思い出したかのように、
「そうだ、先生。今日は持ってきているものがあるの」
「持ってきているって何だ?」
私は鞄から箱を取り出して先生に手渡す。
その箱を先生は嫌な顔をして見つめた。
「……爆弾か、それとも毒入りケーキか」
「違うよ、もうっ。先生、私がそんなのあげるわけないじゃん。開けてみて」
真夜に促されて彼は箱を開ける。
中に入っているのはゼリーの詰め合わせだ。
「昨日、父さんが買ってきてくれたの。美味しそうでしょ。高町先生はゼリーが好きって聞いたからあげようって思ったの」
その情報は美術部員の友人から聞いたもので、栄治の好物だった。
「好き嫌いが激しいワリに好みは結構意外なものだね?」
「……いや、確かにゼリーは好きだが、いかにも高級そうな雰囲気を持つゼリー様はお呼びじゃない。常日頃に食している物と次元が違うぞ。これ、1個でいくらぐらいするんだ?かなり高いんじゃないのか?」
栄治はゼリーを片手でひっくり返しながらみていた。
それぞれのゼリーの中には果実が入っている。
「具体的な値段は知らないけど、きっとそれなりにするはず」
父が真夜のご機嫌取りに買ってきてくれたものなので、特には気にしない。
大抵、週に1回くらいこうして、真夜に何かを買ってきてくれるのだ。
「父さんとの仲は悪くはないけど、母さんとの離婚以来、関係はちょっとだけ改善したの。昔は本当に仕事に熱心すぎて、子供の私を見ようとしなかった人だもの」
「親なりに子を想うってか。気難しい親子関係だな」
「まぁね。この店のゼリーは美味しいよ。食べよ?」
家から持ってきたスプーンを取り出して、栄治に手渡した。
「私はピーチ味、先生は何が好き?」
「……メロン味で」
「あははっ、そうじゃないかなって思ってたよ」
「笑うな、庶民はメロンなど食い慣れてはいないんだ」
「先生ってホントに可愛い」
時々見せる子供っぽさみたいな所が真夜は好きだったりする。
箱の中からメロン味の緑色のゼリーを先生に渡す。
「はい、どうぞ。さぁて、食べよっと」
食後のデザートとしてゼリーを食べ始める。
桃の甘さと果肉が美味しいゼリーで程よい触感がいい。
「中にちゃんと果肉まではいってるな。絶対高いぞ」
「まだ言ってるし。先生も値段気にして食べても美味しくないでしょ」
「お嬢様育ちの榊原と一緒にしないでくれ。はぁ、何だか榊原をみてると庶民との差を思い知らされるな。この学園はそういう富裕層の生徒が多いから余計に庶民としては辛くなる。……うまいな、これ」
栄治は肩をすくめながらも、スプーンでゼリーをすくう仕草はやめない。
「口では文句言いながらもゼリーは好きなんだよね。ねぇ、先生。ゼリーあげたんだから私のお願いを聞いてよ」
「……交換条件か。くっ、何だ、言ってみろ」
「そんなに心配しなくても変なことじゃないから。あのね、頭を撫でて」
「おい、どういう意味を持ってだ?」
「甘えたい年頃なの。別にそれぐらいならいいでしょ?」
彼は「どこの子供だ」と言いながらも真夜の頭にそっと触れる。
その手の温もりは彼女には懐かしさを思い出させた。
「お前、父親と不仲なのか?こういうのは親に頼めよ」
「それこそ、子供じゃないからパス。それに今さら恥ずかしくて無理だよ」
「……そうか。人様のお家事情に踏み入るつもりはないが、お前も大変だな」
甘えられる存在、それを彼に求める真夜。
――この気持ち、もう止められないよ。
数日後、真夜は友人からあることを聞かされた。
それは別クラスの女の子が栄治に告白したという話だった。
女子の間ではそういう噂が流れるのは早い。
「……高町先生に告白?結果はどうだったの?」
「即フラれたってさ。当たり前か、生徒に手を出す先生じゃないしね。これが物理の工藤先生とかだったら、ヤバい事になってたかも。あははっ」
「まぁ、工藤先生はアレな人だから……じゃなくて、ホントに?」
「そう。高町先生は容姿がいいし、生徒受けもするから悪くはないけどよくやるわよ。教師に告白なんて漫画やドラマでしかない。実際にする子がいると、正直言って引くわ。アンタら、教師に夢見過ぎだってね?」
友人たちは笑うけど、真夜は笑えるわけがなかった。
彼女も教師に恋をする女子生徒のひとりだったからである。
「やっぱり、ダメなのかな。教師とかに恋をしちゃ」
「ダメって言うか、憧れは憧れだけにしておきないさってことよ。学校って空間の中じゃ先生も年上でいい男に見えるかもしれないけど、外に出ればただの男。魅力を感じる教師×生徒っていうシチュエーションに酔ってるだけね」
――違うっ、私は……そんなんじゃないの。
「……先生に惹かれたのはそんな理由じゃない」
「え?真夜、どうしたの?」
「ううん、別に何でもないよ」
真夜には焦りが生まれていた。
「早く告白しないと誰かに先生を取られちゃうかも……」
当然ながら、彼女だったら受け入れてくれるわけでもないのに。
今日の放課後は部活がないので、昼休憩のときに時間を作ってもらった。
放課後、美術準備室を訪れた私を先生は絵を描きながら待っていた。
「よぅ、意外と遅かったな。用事があるっていうからすぐに来ると思ったぞ」
絵の下書きが完成するまで間近といったようだ。
彼はこちらに気づくと筆をおく。
「……ちょっと掃除が長引いて。先生、その絵の下書きはもう終わり?」
「そうだな。明日ぐらいからは絵筆で絵具を塗っていく。久々に真面目に絵を描くから、何だか楽しくてな。やはり絵はいい、絵を描く時間が何より楽しい」
「先生の絵、私も好きだよ。本当に、好きなんだ。初めて先生の絵を見た時、衝撃が走ったの。絵に興味もなかった私が、生まれて初めて惹かれた絵が先生の絵だった。興味を抱いて、先生の事が知りたくなった」
真夜の言葉に栄治は不思議そうな顔をする。
「分からないよね、私がどんな思いで先生の傍にいたかなんて」
「何を言ってるんだ、榊原?」
「先生、私は先生に甘えている。それはね、別に誰でも良かったわけじゃない。温もりを求めたいと本気で思える相手、それが先生だっただけ。だから、甘えてきた。先生が私の中で大きな存在だったから……こんな風に仲よくなれる前からずっと」
雰囲気を理解した栄治は黙りこんでしまう。
――これから私が言おうとしている事は、きっと2人の関係を変えるよ。
それはいい意味で、悪い意味で、どちらの意味でかは分からないけど確実に変わる。
ギリギリのところで悩むけど、止めることはできない。
真夜は「真面目に聞いて欲しいの」と栄治に前置きしてから言うのだ。
「私は、高町先生のことを――」
「――やめろ、それ以上は言うな!」
静かに栄治はそう告げると真夜から視線をそらす。
荒々しい態度を見せて、怒るように私に短い言葉で告げる。
「榊原だけは、その言葉を告げて欲しくない」
「私だけ、それって今の関係を壊したくないって先生も思ってくれてたんだ。嬉しいよ、先生。本当に嬉しい。だからこそ、私は言わせて欲しい」
京司が言っていた言葉を思い出す。
――告白は相手の目を見てしなさいって。
真夜は栄治の真正面に向き合い、視線をそらさせない。
栄治は辛そうな、どこか寂しそうな瞳をしている。
「……私は、高町先生の事が好き。大好きなの」
大事な一言を言ってしまった。
もう言わなかった時の関係には戻れない。
好きだ、その短い一言で全てが変わろうとしている。
長い沈黙の後に栄治は私に言った。
「――俺は教師で、お前は生徒だ。榊原の想いを受け止めることはできない」
人生初めての告白は、フラれてしまう結末に終わる。
予想していたとはいえ、実際にフラれると胸に痛みがこみあげて来る。
「やっぱり、ダメ、だよね……ぁっ……ごめん、先生」
意気消沈して肩を落としながら部屋を去ろうとする。
――これ以上は先生の傍にいられないから、いちゃいけないから。
去り際に栄治は悔しそうに唇をかみしめて、
「……何でだよ。お前なら俺の答えが分かっていただろうに」
「どうして、好きって言ったのかって?」
栄治もこの関係に居心地の良さは感じていた。
それゆえに、部屋に来るのも止めなかった。
ただの生徒と教師ではなく、それ以上の関係だと自覚もあった。
だからこそ、告白と言う全てを終わらせてしまう言葉は避けてきたのだ。
「単純なこと、私は先生が好きだから、好きと言っておきたかっただけ。他の子と同じだよ、私も先生が好きで近づいて、好きだから告白した。ずるい真似をしてごめん」
「……そうか」
栄治はそれ以上は何も言わなかった。
後ろを振り向くこともなく、扉をゆっくりと閉める。
――ガンっ!
乱暴に何かを叩く音が室内から聞こえた。
キャンパスが倒れた音も続けざまにする。
「先生……?」
それはやり場のない怒りを発散する音に聞こえた。
「ごめん……ひっく、先生、ごめんね」
部屋をでてから私は急に寂しさが胸を貫いて、涙をこぼす。
「うっ、あぁっ……ぐすっ……」
こみあげてくる涙を止められない。
「フラれたんだ、私……先生にダメだって言われて」
だから、やめておけと彼は言っていたのに。
最後の最後まで栄治が告白を止めてくれた事を思い出しながら、
「もう、先生に甘えることなんてできないんだね」
そう考えると本当に辛くなってくる。
大好きな人の傍にいられないこと。
その痛みが真夜に涙を零させてる。
泣き続けて、誰もいない廊下で静かに嗚咽を漏らす。
「先生、ごめんね……私、関係を壊したくなかったけど、言っちゃった」
拭っても、拭っても、あふれる涙は止まらない。
「好きだって、大好きだって。だって、本当に私は高町先生が好きだったもん」
初恋は失恋した。
一言で始まる関係もあれば、終わる関係もある。
生まれて初めての失恋の痛み。
「うぁあっ、えぐっ……高町先生、せん、せいっ……」
ただ、先生の名前を呼び続ける、誰にも届かない声で呼ぶ。
榊原真夜、17歳の失恋の初体験は想像以上にダメージを与えた。
「これが失恋の痛み、大事なものをなくした痛みなんだ――」