幕間9:触れてはいけない事
家のリビングのソファーに座りながら京司は真面目な顔をしてある雑誌を眺めていた。
「何をしてるのよ」
気になった真心が声をかけると、彼はゆっくりと彼女の顔に視線を向ける。
「何よ?真面目な顔をして」
「俺は常々、思っていたことがあるんだ」
彼は見ていた雑誌を真心に手渡す。
「……え?」
だが、それを見た瞬間に彼女の顔色は不愉快なものに変わる。
「どうして、女性向け下着カタログを見ても興奮しないのだろうか。やはり、グラビアのようにモデルを魅せるわけではなく、下着を見せているからだろうか?」
「知らないわよ、バカ京司!」
その雑誌を彼に投げつけて返す。
京司が見ていたのは下着カタログだった。
「下着姿の女性に興奮できないのは思春期の男にあるまじき行為だ。しかしながら、堂々と見せているモノには俺は興奮できない性質なのかもしれない」
「……知らん」
「着衣プレイと言うのはやはり、チラリズムを男は求めていると思うのだ。ぎりぎり見えそうで見えない。その焦らし感を男は楽しんでいると」
「いい加減にしろっ。妹にそんなよく分からないものを語らないで。大体、なんでアンタが私の雑誌を読んでるのよ?……まさかそっちに目覚めた?」
世の中広いもので、一部の趣味を持つ男性がブラジャーをする時代である。
軽蔑のまなざしを向けられ京司は誤解だとばかりに肩をすくめる。
「まさか。俺は着るよりも脱がせたい人間だ。あのブラを外すときの感覚は例えるのなら、禁断の領域に踏み入るような緊張感。自ら着て楽しむ高度な趣味はないさ」
「その経験談も聞きたくないのだけど。誰の下着を脱がせてきたのよ」
「元カノ達ですが、それが何か?」
自然に返されて彼女は反論の言葉が出てこなかった。
「……この女の敵め」
「下着を脱がした経験があるかと問われて答えただけなのに。そうだ、真心ちゃんもそろそろ新しい下着が欲しくなってきた頃合いだろう?」
「……なぜ?」
不思議がる真心の問いに京司は微笑ましそうに言う。
「真心ちゃんのDカップの胸がレベルアップをしそうだ。ついに夢のEカップだね」
「な、何で知ってるのよ、この変態めっ」
「……妹の成長を傍で見守り続けている兄に分からない事などないんだよ」
「ドヤ顔するな。蹴り飛ばしてやろうかしら」
真心は自分の胸を手で隠すようにして、
「男はそんなことしか考えてないワケ?」
「当然だ。いつだって俺は女の子のおっぱいに興味はある」
「……私は京司を庭に埋めてもいい権利があるわ」
いつもの如く敵視する真心に京司はたしなめるように、
「真心ちゃんはもっとおおらかに心を広く持った方がいい。心に余裕がなければ物事の本質をとらえることもできないよ」
「それが兄から延々と女の子の胸の話をされる事とは別だと思う」
セクハラまがいの言動の数々を許せない真心である。
「ふむ、そこは価値観の違いというものだな」
「……私とアンタは間違いなく永遠に分かり合えない」
「つれないことを言わないでくれ。俺と真心ちゃんは双子、肉体に魂が宿った頃からの付き合いだ。気持ち悪いものを見る目で見るのはやめたまえ」
京司は雑誌をテーブルに置くと、本題に入る。
「何も俺は変態趣味で下着カタログを読んでいたわけではない。実は沙雪に相談されたんだ。なに、彼女もそろそろブラをつけたがる頃合いだからね」
「……待て、ちょっと待て」
「何だい?あぁ、心配しなくても愛しい妹がねだるんだ。初ブラを買ってあげるつもりだよ。胸が大きい真心ちゃんは小5の時くらいからつけ始めていたが、沙雪もそろそろ欲しがると思っていたんだ。うん、俺の見立てに間違いはなかった」
「待ってって言ってるでしょうがっ!」
その肩をゆさゆさと揺さぶりながら真心は京司を制止する。
「……何か?」
「なんで、沙雪がアンタに下着の相談なんてするのよ。ちょっと、沙雪、来なさいっ!」
今度は自室にいる沙雪を呼び出して、注意する。
当の本人である沙雪は不思議そうな顔をしながら、
「最近、胸回りが苦しいから、お兄ちゃんに相談したの。ダメだった?」
「ダメに決まってるでしょ。この変態に相談しても意味なんてないから」
「だって、お兄ちゃんが女の子の胸のお悩みなら相談しなさいって言うんだもん」
「……京司。本気で私を怒らせる気?」
キッと睨みつけてくる、その威圧感にさすがの京司もたじろぐ。
「い、いや、そんなつもりは……」
「お財布、出しなさい」
「どうぞ、です」
危機感を抱き、素直に財布を提供する京司だった。
「沙雪。ブラが欲しいのなら私が選んであげるから。京司のお金で」
沙雪は「ホントに?買ってくれるの?」と嬉しそうに喜ぶ。
「お兄ちゃんの付き添いはいらないかい?」
「いりません!留守番でもしてなさいっ」
真心は京司を叱りつけると、沙雪の手を引いて出かけてしまう。
一人取り残された京司は寂しそうな表情をしながら、
「真心ちゃんはいいお母さんになりそうだ。今はただ、妹の成長を見守るとしよう」
自分が仲間はずれにされたことが少し悲しい京司だった。
翌日、京司は生徒会室で澪の手伝いをしていた。
資料整理を彼女の横でしながら、
「ということが昨日ありまして。兄としては妹の成長を喜んでたわけですよ」
「……私、そんな余計なお世話をする兄はいらないわ」
素っ気ない澪の言葉に京司は残念そうだった。
「俺は女の子のおっぱいを愛しています。女の子のおっぱいには男の夢とロマンがありますからね。俺はおっぱいには意外とうるさいですよ」
「よけいなこだわりなんて、聞いてないんだけど?」
「女の子の胸には3つの楽しみ方があると思うんです。まずは生乳、男にとってはそれは性欲の対象であり、思春期にとってはたまらんものでしょう」
澪は京司の言葉を耳から流しながら作業を続ける。
「2つ目は、胸の谷間。男がつい視線を向けてしまう。これこそ魔力だ。男は視線を逸らせない。もしも、胸の谷間を見たら罰金刑ならば俺は破産しています」
「……京司クンにとっては見慣れたものでしょ」
「そんな俺が憧れてやまないものが3つ目、下乳です。分かります?あの下乳というのだけは巨乳の女の子だけに与えられたサンクチュアリー。神が与えた奇跡です。ローアングルから眺めた時の下乳のインパクトは他の追随を許しません」
京司は下乳について語りだす。
下乳の魅力は奥深く、神秘的なものである。
柔らかそうな膨らみ、凹凸と光の加減、見るものを堕落させる魔の領域。
「水着や下着からはみだした胸、あの独特の隙間の魅力は分かるものだけが分かるのです。下乳の魅力を一度知ったものはその虜になってしまいます」
「貴方の性癖は本当に欲望まみれね」
完全に呆れ返った澪は「変態部長」と呟くしかなかった。
「変態ではありません。自分の欲望に素直だけです。そもそも下乳は巨乳でないとできません。しかも、胸をあえて見せようとしなければできない特別なモノなんです」
「そんな説明は要らないから。手を動かしなさい」
「……澪先輩。ご心配なく。俺は先輩の普通サイズの美乳も好きですよ」
「普通サイズって言わないで。真心ほど大きくないけど小さくもないつもりよ」
彼女は不満そうに訂正を求めて、ファイルで彼の頭を叩く。
「京司クンはホントに昔から変わらないわね。それで女の子になぜ人気なのかしら」
「人は欲望を隠すもの。それを隠さす堂々としている姿こそ、人は惹かれるのでは?」
「それはない。絶対に違うから。貴方のような変態の毒牙にかかる生徒が可哀想よ」
京司と澪の付き合いは長い。
資料をまとめながら、京司はふとデジャブを感じる。
「こうしていると昔を思い出しますね」
「……女好きで変態の男の子と初めて出会った頃の話?」
「堅苦しく真面目ながらも、とても美人で面倒見のよい女の子と出会った話です」
ふたりはかつて、中学時代に生徒会のメンバーだった。
その頃も澪は生徒会長を務めており、当時から問題児だった京司は副会長をしていた。
……そして、2人にとっての因縁もその頃から続いている。
「過去を懐かしむのもいいですが、現実は大変なものです。この資料整理、いつになったら終わるのやら。生徒会は仕事をためすぎですよ」
緊急を要するものではないとはいえ、生徒会の仕事は地味に大変だ。
さらに生徒会の人数も限られているとなると、仕事はたまる一方である。
「……耳の痛い台詞ね。やることに優先順位をつけていれば自然とそうなるの。そもそも、誰かさんの女性問題のせいで風紀委員会から新たなる条例を作れとか言われているのよ。仕事を増やしている人間としての自覚も持ってほしいわ」
嘆く澪に彼は「反省しましょう」と言葉だけの反省をした。
しばらくは黙ってふたりは事務作業に没頭する。
「失礼するよ」
ノックと共に生徒会室に現れたのは学園長だった。
飄々としたいつもの様子の彼は京司の存在に気づくと、
「おや、今日は天海君もいたのか。瀬能さんのお手伝いで?」
「俺は澪先輩の命令には逆らえないんですよ。恋の奴隷なんです」
「気持ち悪いからやめて。……暇そうにしていたので、使ってるだけですよ。それよりも、わざわざ資料を持ってきてくださりありがとうございます」
学園長から資料を受け取り、澪は目を通す。
「キミたち、生徒会には無理をかけているね。毎日、多忙だろう」
「それが仕事ですから」
澪というのは実に優秀な女性だと京司は評価している。
普通の人間ならば彼女と同じ仕事量をこなすことはできない。
「澪先輩は頑張り屋さんですから。そこが彼女の魅力です」
「評価は嬉しいけど、お仕事を増やしてくれてる人に褒められてもね?」
さりげに嫌みを付け加えるのも澪らしい。
「ところで、学園長。質問したいことが?」
「うむ、何だろうか?恋愛指導部についてかな」
「いえ、個人的な趣味の話です。学園長は女性のおっぱいについて、生乳、胸の谷間、下乳と言う選択ならばどれが好みでしょうか?」
真顔で質問する京司に澪は「やめなさい」とシャーペンで手を突っつく。
「……先輩、チクチクと地味に痛いんですが」
「女の子がいる前で軽率な発言をしないでくれる?」
「ご心配なく。ただの雑談です。先輩は作業を続けてください」
京司の問いに学園長は悩むそぶりを見せてから、
「すまないね。あいにくと私は女性の胸にはあまり興味がないんだ。妻が貧乳ということもあるのだろうが、私はもっぱらお尻派なんだ。そちらにはうるさいよ」
「……なんと。学園長はお尻派でしたか。あいにくとそちらの方にはまだ興味がさほどなく、造詣は深くないのですが。良い機会なのでご指導のほどを」
「だ・か・ら、女の子の前で胸やお尻の話をしないでくれる?」
澪がいら立ちを隠さず京司の手をシャーペンで攻撃し続ける。
地味な痛みに耐えながら彼は「申し訳ありません」と謝罪するのだった。
「私も失言だった。こういうことは女性の前でするものではないな」
「当然です。セクシャルハラスメントですよ」
「大げさですよ。澪先輩は心をもっと広く持たれたらどうでしょうか」
「……十分すぎるほどに京司クンに対しては寛容なつもりなのだけど?」
どうしようもなく頭を抱える澪だった。
そんな二人を見つめて学園長はふっと笑みを漏らす。
「キミたちは以前から思っていたが、本当に息が合っているな」
「腐れ縁ですから。付き合いの長さゆえに、彼の扱いも慣れました」
「――私から見ればお似合いのふたりだ。交際していたりするのかい?」
その何気ない発言に生徒会室が静まり返る。
雰囲気が変わった事に学園長は居辛い空気を感じ取る。
「おや……?どうやら私は触れてはいけない事に触れたようだな」
「いえ、そういうわけではありません。私と京司クンはただの腐れ縁ですから。ね?」
「まぁ、先輩がそう言うのならばそうなんでしょう」
澪は明らかに作り笑顔を浮かべ、京司もまた気まずそうな顔をして見せる。
学園長は地雷を踏んだと認識して、それ以上の追及はしなかった。
「話を戻そう。女の子のお尻の話だったかな?お尻と言うのはあの丸みと――」
「そちらには戻さないでください、学園長。セクハラで訴えますよ」
「……ごめんなさい」
冷たい視線を向けられて黙り込むしかない学園長だった。
お似合いで、息の合ったふたりだとしても。
その二人の間にはどうしようもない溝があるのだと認識する。
彼らには触れてはいけないことがあるのだ――。




