第3話:お兄ちゃんと呼べなくて《断章5》
「――みずから苦しむか、もしくは他人を苦しませるか。そのいずれかなしに恋愛というものは存在しない。byレニエ」
夜空は昨日、電話で京司から伝えるように言われた言葉を口にする。
「向き合うことを恐れないで。それが京司先輩からの伝言だよ、松嶋さん」
教室で同じクラスメイトである夜空から夏帆はそう告げられた。
目をぱちくりとさせて驚き以外の言葉を見つけ出せない。
「……先輩がそれを私に言いたかったの?どうして?」
「分かんない。私には先輩の考えてる事はよく理解できないことが多い。だけどね、あの人は常に先を見ているの。人の行動の先を読むのが得意な人なんだ」
「瀬能さんは同じ恋愛指導部だっけ。天海先輩の事、よく知ってるんだ」
「面白い人だよ。他人の恋愛に鋭くて、恋がうまくいくことをいつも考えている」
だからこそ、その言葉が重い。
夏帆は以前のもう一つの言葉も思い出す。
『その関係にこだわるのはもうやめるんだ。兄と妹、その関係を捨てるしかない』
――向き合う事を恐れるな。先輩が私に何をしろって言ってるのか、分かったよ。
恋をすることは傷つくことでもある。
夏帆は雅之に拒絶されたことが辛かった。
しかし、彼もまた苦しんでいる事に気づいてたのだ。
その原因がはあの夜の出来事しかない。
「解放してあげるしかないんだ。私だけができることはひとつだけ」
大好きだった兄には、夏帆にとって二つの意味を持っていた。
幼い頃から可愛がってくれていた“お兄ちゃん”としての雅之。
そして、異性として好きで好きでたまらなくなっていた“男の子”としての雅之。
夏帆は無くしてしまったその二つを再び手にしようと行動していた。
だけど、世の中はうまくはいかない。
「二者択一。私が選ばなきゃいけないんだね。どちらかを捨て、どちらかを得るために」
「頑張って、としか私は言えないけど。松嶋さんが後悔しない方を選んで」
「ありがとう、瀬能さん。私、やってみるよ」
行動の結果、何もかも関係が終わってしまうかもしれない。
――今日でダメならお兄ちゃんのことを諦めるっ。
夏帆の最後の決意、もう一度だけ彼に会うことを決めたのだった。
再び、特進に赴いて、彼女は伊織に雅之への伝言を頼んだ。
放課後、あいにくの曇り空の下で待っていると屋上の扉が開いた。
雅之は「夏帆」と名を呼んでこちらにやってくる。
「よかった、来てくれたんだ?来てくれて、ありがとう」
夏帆はその雅之の顔色が悪い事に気づく。
目の下にはクマのようなものができており、顔色も悪く覇気もない。
「天海京司。アイツに相談したのか?」
「天海先輩?うん、少しだけ。相談って言っても、アドバイス程度をもらっただけ」
「……そうなのか。あんまりアイツと関わるな。学内での評価はよくない奴だ」
京司の話を聞いて、夏帆にとってはある想いを抱かせるきっかけになった。
『兄と妹。その関係にこだわるか、そのこだわりを捨てるか。関係をどうしたいのか、どうなりたいのか。大切なのはキミの気持ちだ』
彼の事が兄としても好きだった、その過去との決別。
「雅之さん。私ね、間違ってたんだ」
「何を、だ?」
「私はずっと兄妹の関係にこだわっていた。義理の兄妹だったあの日々が幸せだった。もうとっくの昔に壊れちゃったのに、まだ関係にこだわり続けてたのは“お兄ちゃん”との絆が欲しかったからなの。嫌われたかったわけじゃない」
完全な赤の他人になってしまう事が怖かった。
そうなりたくないから、終わった兄と妹の関係をしつこく続けようとした。
「私、雅之さんが好きだよ。今もずっと、大好き。もう1度会いたいから、追いかけるようにこの高校にも入学したんだ。そして、やっと会えた」
ようやく再会できたこと、それすらも否定されるのは辛い。
『もう、俺はお前の兄じゃない』
その一言は拒絶そのものなのに、どこか彼も無理をしているように思えた。
『恋って言うのは単純じゃない。時に自分の想いとは違う正反対の行動をしてしまうことがある。ほら、よく子供の頃に好きな子いじめとかあったでしょ』
京司が夏帆にくれたアドバイス。
『大事なのは本当に相手が言いたい事は何かを考える事なんだ』
――彼の真意を知れ、ということ、だよね。
自分達はあの日以来、ちゃんと向き合う事を避け続けていたのだ。
もう逃げるわけにはいかない、ここで終わらせたくないのならば――。
「……俺はもう夏帆に会うつもりはなかった」
「妹じゃないから?血の繋がりのない私はもうただの他人で、妹じゃないから?」
「そうだ、お前はもう俺の妹じゃない」
「分かった。それじゃ、妹でいることは諦めるよ」
夏帆も決断をしていた。
どちらかを捨て、どちらかを得るために。
「私、バカだったから。お兄ちゃんって呼んでたら、いつでもあの頃みたいに戻れるんだって信じてた。違うんだよね。雅之さんが、苦しい顔をするのに気付いてなかったの。私がそう呼ぶことが雅之さんを苦しめてたんだよね?」
言葉を詰まらせながらも、夏帆は勇気を振り絞って。
「あの夜のせいだよね、お兄ちゃんが許せないのは……」
「……夏帆っ」
「兄が妹に手を出した。それはタブーだから。それが許せなかったんでしょ?自分の行動が許せないから、もう私と会いたくなかったんだ」
夏帆もあえて見ないようにした、自分たちの現実がある。
兄と妹が関係を踏み越えた、愛情を抱いてしまったタブー。
彼女にとっては好きな人と結ばれた行為だった。
義理の兄妹とはいえ、超えてはいけない線を越えたのは事実なのだ。
それは真面目な雅之にとって、禁忌を破った行為をしたと言う事実として苦しめていた。
「夏帆の言う通りだ。両親の離婚で離ればなれになったことにホッとする自分もいた。これ以上、可愛い妹を欲情した目で見ないで済むんだって……バカだよな」
雅之はそっと頭を下げる。
「すまない、夏帆。俺はお前を傷つけた。自分勝手に過去をなかったことにしようとした。お前を愛した過去すらも、封じ込めようとしたから」
「……雅之さんは私が嫌い?」
「そんなわけないだろ」
「よかった。……だからこそ、苦しんだよね」
そっと夏帆は疲れ切った雅之の顔を触れる。
その頬に手を差し伸べると、
「このまま、終わっちゃうのかなって正直考えてたの。もう赤の他人として、雅之さんは私と触れ合う事もないのかなと思ったらすごく寂しかった」
「俺は弱いから。自分を守ることでいっぱいだった。本当にしなきゃいけないことがあったのに。お前に何もしてやれなかった。このまま離れてしまった方が楽になれる」
見たくない現実から目を背けるのは一番簡単な方法である。
「私達、もう会わない方がいいのかな?それが幸せになれる方法なのかな」
人生において、あの時こうしていればというのはよくある。
後悔しない選択を選び続けることなど不可能だ。
いつだって、どこかで悔いる事もある。
だけど、その悔いる行為を、あの時、ああして良かったんだと思いなおせる機会はくる。
「……違うよ。私、こうしてまた雅之さんにあえてホントによかった」
夏帆が選んだのは未来への一歩。
「兄妹の関係に戻れるかもしれない。私、ずっとそう信じてきたけど、ダメなんだね。私は選ばなくちゃいけないの。この関係を終わらせて、次に進むために」
「次にってどういう意味だよ」
「妹としての関係は終わり。私は貴方を兄としてじゃなく、男の子として好きになる。だから、雅之さんも私を拒絶しないで。妹としてじゃなくて、女の子としてみてよ。私達は変われる、変わっていけるから」
――兄と妹、男と女……どちらも得たかったけど、無理だった。
だからこそ、夏帆は一番望んだ方を選んだのだ。
「白鐘学園、新入生の松嶋夏帆として。私を愛して欲しいから」
これまでの長年築き上げてきた関係を捨てるということ。
――捨てる、違うね。もう終わってたんだ、兄と妹の関係は。
夏帆の決断に雅之は困惑していた。
「俺は、どうすればいいのか、分からない」
彼女を“妹”として愛してしまった過去がある。
今さら、“女”として愛する事で全てをなかったことにしていいのか。
「雅之さんも決めてよ。私のことを受け止めて」
「……これだけは言える。俺はお前を手放したくはないんだ」
彼が差し出した手をそっと夏帆を握り締める。
「ありがと……まだ私達には時間がかかるかもしれない」
心の整理をすることも、関係を変えていくことも、どちらも時間は必要だ。
それでも、ここで終わりと言う選択肢だけは選ばなかったのだから。
「まだ、これからだよ。私達、ここから始めて行けるはずだから」
何もかもがうまくいくとは言い切れない。
それでも、彼らは自分達の未来を信じて、歩み始めたのだった。
しばらくして、夏帆と雅之は昼休憩は一緒に食事をする関係になっていた。
夏帆は最近は頑張って手作りの弁当を作ってきたりしている。
その距離感は少しずつ縮まってはいるものの、恋人という関係までは至っていない。
ただ、ふたりとしても傍にいるだけで心は満たされる。
「ねぇ、雅之さん。今度、ふたりで遊びに行かない?」
「遊びにか。夏帆はどこに行きたいんだ?」
「それは……もうすぐ、夏だからプールとかはどう?」
「いいね。俺が連れて行ってやるよ」
彼が夏帆の頭を撫でながらそう言った。
「うんっ。楽しみにしてるね」
笑顔で頷いて答えて見せる。
――私はまだ恋人になる事を諦めたわけじゃない。
今の関係は兄妹でもなければ恋人でもない、ただの男女の関係だ。
――いずれまた恋人になるチャンスがくるかもしれない。
これから先は長い、新しいきっかけが生まれることもあるはず。
夏帆はその日が来るのを待ち続けたい。
――雅之さんだってきっと、そう思ってくれているはずだから。
今はこうしてふたりで一緒にいられる事が幸せなのだ。
――ゆっくりと、私達の関係を変えていきたいな。
何も変わらないものなんてない、と信じて……。
……。
その様子を遠目に見つめていた京司は小さく笑う。
「最悪の方向は回避できたようだね?」
「……元兄妹として彼女達はこれから親密な関係になれるのかしら」
隣で様子を見守っていた真心はそう呟く。
「それこそ、彼らの行動次第さ。彼らの関係は本当の意味で、兄妹ではなくなった」
「落としどころとしてはこれが最善だったと?」
「……瀬戸は自分の犯した罪から目を背けたくてしょうがないんだ。本当ならもう二度と会わない方がいいとさえ思ってたんじゃないかな」
何もかも終わらせる、その可能性も実際には高かった。
「だけど、彼女の言葉を受けて、向き合うことを選んだ。それだけでも進歩だよ。ここから先が大変なんだ。他人が考えてるよりもずっと難しい」
「向き合うこと……アンタも誰から逃げてる?」
さりげない言葉だったが、京司は「痛い所をついてくる」と苦笑い。
「今回みたいな経験が俺にもあるんだよね。他人には厳しいことを言えても、自分はできるのかと言われたら困ってしまう。俺は自分に甘いからさ」
「アンタはいつか女の子に後ろから刺されるわ」
「そういう類の終わり方なら納得できるからよし」
「よしじゃないっ!?この女の敵めっ」
真心は悪態をつきながらも、そんな兄の姿を意外に感じていた。
――こいつでも、こんな顔をするんだ。
それは過去に悩み苦しむ雅之とどこか似た表情だったから。
「はぁ。アンタのことはおいといて、あの子達が幸せになれたらいいわね」
「もしも、また困ったことがあれば俺達、恋愛指導部を訪ねてくれればいい」
「その時は、今度こそ、恋愛指導部として相談にのってあげるんでしょ」
「もちろんさ。俺達は恋する女の子の味方だから。……お兄ちゃんと呼べなくて、か。真心ちゃんも俺をそろそろお兄ちゃんと呼んでくれてもいいんだよ。さぁ、愛をこめて」
真心は呆れ切った表情をしながら、青い空を見つめて、
「誰が呼んでやるものですか、バカ京司」
と、微笑しながら彼に言葉を投げつけるのだった。




