第3話:お兄ちゃんと呼べなくて《断章4》
封じ込めていたはずの過去が暴露される。
「何でお前が知ってるんだよ!」
怒りに任せて雅之は京司の襟首に掴みかかっていた。
そこにはバレてはいけない秘密が他人に知られて事に動揺しているようにも見える。
「さぁ、どうしてだろう?考えてみればいい。シンキングタイムだ」
この状況に京司は一切の動揺も戸惑いもなく。
彼に掴まれたまま、いつもの口調で問いかける。
「考えれば分かるはずだ。答えは単純、誰にでも分かるだろ?」
「……それは」
「簡単な話じゃないか。当事者はふたり、元義妹の夏帆ちゃんだよ」
「嘘だ、夏帆がお前に話したって言うのか!」
義理の兄と一線を越えた事実。
それを夏帆の口から話すとは到底思えない。
「天海京司、お前は……」
「怖い顔だねぇ。俺は女好きだから、野郎に睨まれるのは苦手だ」
彼は自らの手で雅之の掴みかかる手を離す。
余裕のある京司がさらに彼の怒りをあおる。
「なるほど、恋愛相談か。恋愛指導部、お前たちが動いてるのか」
「それは勘違い。残念ながら、今回は恋愛指導部として活動をしていない。今日の俺は通りすがりの先輩として、彼女の相談にのってあげた。それだけさ」
「何だ、それは。戯言をほざくな」
雅之は「何が相談だ」と苛立ちを隠さない。
恋愛相談、そんなもので彼らの秘密が明かされるなどあってはならない。
あの甘い行為がもたらしたのは、幸福などではなかったのだから。
「……愛した女を幸せにできない奴が戯言とはこれいかに」
京司は嫌味っぽく肩をすくめて見せる。
「お前に俺の何が分かるって言うんだよ」
「瀬戸と言う人間の事実を一つだけ教えてやろうか?義妹の色気に負けて手を出した鬼畜な兄だ。どうしようもないよな。義妹を性の対象としてみてしまったんだろ?」
反論の余地もない。
それが雅之という男の過去の事実だ。
「あははっ。お兄ちゃんという立場を利用して、義妹を襲っちゃいました。てへっ」
京司はわざとらしい口調で雅之を追い込む。
「京司、貴様ってやつはどこまで」
「現実を認めろよ。瀬戸、お前は自分の行動から目をそらしている」
真面目な顔をして、京司は雅之に言い放つ。
「俺は瀬戸に恋愛指導するつもりはない。それを望まないだろう。ただ、義妹とはいえ、女の子に手を出したなら責任は取るべきだと俺は思う」
「……お前に責任って言葉が言えるのか」
「確かにねぇ。だけど、男はいざと言う時こそ逃げちゃいけない。自分が愛した女を幸せにする責務がある。そこから逃げるやつは男じゃない」
京司はそう断言すると、背を向けて振り向く。
「……これから瀬戸は自らの行いを悔いる事になる。どうしようもない罪悪感に苦しむだろう。それがお前の罪だ。あの子を泣かせた罪だから」
その京司の言葉が胸に突き刺さる。
「くくっ、思う存分に苦しみたまえ。それが自分の行動の結果だよ、瀬戸雅之クン」
普段の彼とは違う、それは京司が覗かせた冷酷とも思える一面だった。
「……後悔、罪悪感だと?」
京司の残した言葉。
雅之にとって、苦悩の日々の始まりだった。
……。
屋上を出ようとすると、扉の向こうに少女がひとり様子をのぞいてた。
京司と視線が合うと気まずそうに、
「……み、見てたわけじゃ」
「おやおや。真心ちゃんもお兄ちゃんが気になる年頃なのか」
「やめてよ。変な事を言わないで」
真心はふと、京司の頬が赤く腫れているのに気付く。
掴みかかられたときに手が当たったようだ。
「頬、赤くなってる」
「キスしてくれたら治るかも?」
「夜空さんに頼みなさい」
冷たい反応の妹に京司は口元に笑みを浮かべる。
「それは後でお願いする事にしよう。移動しようか」
京司たちは下の階に降りると、手洗い場で真心がハンカチを水で濡らす。
そのまま赤くなった頬に冷たいハンカチを押し当てる。
「真心ちゃんの優しさが俺の傷を癒してくれる」
「……うるさい」
「照れ隠しだねぇ。どうしてここに?」
「伊織君から聞いたのよ。何か恋愛指導部が動きそうな問題が起きてるって。そうしたら、瀬戸君とアンタが言い争って……こんなの初めてでしょ」
恋愛指導部として行動していれば、こんな真似をすることもなかった。
京司は相手に対して挑発的な事を取ることもない。
「今回は恋愛指導部とは無関係なんだよ。ただのおせっかいだ」
「……無関係?アンタが言うか」
「時にはそういう事もある。正式な依頼でもないから、ただのボランティアさ。これこそ、余計なおせっかい。他人の恋愛に首を突っ込むなんていけない行為なのにね」
彼はそっと壁にもたれかかりながら、
「真心ちゃん。キミはどう思った?ある程度は事情を把握してるんだろ」
「夏帆と言う女の子と瀬戸君が元々は兄妹だって事でしょ。それなのに恋心を抱いて、でも、瀬戸君が拒絶した。分かってるのはそれくらいよ」
「真心ちゃんはまだ恋愛をした事がない。それでも、こうして人々の恋愛を見て接しているといろんな恋愛の形があるのが分かってきただろう?」
恋愛指導部の活動を通して真心は恋とは何かを考えている。
恋とは問題も答えもひとつではない。
複雑な人間関係、正解はひとつではない。
「まぁね。人は色んな恋愛をしている、辛い事も楽しい事もいろいろあるのは分かってるつもり。それが何だって言うの?」
「恋愛の形はひとつじゃない。世の中には“ハッピーエンド”じゃない恋愛もあるんだ」
この恋は失敗する、そう言ってるように聞こえた。
「あの時みたいに失恋から始まるものがある?」
「いや、完全なる失恋だ。彼らの恋はもう終わってる。壊れて、砕けて、どうしようもなくなるだろうね。あとは互いを傷つけあい、嫌いになることしかできない」
冷たい言葉に真心は驚くしかなくて。
「嘘でしょ。夏帆さんの恋愛、どうしても失敗するっていう結末しかないの?他に何かしてあげられることは?このまま終わらせてもいいの?」
「……ないね。今のままだと確実に破滅だ。彼らは今、二つの悩みを抱えている。一つはお互いの想い。もうひとつは、兄妹の関係だ。それを解決できたとしても、現在のままじゃどうしようもない。終わりは避けられないね」
「何とかしなさい。アンタなら何かしてあげられるんでしょ」
「無理じゃないかな。あの子達は幸せになれない。兄妹であると言う関係に縛られてしまっているんだから。どうしようもないことはあるよ」
京司としても意地悪で言っているわけではなかった。
「どうして、真心ちゃんがそこまで頼み込むんだい。瀬戸が同じ特進だから?」
「違うわ。私は……私はただ、彼らが可哀想なだけ。同情してるだけよ」
「同情か。この世の中、うまくいかない恋愛なんて山ほどあるんだ。そんなものに同情してたらキリがない。俺は全ての恋する子達の味方ではないよ」
「だったら、どうしてアンタは夏帆さんの恋愛相談にのったのよ。正式な依頼じゃないけど、アンタなりに何とかしてあげたかったんじゃないの?」
京司に詰め寄る真心は、その襟首を軽くつかんで言った。
普段は軽蔑する双子の兄を彼女なりに信頼していることがある。
恋愛相談における一点のみ、揺るぎない信頼があるのだ。
「この学園内のすべての恋愛を解決するなんて無理なのは分かってるけど、関わってしまったなら、見過ごせない。あの子たちの恋を終わらせないであげて。お願いよ」
「……まったく、真心ちゃんは優しいなぁ。いいよ、他でもない真心ちゃんの願いだ。そうだね、バッドエンドくらいは回避できるようにはしてみようか」
彼は黙り込んでしばらくの間、考える素振りを見せる。
やがて、彼は携帯電話を取り出して、ある相手に電話をする。
「こんにちは、夜空ちゃん。俺だよ、京司だ。うん、少しだけ手伝いを頼みたい」
電話をする京司に真心は「どうするのよ?」と不思議そうな顔をしている。
「この問題の解決策はひとつしかない。瀬戸や夏帆ちゃんがせめて、悔いのない選択をしてくれることを祈ろう。俺達にはただ祈ることしかできないさ」
元義理の兄妹の恋愛はどういう結末を迎えるのだろうか――?
……。
雅之は悪夢にうなされていた。
『私のお兄ちゃんは世界でただひとり、雅之お兄ちゃんだけなの。他人行儀な真似をしないで。私を拒まないで……。私、お兄ちゃんにまで見捨てられたらひとりになっちゃうよ。一人は嫌なのっ』
夏帆の想いを知ったあの日の出来事。
『私はお兄ちゃんに会いたかっただけなの。困らせつもりも、怒らせるつもりもなかったのに……本当に……ひっく、ごめん……なさいっ……』
当時の彼女の成績を考えればこの学校に入るにはかなり苦労したはず。
それでも彼女は雅之に会いに来てくれた。
「兄でもなくただの他人となったはずの俺に、会いたいって……」
そんな夏帆にしたのは完全なる拒絶。
なんてひどい奴なんだろうか、と自分で自分が嫌になる。
「俺は夏帆が好きだ、愛している」
それゆえに、あの子に近づくのを恐れていた。
また昔のように彼女と接すること。
既に兄妹じゃなくて、誰かに咎められる関係ではないというのに。
己の行動の結果が、自分自身も苦しめる。
夏帆の泣き顔、泣き声、涙の雫さえも脳裏に焼き付いて離れない。
『お兄ちゃんが好き……私、お兄ちゃんが好きだよ』
あの夜の夏帆の言葉を思い出すと、雅之は胸の内側からえぐられる気持ちになる。
愛していた、一線を越えて幸せになりたいと思った。
「それがどうしてこうなった、どこで間違えたんだ」
自らの勇気がなかった、たったそれだけのことだったはずなのに。
義妹である夏帆に手を出したことが、彼の中で何かを狂わせたのだ。
兄と妹、あの関係に亀裂を生じさせた。
『瀬戸と言う人間の事実を一つだけ教えてやろうか?義妹の色気に負けて手を出した鬼畜な兄だ。どうしようもないよな。義妹を性の対象としてみてしまったんだろ?』
――やめろ、やめてくれ。自分の欲望なんて見たくもない。
思い浮かぶのは、可愛い笑顔で笑う夏帆の顔ばかり。
「あぁ、そうさ。俺はあの子に取り返しのつかないことをした」
今はもう泣き顔しか浮かべてくれない、記憶の中でしか彼女は笑わない。
夏帆を泣かせているのは自分だ。
「あの子に欲情して、手を出して……その結果を後悔している」
どうしようもない、愚かな自分のせいなのだ、と嘆き続ける。
「俺は……あの子のお兄ちゃんでいたかったんだ」
雅之が夏帆に求めていたのは“女”ではなく“妹”――。
「だからこそ、兄でありながら、妹に欲情する自分が許せなかった」
信頼を裏切り、欲情に負けた結果、彼は“妹”としての彼女に手を出してしまった。
自分の見たくない過去を封じ込めるために、夏帆を拒絶していた。
「あの子を拒絶する事で、無かったことにしようとしている自分が許せない」
最低で、どうしようもない自分の愚かしさに心が痛む。
「夏帆のためを考えられない。俺は……これ以上、何を守ろうとしている?」
自分のプライド、エリートの特進に在籍しながら、その裏で人には言えない過去を持つ。
妹に手を出した兄、その事実は消えることはない。
「このまま、終わりにしてしまえれば……」
何もかもが終わってしまえば楽になれる。
悩み苦しむ事もなくなる、忘れてしまう事が唯一の救いだ。
それは瀬戸雅之にとっての救いであり、松嶋夏帆にとっての悪夢である。
彼は眠りにつくこともできず、自らの行いの報いを受ける。
「俺はどこで間違えた。俺達はどうすればよかったんだ」
どうすることもできない苦しみが雅之を襲い続けていた。




