第3話:お兄ちゃんと呼べなくて《断章3》
「大好きだったんです、お兄ちゃんが男の人として好きだったんですよ」
廊下の窓から外を眺めながら、夏帆は弱々しい声で京司にそう言った。
「義理の兄妹って言うのは漫画のように、恋が芽生えやすいのかな」
「分かりません。ただ、私達はそうでした。お互いに好きだって気持ちを確かに抱いてたんです。お兄ちゃんだって私を好きだと思ってたのに」
夏帆と雅之は確かに愛し合うような関係だった。
お互いにその自覚を持ち、それでもいいとさえ思っていた。
離婚の話がなければ兄妹でありながらも、付き合っていたかもしれない
恋愛関係にまで踏み込んでいたのは時間の問題だったのだ。
「義理の兄妹の恋愛はありふれたシチュだけども、実際は勇気のいる行動だ。兄妹は兄妹、世間は認めてなどくれなかったかもしれない」
「はい。それでも、私は前に進みたかったんです。お兄ちゃんに好きだって言ってほしかった。私を愛してくれている、その言葉が欲しかったのに……」
落ち込む夏帆は辛い胸の内を明かす。
雅之は傷つける言葉を告げて、夏帆と距離を取ろうとした。
その理由が分からない以上、また近づく気にもなれない。
これ以上は嫌われたくなかった。
「夏帆ちゃん。恋愛って何だと思う?」
「え?恋愛ですか?好きな人同士が結ばれ合う、幸せになれる事じゃないですか」
「うん。それが一番なことだ。だけど、結ばれ合う人間が必ずしも幸せになるとは限らない。どんな恋にもハッピーエンドを迎えるのは意外に難しいんだよ」
京司はそっと励ますように彼女の肩に手を触れて、
「――恋にとどめを刺すあらゆる手段の中で、最も確かなのはその恋を満足させることである。byマリヴォー」
「恋を満足させること?」
「どんな形であれ、キミは彼の傍にいる事が幸せなんだろう?」
「はい……私はお兄ちゃんの傍にいたいんです。お兄ちゃんが好きだから」
複雑そうな表情を見せた京司は彼女にアドバイスをする。
それは恋愛指導部としてではなく、ただの恋の相談をする先輩としての言葉。
「その関係にこだわるのはもうやめるんだ。兄と妹、その関係を捨てるしかない」
夏帆が思わず黙り込んでしまうほどに厳しい言葉だった。
……。
雅之にとって忘れらない存在が夏帆だった。。
いつだって甘えてくる、可愛らしい義妹。
『お兄ちゃん、大好きっ♪』
可愛くて、大好きだった義妹の夏帆。
彼女を一言で表すなら子犬だった。
素直に甘えてくれると嬉しかった。
彼女と兄妹だった8年間はとても幸せな時間だったのだ。
『私ね、お兄ちゃんと一緒にもっといたいなぁ』
これはきっと神様が与えてくれた幸せな日々。
ずっとこんな時間が続くのだと思い込んでいた。
けれど、現実はただの兄と妹ではいさせてくれない。
成長と共に彼女に“異性”の感情を抱きはじめていた。
日々、女の子から女らしくなっていく夏帆の身体。
いつまでも無邪気な子供じゃないのだと思い知らされて行く。
――そして、俺自身の気持ちも……変わったんだよな。
気がつけば妹の夏帆に強い愛情を抱いていたのだ。
高校生になってからは余計に強い思いが込み上げてくる。
夏帆が可愛過ぎて、自分の気持ちを抑えられなくなり始めていた。
身近な異性に“性”を感じてしまうのは仕方なのない事だったのかもしれない。
それでも、踏み入れてはいけない所へと進もうとしていた。
それは両親の不在の夜のことだった。
いつものようにソファーに寝そべりながら、テレビを見ていた。
「……今日はお母さんたち、遅いの?」
「泊りで旅行だってさ。最近、そう言うの多いよな」
「うん。仲がいいんだね、えへへっ」
「まったく、ホント、歳の割に仲がいいよな」
……嘘だった。
夏帆はどうか知らないが、雅之は薄々は両親の不仲に気づいてたのだ。
今回の泊りがけの旅行は離婚を話し合うための時間だという事も。
それは彼らの愛が既に終わっている事を意味していた。
だが、それは両親の問題では終わらない。
雅之と夏帆の関係にも必ず影響を与える。
両親が離婚すれば必然的に離れ離れになる。
「……お兄ちゃん?テレビ、面白くない?チャンネル変えようか?」
「うーん。そうだな。そういや、今日の夜は確か心霊系のスペシャルが……」
「い、嫌~っ。怖いのは嫌なの~っ。お兄ちゃんの意地悪ぅ」
「ははっ。ごめん、ごめん……」
頬を膨らませて抗議をする夏帆が抱き付いてくる。
家族が離れる、それは夏帆との別れを意味している。
雅之にはそれに耐えられなかった。
「ん?お兄ちゃん?」
ソファーに寝そべる妹に近づいた。
無垢な瞳、薄桃色の唇から視線をそらせない。
「夏帆って本当に可愛くなったよな」
「え?え?あ、ありがとう。お兄ちゃんが褒めてくれるの、嬉しいな」
無邪気な微笑に心が突き動かせる。
制止する心の葛藤はもう抑えられなかった。
――この子を失いたくない、どうせ失うくらいならば。
理性と言う名のストッパーが外れようとしていた。
「……夏帆は本当に可愛いよ」
そのまま彼女においかぶさるような格好を取る。
「お兄ちゃん……?」
夏帆は不思議そうな表情を雅之に見せていた。
「お前は可愛過ぎるんだよ、夏帆。離したくない、離せるわけがない」
強く夏帆を抱きしめる。
押し倒すつもりはなかった、ただ抱きしめたかっただけなのに。
腕の中におさまる小柄な彼女の身体。
「……お兄ちゃん」
黙り込んでしまう夏帆。
……だけど、夏帆は雅之を軽蔑する事もなく、拒絶すらしなかった。
「お兄ちゃんの身体って温かいね」
彼女は少し頬を赤らめながら笑っていた。
「お兄ちゃんにぎゅってされるの、私は好きだよ」
「夏帆、俺は――」
そんな純粋な意味じゃないんだ、と告げるはずの唇がふさがれていた。
「……んぅっ……ゅっ……」
夏帆が何度も俺にキスをしてくる。
「おにい……ちゃん……ぁっ……」
妹の方から雅之を唇を求めてくるとは思っていなかった。
動揺する彼を夏帆は甘い声で想いを告げてくる。
「お兄ちゃん、私ね……お兄ちゃんが……」
重なりあう唇の誘惑を打ち払う。
「……ダメだ、夏帆……俺からしたことだけど、やっぱりダメなんだ」
身体を引き離そうとする雅之を彼女は寂しそうな瞳で見つめている。
「どうして?いいじゃない、前に進もうよ」
「……夏帆?」
「私だってもう子供じゃないよ。これから先の意味も分かってるんだから」
例え義理の兄妹とはいえ、越えてはいけない一線がある。
「お兄ちゃんとならいいよ?私、何も怖く何てない」
瞳をゆっくりとつむる義妹に、抵抗する気持ちはもうなかった。
再び彼女を押し倒して、今度は自分から彼女にキスをする。
「お兄ちゃん……んぅ、あぁっ……おにい、ちゃん――」
甘く喘ぐ夏帆の声。
「お兄ちゃん、私ね……お兄ちゃんのこと、好きだよ」
その夜、彼らは超えてはいけない一線を越えてしまったのだ――。
それから程なくして両親は離婚、夏帆とも離れ離れとなってしまった。
兄妹の関係を超えた事実を誰にも話す事のないままに。
お互いですらあの夜の事を思い返して話し合うことはなかった。
一夜だけの夢、幻のような時間。
全てが終わった事だと心の整理をつけ始めていた。
そんな時に彼女は再び雅之の前に現れたのだ。
『久しぶりだね、お兄ちゃん』
会ってはいけなかった。
この心の奥底に湧きあがる感情を抑え込む術を知らない。
我慢などできるはずもなく、きっと今度こそ、もっと深く傷つけてしまう。
そうなる前にこの思いは断ち切らなくてはいけない。
「……俺はもうお前の兄じゃない。兄じゃないんだ」
誰もいない屋上で雅之はやり場のない怒りと悲しみに苦しんでいた。
愛している女にもう自分に近づくなと告げる事がどれだけ辛いものか。
どれほどその屋上でうなだれていただろうか。
「お兄ちゃん、か。いいねぇ、兄妹の間に芽生える恋愛感情。禁断の愛、美しき理想の恋がそこにはある。実にすばらしいことだと俺は思うよ」
突然の声に振り向くと、彼の前に現れたのは京司だった。
京司と言う男を雅之は心底嫌っている。
「……天海京司?何をしにやってきた」
軽い口調の京司が雅之は何よりも嫌いだった。
双子の妹がおり、女に囲まれて何の苦痛のない充実した日々を過ごしている。
真心と軽口を言い合う兄妹の関係。
否応なく思い出してしまうのは、自分と夏帆の関係。
嫉妬に似た感情、それは雅之にとっても見たくない現実でもあった。
「やぁ、瀬戸。こうして話し合うのはいつぶりだ?」
「お前の顔を見るのもこっちは嫌なんだがな。ハーレム野郎」
「あはは。それは違うね。キミが俺を嫌いなのは単純な嫉妬さ。真心ちゃんと仲良くしている俺が気に入らない。かつて妹がいたキミに、嫌でも過去を思い出させるからだ」
「お前……一体何を!?」
全てを見透かすような物言いに本気で雅之は驚いた。
「気づいてましたよ、それくらいは。俺は他人の悪意には敏感でね。そして、いろいろと調べるのも得意なんだ。可愛い妹じゃないか。あと数年すれば間違いなく誰もが振り向く美少女に成長するよ、“夏帆ちゃん”」
「くっ、夏帆の名前だと?お前に何が分かる。アイツの事を口にするな!」
声を荒げる雅之は京司を睨みつける。
「それなのに、ひどいな。もうお兄ちゃんと呼ばないで?俺は自分の妹にそんな台詞は死んでも吐かない。大好きな妹ならばなおさらさ」
「俺と夏帆は既に兄妹と言う関係ではない。血も繋がっていないからただの元義兄妹、今は他人だよ。それをいつまでも……」
「妹ではなく他人ねぇ?どの口がそれを言うんだ、瀬戸?」
京司は呆れた様子で両腕を組みながら、ため息をついて。
「――初恋の魅力はこの恋がいつかは終わるという事を知らない。byディズレーリー」
「お前、何を?」
「――短い不在は恋を活気づけるが、長い不在は恋をほろぼす。byミラボー」
戸惑いの表情を浮かべる雅之に対して恋愛格言を告げ続ける。
「――愛する人と共に過ごした数時間、数日もしくは数年を経験しない人は、幸福とはいかなるものであるかを知らない。byスタンダール」
京司はそう迫りながら雅之をフェンス際まで追い込んだ。
その瞳には怒りに似た何かが見え隠れする。
「瀬戸は自らの気持ちに嘘をつき続けている。それが彼女を苦しめている」
「何だと……?」
「妹が可愛くて仕方がないんだろ?キミたちは既に戸籍上は兄妹ですらない。血の繋がりもないただの異性同士だ。……そして、超えるべき一線さえも超えている」
「だ、黙れ!黙れよ、天海京司っ!」
知られてはいけない事実を他人に知られた。
そのことが雅之の怒りに火をつけた――。




