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第3話:お兄ちゃんと呼べなくて《断章2》

「俺はもうお前の兄じゃない」


 初夏の太陽が眩しい屋上で雅之は夏帆にためらいもなく告げた。

 怒りも悲しみ何もない、無感情で淡々としたその口調。

 夏帆は最初、何て言われたのか分からなかった。


――大好きなお兄ちゃん。ずっと会いたくて、仕方がなかったのに。


 それは裏切られた気持ち。


「な、なんで、そう言う事を言うの?」

「それが現実だろ、夏帆?親が離婚して、俺達は再び他人になった」

「他人じゃないよ。私にとって今でもお兄ちゃんはお兄ちゃんだもんっ!」


 子供の頃から夏帆にとっての兄は雅之だ。

 その過去は変わらない、関係なんてそんな事を言われても困るしかない。


「……夏帆、どうしてこの学校を選んだ?俺は言ったはずだ、この学校はやめろ、と」

「私はバカだよ。でも、一生懸命勉強して頑張ったの。お兄ちゃんに会いたかったから、頑張ったんだよ?それなのに……どうして、寂しい事を言うの」


 雅之は相変わらず夏帆を冷たい目で見続けている。

 そんな瞳を向ける人間ではなかったはずだ。

 雅之はずっと優しく、見守ってくれていたはずだった。

 彼に甘える事が幸せで、夏帆にとっての幸せな日常だったのに。

 どうしてこんなことになったのか、彼女には理解ができなかった。


「私はお兄ちゃんにただ褒めて欲しかっただけなのに……。この学校に入学できたこと、褒めて欲しかった。それなのに、どうしてこんな形で私を拒絶するの?私、お兄ちゃんに嫌われるような事をした?」


 少なくとも親の離婚後の間際に、我が侭を言った覚えはない。


――戸籍の関係上は他人に戻ったのは事実だけど、こんな風に冷たくされるなんて。


 夏帆は込み上げてくる涙が抑えられない。


「ひくっ、お兄ちゃんは……私になんかに会いたくなかったんだ?」


 涙を瞳に浮かべながら夏帆は彼に想いをぶつける。


――会いたいって言うのは私の一方的な想いだったの?


 そんなことはない、そんなはずはないと信じたかった。


「私はお兄ちゃんの妹だよ、これからもずっと妹なのっ!」


 夏帆は払いのけられるのを覚悟で彼に近づいて、その身体に抱きついた。

 半年ぶりの温もりを感じながら、雅之はどうしていいのか分からない顔をする。


「俺もお前に会いたくなかったわけじゃない。お前に会えたのは良い事だ。だが、俺はもうお前の兄じゃない。兄と呼ばれる資格などないのだから」

「私はこれからもお兄ちゃんって呼びたいよ」

「……やめてくれ」


 彼はそう呟くとかつての妹から視線をそらそうとする。


「やだよ!私のお兄ちゃんは世界でただひとり、雅之お兄ちゃんだけなの。他人行儀な真似をしないで。私を拒まないで……。私、お兄ちゃんにまで見捨てられたらひとりになっちゃうよ。一人は嫌なのっ」


 そう言って彼にすがる夏帆は泣いていた。

 

「お母さん、再婚するつもりなんだ。そうしたら、私は今度こそひとりになっちゃうよ」

「あの人ならありえそうだな。いいじゃないか、新しい家族ができるんだから」

「全然よくないよ!私にとっての家族はお兄ちゃんだけだもんっ」


 頬を伝う涙、寂しさが胸を貫いている。

 

「やめろって言ってるだろ。しつこいんだよ。俺はもうお前を妹だとは思っていない」


 乱暴に手を振り払われると彼女は動きを止めてしまう。

 こんなにも会いたかった人に拒絶されるとは思っていなくて。

 夏帆に怒りを向ける雅之に昔の優しい面影はなかった。


「……ごめんなさい」


 シュンッと意気消沈して大人しくなる。

 嫌われていたなんて思ってもいなかった。

 

「私はお兄ちゃんに会いたかっただけなの。困らせつもりも、怒らせるつもりもなかったのに……本当に……ひっく、ごめん……なさいっ……」


――嫌わないでよ、私はただ、また一緒にいたかっただけなの。


 元通りの関係になれる。

 それが幻想だと知った時、少女の心は深く傷つく。

 

「……迷惑だったの?私の事、ずっと嫌いだったの?」


 あんなにも優しい笑顔を向けてくれていたはず。

 それが好意だと思い込んでいた夏帆は力なくうなだれるしかない。


「何か答えてよ、じゃないと……私は……」

「夏帆。もう俺にはかまうな。俺はお前に干渉しない。だから、お前も俺には干渉しないでくれ。俺達は赤の他人だ、それ以上でもそれ以下でもないんだ」


 まるで言い聞かせるように彼は言った。

 その口調は過去に大事な約束を守らせる時の物と一緒だった。

 その光景を思いだしながら、今と違うことに愕然とするしかない。


――どうして、こんな事になったんだろう。お兄ちゃんに何があったの?


 これだけの変化が起きた現実、彼に何が起きたのか。

 

「……いいな?迷惑なんだよ、本当にこういうのは困る」

「う、うん……分かった。もうお兄ちゃ……ううん、雅之さんには近付かないって約束する。だから、約束するから……最後に一度だけ抱きしめて」


 彼が他人だと言い張り、妹として拒絶するなら、夏帆には何もできない。

 もう我が侭を行って困らせたりできない、これが最後だ。


「……お願い、お兄ちゃん。ご、ごめんなさい……雅之さん」


 どうしてもお兄ちゃんと言ってしまう、長年の癖は簡単には抜けない。


――お兄ちゃんと言えない事がこんなに苦しいなんて……そんなの辛すぎるよ。


 やがて、彼は何も言わずに軽く抱擁をしてくれる。

 このままギュッと彼の腕の中にい続けたい。

 それが出来ないと言われて、夏帆はそれが辛いのだと思い知った。


「ありがとう」

「……これが最後だ。約束だからな」

「うん。雅之さんを困らせたりすることはもうないよ」


 そう呟いて涙をぬぐいながら笑顔を浮かべようとする。

 結局、そんな事はできずに夏帆は顔を両手で押さえながらその場から逃げだした。

 屋上から出ていくと涙がぶわっとこみあげてしまう。


「うぁああ、雅之さんって誰なの。お兄ちゃんはお兄ちゃんなのにっ」


 両親の離婚から半年、離れていた間に他人行儀にされるとは思っていなくて。


「……ひっく、うぁっあ。……わ、私、そんなに嫌われるような事をしたかな」


 思いだしても幸せな時の記憶しか思い浮かべられない。

 再会がこんな結末を迎えるなんて思いもしなかった。


「……おにいちゃ……ん……ぁあっ……お兄ちゃん」


 廊下で静かに嗚咽をもらしていると、ふっと人影が夏帆の前に現れる。


「ん?おやおや、女の子がこんな場所で泣いて、どうしたんだい?」


 優しく彼女にハンカチを差し出してくる男の人。


「すみません……ぁっ……」


 彼はそのハンカチでそっと夏帆の涙をぬぐってくれる。


「泣きたい時は泣けばいい。けれど、キミは今、流したくて流している涙じゃない。辛い事があったんだね。辛い涙は見ている人も悲しくさせる」

「お、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが私の事を嫌いだって言われて……」


 またもや、見ず知らずの先輩に事情を話していた。

 人に話す事で自分自身の心の整理にもなるから。

 彼は何も言わずに頷きながら夏帆の話を聞いてくれる。


「私、ずっとお兄ちゃんに会いたくて。なのに、お兄ちゃんは私の事を嫌いになってた」


 ただ混乱と戸惑いしかない彼女を落ち着かせてくれる。

 ……それはどこか、昔の兄の優しさに似ている気がした。

 

「そうか。キミのお兄さんに拒否されたのか。せっかく会えたのに」

「はい。私、お兄ちゃんに嫌われてたんです。それを知らなかったから」

「それはどうかな?どうもそう言うわけじゃない気がする。俺にも可愛い妹がいるから分かるんだ。兄と妹、例えそれが義理でもその絆は簡単には消えない。元兄妹だとしても、過ごした年月は消えないのだから」


 夏帆は意外な言葉を告げる彼に「貴方は誰ですか?」と不思議な疑問を抱いた。


――この人の言葉にどこか安心感があるの。


「俺の名前は天海京司。通りすがりの恋愛指導部の部長だよ」

「恋愛指導部……?聞いたことがあるような」

「恋に悩める女の子の味方。キミの悩み、俺が相談に乗ってあげるよ」


 にっこりと微笑む彼は夏帆を元気づけようと励ましてくれる。


――お兄ちゃん……私は諦めたくないよ。


 せっかくこうして再会できたのに、喧嘩したままなんて嫌だ。


――私はずっとお兄ちゃんが好きだった。


 義理の兄妹は好きになっても大丈夫だ。

 結婚だって出来るって知っていて、付き合い続けてきた。


――お兄ちゃんは私の事をどう思ってたの?


 いつも優しく見守ってくれてたのは好意じゃなかったのか。


――ただの妹として、愛情を向けてくれてただけだった?


「お兄ちゃんが私を好きだと思ったから、“あの夜”だって受け入れたのに――」






 ……同じ頃、屋上ではひとり、雅之はフェンスを掴んで激高していた。

 その怒りは誰でもない自分に向けた怒りだった。


「ちくしょうっ、俺はっ……何をやってるんだよ!!」


 何度も激しくフェンスを掴み叩きながら行き場のない怒りを発散する。


「あの子を泣かせるつもりなんてなかったのに。俺が……俺が泣かせた。俺の言葉が、俺の態度が……俺自身の存在がっ、あの子を泣かせたんだ」


 後悔の一言に尽きる、彼自身、耐えきれない痛みを抱えていた。

 雅之は夏帆の事を嫌ってなどいなかった。

 ずっと会いたいと願い続けていた存在。

 だが、それを望んではいけないと想いを封じてきてもいた。

 

「俺はもう2度と夏帆に近づいてはいけないんだ……」


 雅之はそう呟くと静かに瞳を瞑り、力なく屋上の床に座り込んだ。

 そして、彼は誰もいない屋上で独り言を呟いたのだ。


「……久しぶりだな、夏帆。高校入学、おめでとう。無事に合格できていたんだな」


 本人に言えなかった言葉は初夏の空に消えていった――。

 

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