《七つの大罪》編 4
幼女が得体のしれないものをいざ放とうとしている。
「なんなんだ……?」
禍々しい球体が何を脅かすのか、全く想定もつかない。
だが、何であれ今一番の目的は桐山の救出だ。
こうしている間に、なんらかの力で彼女を苦しみもがきさせてもおかしくないのである。
そして、千夏を助けに行く。
だが、謎の球体に触れれば死ぬかもしれない。
俺が一歩でも動けば、そこで俺の人生は終わりを告げる可能性がある。
だからこそ。
俺は自分に嘘をつく。
《虚種》の内、嘘の対象が自分自身に向けてである場合、それを《自己偽り》(デュプリシティ)と呼んでいるらしい。
効果はただ、不安な気持ちを制すために嘘をついて無理やり己の気迷いを封じ込め、恐怖を無くすことだけだが、随分対抗心が芽生えるようだ。
俺は右足を下げ、体重をや落として幼女の行く末を見届ける。
「えい! 《吸収光矢》(あぶそーぶど・あろーびーむ)っ!」
リソルが纏っている紫色のオーラのようなものが一直線に凝縮され、握ったら直ぐに折れてしまいそうな人差し指をもう一度俺に向けると、光線の如く目も眩むような強い輝きを放出しながら俺に向かって矢の形状である光が直進し始めた。
しかし。
「…………は?」
光線。
光はとにかく速い。
一秒間に地球七週半はどうかしていると思う。
つまり、ビームと名をつくものを撃たれた時点で俺は死んでいるはず。
恐怖と威厳を備えている佐々木先生ならば「即死」と冷淡な調子で告げるに違いない。
地球から遥々なんちゃら星へ渡った青年戦士のように粉々になってしまう可能性も否定できないのだ。
避けるまでもない。
避けられないのだから。
なのに。
光線が遅すぎた。
目測で、人間の平均的な歩行スピードとほぼ同等のものと云える。
これなら頭上から不意に落ちてくる鳥のフンを避けるより容易だ。
「はっ、ただの一般人でも避けれるだろ」
机の間に足を入れて回避を試みようと俺が左足を出した。まさにその時。
「……ふふっ」
待っていたかのように幼女リソルは小さく、しかし明瞭に鼻を鳴らした。
「ざんねんーっ!」
不穏な笑みの理由。
その方程式の解が導き出されるまで幾分ばかり時間が掛かりすぎた。
「な…………」
紫色の光線の軌道は俺の真横を通り過ぎず、急激に加速して、放物線を宙に描きながら油断しきっていた俺の胸部を貫通した。
要するに、回避が出来なかったということである。
直線だと確証を得ずに思い込んで横にスライドしたのはむしろ自殺行為だったのだ。
リソルはまだほのかに檜が香る新しい木製かつ直方体である机にちょこんと座って、両足を交互に動かしながら呆気にとられている俺に余裕を見せつけるためか、述懐を始めた。
「《追撃》(ホーミング)ってしってる? これはいっけんおそくみえるからだれでもよけるまねができるんだよ。まねはね。まさかかそくするなんておもってないだろうし」
「ホーミング……だと?」
確かに幼女の言う通り、軌道が直線から曲線へと変形して俺にぶつかったのは現に事実である。
光線がヒットして貫通までしたのにも関わらず、掠り傷が一つもないことについても随分狂言のようであるが、それよりも軌道の著しい変化の方が気に障る。
ホーミングについて、実際には目にした事は一度たりともないが、テレビでロケットが追撃対象を追いかける場面や、ゲームで光学銃が敵を感知し次第追ったりすることを知っている。
だが、どれも最初から丸みを帯びており、直線ではない。
光線が直撃した胸部を数回さすり、未だ笑みを灯し続けているリソルに目を見やった。
ホーミングだと打ち明けたのは何か裏でもあるのだろうか。
敵に塩を送る真似して彼女にメリットは存在しうるのか。
すると、幼女は腑に落ちない質問を投げかけてきた。
「ねぇ、あなたはいまなぜここにいるの?」
「それは、俺が……」
俺はその問いに疑問を抱えつつ、即座に言い返してしまうつもりだったが、言葉が詰まってしまったのだ。
当たり前の答えを告げるだけ。
なのに、これから先に発する言葉が一字たりとも浮かび上がらなかったのだ。
リソルが千夏の居場所を知っているかもしれないから、とは思っていない。
いや、知っているかもしれないが、優先事項が違うような気がする。
それ以前に、俺とリソルしかいない室内で、俺は誰を助けなければならないという意思が働いているのか。
もし視聴覚室に入らなければ、リソルと遭遇することはなかった。
入っても、誰もいなかったら、次の目的地に向かっていたはずだ。
つまり、千夏を探すため以外で、俺は今ここにいるということになる。
肝心の目的が欠落しているので、明確な理由がわからない。
俺は左手をこめかみに添えて頭を抱えた。
「あれ、もしかしてじぶんがなんのためにここにいるかわかってないのかなかな?」
口元を両手で隠してくすくすっと楽しそうな声を出して、リソルが二度目の光線発射態勢を取るため為か、机から離反している。
何の為に。
先程まであったはずの記憶がそのまま根刮ぎ抜かれたような、そんな感覚を覚えてから、直ぐに自分の思考に違和感を得た。
俺は何故無意識に抜かれた、と考えたのか。
飛んだとか、忘れたなどなら何も、記憶が故意にしかも第三者に関与されて消失してしまったと暗示されているような表現だ。
「数分前の記憶が途切れてるって、もうボケが進行してきたのかよ俺は」
失笑が更に怪奇的な状況下に置かされているのを自分に諭させたのは言わずもがなだ。
「あーあ、かなしんでるだろうなー……あなたにわすれられちゃってね」
リソルが再び不可解な光線を打たんとしている。
「とにかく、今度こそ避けなきゃ駄目そうだな」
リソルの発言から、あの光線が俺の記憶の改竄を行ってるかもしれない。
歯を食いしばり、再度発射された光線を睨みつける。
一度目の回避後に振り返って軌道を確認することがこの光線をかわすための条件だ。
無駄な接触を控えないといけない。
直線をより早い段階で避けて、軌道の変化を垣間見る。
「えいっ!」
愛嬌ある声とは裏腹で、殺傷性のありそうな光線が等速直線運動をしながら、先端が俺の胸部目掛けて迫ってくる。
やはり速度は遅いとしか思いようがない。
わざわざホーミングさせずに一発で仕留めればいいはずなのに。
「あーっ!」
突然の幼女による発声に、俺は見事に反射神経を介して身を翻した。
「うおっ!? アブねぇー……」
シンキングタイムに気をとられて危うく当たる所だった。
だが、もしもリソルが一言も発さなかったならば、俺は無慈悲な光の迸りに貫かれていたはず。
避けろとでも合図を送った、とまでは深読みしすぎだろう。
何やともあれ、回避にはひとまず成功したから、本題はここからだ。
一回目の時よりも光線との感覚を空けてあるので、ホーミングしても十二分に見切ることができるだろう。
ただ一直線上だけを通過している光線は俺の近辺を通り過ぎると、俺を感知したかのように、先端が地面に平行に弧を伴い始めた。
そして、百八十度回転して曲線になった光線が、前者より速度を増加させながら俺の懐に潜り込まんと迫り来る。
「本当にホーミングだな……っ」
しかし、加速はしているが、避けられることに変わりはない。
どうやら急加速で光速に到達はしないとみる。
後は、タイミングを合わせて今度こそ横にスライドするだけだ。
「めい…………しょん」
「なんだ……?」
死角にいるリソルが何かを呟いた。
その何かは、呟かなければならなかった単語なのか。
それとも俺に話しかけようとしたのか。
この場合、後者は考えにくい。
会話を試みるなんて今更するはずもない。
聞こえさせてはいけない。または、困る単語なのだとしたら。
俺は光線との間合いを確認してから、首をリソルの方向に捻ってからダメ元で叫んだ。
「リソルっ! 今なんつったんだ?」
「あ、あわわ…………っ。なんでもないもん! めいく・あ・いんふれくしょんなんていってっ………………あ」
動揺して口を隠したにも関わらず、否定するあまり、口が先走ってしまったみたいである。
勿の論、彼女が言った単語は聞き逃していない。
佐々木先生の英語の授業で嫌でも単語を頭に刻みつけさせられているのが幸いなのか、俺の語彙の引き出しに、しっかり《いんふれくしょん》がしまわれていた。
《infraction》。
品詞は名詞。日本語で“変曲”を意味する。
《make a infraction》。
これで“変曲する”の意がいいところだ。
つまり、リソルは光線に変曲せよと命令を下したととれる。
「へぇ……よく知ってるなリソル。お前も毎日勉強してるのか?」
正直、挑発した所で怒りを買う訳なので、結局自分の首を絞める事になっているのだが、どうやらからかいたい衝動には嘘でも抗えないみたいだ。
「ちがうもん!」と反発してくるのと思いきや、慌てていた素振りを止めて顔を下に向けた。
まさか、今から憤慨のあまり、暴走状態に陥ってまだ見ぬ能力により、俺は殺られてしまうのか。
だが、生唾を飲んで光線をさらっとかわした直後、俺は目を疑うざるをえなかった。
「…………してない。このちからはわたしのじゃないの」
消滅した光線の通過した空間には、蛍光灯に照らされて軌跡が視える。
それは紫色ではなくて、淡い虹色の軌跡から鱗粉のような粉が舞い降りている。
静寂の中、振り絞られた細々とした声。
元気余りすぎの幼女であるはずが、別人のように随分しおらしくなっているではないか。
おまけに両手には握り拳を作って小刻みに震えている。
まるで、理不尽な事に悔やむしかないように。
反射的に声をかけそうになったが、ある過去の出来事が唐突に頭を過ぎって叶わなかった。
あれは確か、小学生の頃。
入道雲が彼方に広がっているのを望める家の近辺にある高台で、そよ風に揺らされている桃色のリボンが付属の純白の帽子と薄めの同じく真っ白なドレスタイプのワンピースを着用していた少女に出会った。
俺はその日、家族で星を見るために高台を訪れていたのだが、みんなよりも一足先に行って、ベストポジションだと自負するベンチに腰かけて暗くなりゆく空をいたずらに観賞していたのだ。
日暮らしが勢い盛んに鳴き続ける中、じわりじわりと空に無数の星々が現れ始めたので、よく目を凝らして数多に広がる星たちを眺めていると、ふと、ベンチの後方に目がいき、反対側に一人の少女が地平線に沈みゆく太陽を正面に立っているのを発見した。
円形の高台の中央には色とりどりの花が植えられていて、初見の者が目にすると我を忘れて傍観し続けるであろう景観にも目をくれず、左手で頭の帽子の鍔を掴みながら白色光源方向に体を向けている。
俺は愛好家という訳ではなく、家族で毎日のように星を観に来ていなかったが、個人的には度々自分がよく座っている年季のはいった古びたベンチと一緒に空を見上げていた。
理由は至って単純で、綺麗な星々を見たかっただけだ。
夕方から夜にかけてと、星がよく見える隠れスポットとも周知されていないので、最初からだが、当然人がめったに来るはずもない。
来たとしても、ごく一部の近所の人達や中央花壇の整備や植え付けなどを行うために月に一、二回訪れるボランティア団体が和気藹々に活動しているだけである。
だから、見知らぬ人物が現れたら鋭敏に反応するのだ。
それにしても、少女は炎々と燃え盛る太陽が日の入りするのを観察しているのだろうか。
めったに高台に人々は密集しないのだが、毎年大晦日から元日にかけて、どこから嗅ぎつけたのか、高台はその年の最初で最後である満員御礼状態に成り変わる。
これは、市内の中で二番目に日の出を楽しむ事ができる場所だからだ。
沢山の人々がたった1日にも満たない時間だけれども、彼らが訪れるのは、寂れた高台にとっても至福の時であろう。
『…………こんにちは』
人が満ち溢れる情景を想像していた所、白服の少女はいつの間にか体を乗り出して、ベンチに横になって茜雲を無意識に見つめていただ俺の視界を覆い被さった。
『ねぇ、俺は別に白いカーテンなんかみたいっていってないんだけど、分かってるよね?』
俺は意識をほんの一瞬違う事に向けていた隙に近づいていた少女に驚きはしたが、それよりも視界を隠した事に関しての苛立ちが上回ってつい罵声を浴びさせてしまったのだ。
少女は僅かに瞳孔を見開いてから、軽く会釈した。
『……ごめんなさい。別に邪魔するつもりはなかったのだけれども、覗き込んでみたら間抜けな顔をしてたもので』
『ま、間抜け……。そんな顔してたの?』
『……そうよ。死んでるのかと思ったの』
『………………』
何が俺を無言に導いたのか。
夕日に照らされて神々しい光輝を伴う銀色の頭髪を右サイドに小さく束ね、大海原を思い浮かばせるネイビーブルーの両眼から、ミニチュアの鼻や微々たる唇にかけて、未成熟ながら端麗な容姿を兼ね備えている少女自体と、美貌に似つかわしい毒舌的な発言。
これら二点が俺の思考のアルコリズムに停止を催促したのだ。
『……冗談のつもりだったといっても、あなたは私を許してくれるかしら?』
毒舌をかます割には、申し訳ない意識が働いているようだ。
『なんで許さなきゃいけないの?』
俺はベンチから立ち上がり、数メートル先のフェンスに手をかける。
『……そうよね。見知らぬ他人に失言したのに許しを請うなんて虫が良すぎたみたい。欲があるにも程があるわよね』
体を斜めに向けると、少女は俺との距離を保ったまま、踵を返して立ち去ろうとした。
『待てよ』
半ば自然に体が動いて、俺は少女の腕を掴んだ。
『……本当にごめんなさい。私……』
少女の言葉を待たずとして、俺は極力顔をほぐらかしてから話した。
『誰も怒ってないよ。ただ、突然で驚いたってだけ』
『……それじゃ、私の勘違いなの?』
『そーいう事になるかな。あんぐらいじゃ怒れないし』
俺の言葉を聞いて安心したのか、少女は息を吐いて、俺にある提案をした。
『……迷惑じゃなければ償いとして、あなたと隣席で星を見て差し上げる。それでどう?』
若干欲が入り込まれているような口調だったが、特に断る必要性もなかったので、俺は首を縦に振った。
「すきありっ!」
「……っ!?」
幼女の透き通るような声が、回想に浸っていた俺を現実に呼び戻した。
どうやら俺が黙り込んだ事をいいように使用して、不意打ちを試みたようだ。
警戒して周りを見渡すが、光線は見当たらない。
リソルは光線を射出した後のようで、仁王立ちして俺を見下している。
刹那見受けられた悲しそうな表情は偽物だったのだろうか。
嘘をついたのだろうか。
「くっ……。この痛みはっ」
胸が抉られるような痛み。
それに加えて呼吸がままならなくなっていく。
以前にも似たような状況に陥った事が七回ある。
それも決まって、嘘をつく───相手が自分に嘘をつくパターン───時に表れるのだ。
その内の一つに、高台で邂逅した少女がついた嘘も含まれている。
この発作のようなものの原因として、あの時の事が関わっているに違いない。
だから俺は嘘を拒む。
例え、嘘がこの状況をひっくり返すとっておきのおまじないだとしても。
「…………っ」
視界が霞む。
足元も足取りも覚束ない。
今攻撃されれば無防備の状態で重傷を負うだろう。
リソルの光線は後からの内部攻撃という可能性もある。
もしかしたら、この瞬間に爆死しかねい。
嘘を言えるようになった時点で、大分慣れたように感じられていたが、とんだ誤算だったようだ。
克服どころか、証明されない嘘を聞いただけで激痛が走り抜けるなんて思いもしない。
俺はもう───。
『……どうして星を眺めるのが好きなの?』
俺の左に座っている少女は不思議そうに、俺が星を眺望していることを訊ねた。
『特に理由はないよ。ただ夜空に光る星を見るとなんだか落ち着くんだ。イライラしたり落ち込んだりしたときに、遠い彼方で輝き続ける星を観賞してたらなんだかすっきりしてね』
『……大した理由なのね』
今こそ毒舌が始まると思いきや、少女は逆に感心したような口振りで言葉を返してきた。
『変にみえるか?』
『……あなたの言葉を借りるならば、どうして変にみる必要があるの?』
手を口に当て、若干面白がるように少女は呟いた。
『はは……一本取られたかな君に』
数分間沈黙が続き、何かを話さなければと試行錯誤を重ねていると、同じように言葉を探していたと思われる少女が先に口を開いた。
『……あなたは神を信じる?』
あらかた会話内容は見当ついていたのだが、まさか神についての質問だとは夢にも思わなかった。
『神……ね。信じない事はないけど』
よく神頼みみたいな事やるならば、少し頭の片隅に入れておくべきだ、と何年か前に誰かから学んだ記憶がある。
しかし、なぜ少女は神に関しての問いを投げかけたのか。
唐突にも程がある。
『そう。……因みに私は信じてるのよ』
『へぇ。あんたは何を根拠に?』
『……根拠はないわ。でも、信じたい。ううん、信じなければならない』
最後が芯の籠もった明白な意志である事に気づいたのは数年先だが、小学生なりの解釈は出来た。
だから、再度沈黙が場を支配していたので、俺はとっさに告げた。
『神が助けてくれるさ。そんだけ願い焦がれているんだから、流石に神も奉公するよ』
俺が口走った内容に関してか、目を大きく見開き、やがて視線をずらして小さく微笑んだ。
『……不思議な人ね。まだこの世界には私の知らない何かで沢山満ち溢れているみたい』
『何いってんだか。あんたはまだ俺のように子供だろ?』
『……えぇ。だからこそ、よ』
少女はそう言うと、立ち上がってくるりと回り、俺の正面に移動した。
『……私、夢があるのよ。私は欲のままに、永久的な欲を探したい。欲が私を満たしてくれている気がするの。それ故に、欲が消えない欲を手に入れる』
『壮大な夢だな』
『変かしら?』
『俺にとっちゃ、今のあんたの言ったことについて意味不明で解らない。人間、生まれた時から欲を持ってるんだし、常につきものじゃん。だけど、それがあんたの夢なんだろ? なら全力で、欲を追求すればいいんじゃないか』
俺もベンチから立ち上がり、宵闇が待ち受けている空を一人仰ぐ。
『……やっぱり、変な人。私がこういうと決まって必ず、お父様やお母様らに引かれるのに』
少女は小さく溜め息をつき、それから苦笑した。
『あー、ここにいたのって、拗ねたからか』
きっと、ひどく責められたに違いない。だから、一人家を飛び出し、一人寂しく空を茫然と眺めていたということになる。
俺は街灯がちらちらと付き始めるのを横目で見ながら、
『もしかしたら、俺はあんたに嘘をついているかもしれないぜ? なんせ、俺は周りから嘘つきっていわれてるし』
決して冗談めかしたり、シリアスな意味合いを込めて言った訳ではない。
ただ、一言声をかけたかった。
『……嘘つきね、あなたも』
そう口に出した少女は、俺と同じように空に向けて手を突き出し、届くはずのない星空を掴まんと懸命に手を泳がした。
『俺は所詮、虚実を練り上げるペテン師でしかないんだ。それが仇になったけど』
近いようで遠い過去の行いを思い出した所、失笑が漏れた。
『ペテン師の武器は人を助けることは愚か、傷を負わせることしか出来ない。ほんと、何のために進んで───』
続きは言うことができなかった。
俺の意識は遥か遠くから現状まで引き戻されたのだ。
少女の包容によって。
『……それ以上はいいわ。あなたは私を励ますために嘘ついたなんてすぐ分かった。だから、何もいわなくていいの』
そういう彼女の包容は、この上なく安心できるものだった。
邪な考えが頭を幾度と流れたが、少女の腕が小刻みに震えているのを見ると、包容という行為が少女が少女なりにできる俺への最大の配慮であるようだと悟った。
『み、見知らぬ人に抱きつくなんて、大胆だなあんた』
こういう女性による包容は馴れていなく、あたふたしてしまう。
しかし、男性からのは馴れているという訳ではない。
『……ごめんなさい。思わず包容したいという欲を露わにしてしまったみたい』
『謝る必要は皆無だよ。というか、逆に嬉しかったというか……』
『…………?』
少女は、どういう意味かと首を傾げた。
『いや、何でもないよ。とにかく、欲を制止する欲は自分を苦しめるだけだから適度に欲は解放したほうがいいぞ。……常識の範囲内でね』
『……わかったわ。適切なアドバイスをありがとう』
『礼には及ばないよ。ただ……』
俺は言葉を濁して、少女をなるべく優しく離した。
濁した理由が分かったようで、少女はきょとんとした表情から変わって顔を蒸気させながら俯いた。
『……欲だけではなく、気分も高揚していたようね私』
『はは……。まぁ、それも欲に過ぎないけど』
『……高揚したい、って所かしら。普段の私なら微塵とたりとも思わないのに』
静かに息をついてから少女は、太陽が沈まんとした時に、近くの時計に目をやった。
『……そろそろ帰らないと。楽しい時間をありがとう小さなジェントルマン。あなたに会えて心の底から感謝してるわ。また会いましょ』
少女は踵そう言い残して踵を返しそうになったので、俺は、名残惜しくなり、最後に名前でも訊くことにした。
『なぁ、お別れの前にあんたの名前教えてくれよ。お互い名前知らないなんて、もしまた会った時に確かめられないじゃないか』
『……それもそうね。でもこういう時は紳士から名乗るものなのよ』
『やけに厳しいな。……俺は駿太。徳村駿太だよ。以後お見知りおきを』
ふざけて漫画のように右腕を左に持って行きながら頭を下げた。
『……知ってるものなのね。よかったらうちで働かない? 今ならチップ増やすわよ』
驚嘆の後は理解不能の勧誘。
自営業とかなのだろうか。
『いや、いいよ。お気に召されたのはいいけどひいきされたくないし。で、君の名前は?』
『私は───』
少女が名前を発しようとしたちょうどその時に、複数の男性による声がこだました。
それが聞こえるや否や、肩を静かに落とし、大きな息を吐いた。
『……見つかっちゃったみたいね。流石にお父様の手配は迅速だわ』
俺は大きく息をのんだ。
目の前の光景が非日常的過ぎて。
ざっと五十人程度の男女が一斉に彼女の元へ駆け寄って来ている。
それも、執事のようなメイドのような、漫画でしか見たことがない景色が展望できる。
『……君って、お嬢様なのかよ。通りで上品な格好してる訳だ』
俺は再度、少女の姿形見を上から下へと一瞥する。
『……庶民とは違う筈の格好なのだけれど、庶民には分別出来なかったかしら』
きょとんとした顔を見せてから、少女はスカートをつまんで気品のよいお辞儀をした。
『出来ないよ。というか、あんたなら何着ても可愛らしいと思うけど』
若干屈辱的にいったつもりなのだが、どうやら少女はそれを聞いて、ポジティブな勘違いをしたようだった。
林檎のように赤い頬が、なによりもそれを示している。
『……く、口説き文句? 残念だけど見知らぬ庶民に体は預けられないわ』
自分の体を覆い隠すように。
『もう預けられたけど?』
自分の体を開き煽るように。
『……あれは、その…………高揚したって……』
少女は俯き一人囁く。
お迎えがもう目と鼻の先まで迫ってきている。
それでも頑なに振り返らないということは余程帰りたくない理由があるのだろう。
『帰りたくないのか?』
俺は少々呆れ気味に、そっぽを向いている少女に訊くと、少女は口答せず、首を一度縦に振った。
さっきまでの弁論はどうなったんだと思いたくなる程、少女は居心地悪そうに押し黙っている。
このまま、あの人達に連れて帰ってもらった方がいいんじゃないかと俺は思う。
何はともあれ、家族に心配をかけている事に違いようはないのだから。
けれど、少女はそんな俺の意に反した行動をとった。
『……こ、この人にお持ち帰りされるから、残念ながら皆様の所にお戻りできませんっ!』
彼女は、急に声を張り上げて、俺に腕を絡めるなり、そのまま頭を腕にくっつけたのである。
『……………………』
俺も含め、少女以外全員が言葉を失ってその場に立ち竦んだ。
日は既に山の奥に消えていて、山の端に赤紫色の情景と余韻を残していた。
今空を見上げたらまさしく絵に描いたような景色が広がっているのだろう。
だが、そのような余裕はない。
誰一人動こうとせずに、お互いがお互いを見張りあっている。
まるで、歴史の授業で習った冷戦を展開しているようであった。
そして、鋭い視線が幾つも俺に向けられているのを忘れないで欲しい。
勿論、腕にまとわりついて一人知らんぷりをしている少女が招いたものであるが。
これでは、穏和に終わりそうにないどころか、傷を負わないで解決出来そうにない。
恐らく、この少女が一方的に行ったものだといっても、信じてくれなさそうなのが遺憾であるが、現実なのである。
ならば、もうどうにでもなるようになればいい。
俺は決心し、深呼吸を一回してから、少女を抱き込むように胸に寄せて、先手の火蓋を切るのであった。
『そ、そういうことだ! この子は俺が身も心も俺色に染め上げてしまったからあんたたちにこの子をどうこうする権利はないっ!』
終わった。
とても小学生の発言ではない発言で、総勢を敵に回すことは決定事項だ。
その証拠として、五十人程の精鋭に、顔を赤らめる者、呆気にとられている者、明確な敵意を向ける者など、様々な気色を窺わせるのが手に取るように判る。
初夏の蒸し暑い夜だというのに、俺の体はとても暑さを感じない。
これは、高台に吹きつける潮風にあてられて、気が滅入るような熱帯夜ながらも、体調に差し障りのない適温であるから───だと、思いたい。
現実、大量の冷や汗が俺の体から出ていて、嫌な意味で、涼しいのだ。
『……準備はいいか?』
俺は、黙りこくった少女の返答を待たずに、抱擁を解除して、彼女の手を握るなり、すぐさま大人達のわずかな隙間を通り抜け、高台を駆け降り始めた。
『──────っ!』
少女が何かを叫んでいる。
しかし、階段を無我夢中で降りる俺の耳には風を切る低い音しか飛び込んでこない。
大人達も血相を変えて追いかけているのか、罵声や怒鳴り声が、風の音のみならず、単一の音となって、息を切らして必死に先を駆ける俺の耳に届いた。
『──────っ!』
少女が何かを叫んでいる。
しかし、遠い音が聞こえても、近くにいる彼女の声は一向に俺の耳に届かない。
様々な種類の靴音が、またしても、一つの音として、俺の耳に侵入する。
どうして、彼女の音は聞き取れて、彼女の声は聞き取れないのだろう。
目の前の出来事で精一杯だからか。
いや、違う。
後ろの音が邪魔だからか。
いや、違う。
俺の聴覚がおかしいからか。
いや、違う。
本当は分かっているはずだ。
だけど、それを認めたくない自分が、自分の中にいる。
分からないと、自分に嘘をついている。
それで、自分を揺らがす事なく保っている。
その方が、効率がいいから。
嘘をつくと、自分さえ犠牲にすれば、メリットしか残らないから。
潮の匂いが鼻を突く。
どうやら、知らず知らずの間に裏道を使って海へ出ていたようだ。
砂浜に降りて、後方の追っ手を確認するが、誰もついてきていない。
少女は岩肌に腰を下ろして、果てしなき水平線をだまって見ている。
彼女は驚くことに、俺ほど呼吸が乱れていなく、何事もなかったかのようにしている。
『見かけによらず、体力あるんだな』
俺は溢れ出る汗を拭いながら、汗水一つも出さない彼女に茶々をいれた。
すると、少女は溜飲を下げてから、悪戯っぽい微笑みを俺に向けた。
『……あなたって、ばかよね』
『バカって……バカっていう方がバカだろ』
『……確かに、バカな演出はしたわ。でも、そのバカな事にのってきたのはどこの誰なのかしらね』
『そ、それは…………』
言い返せなかった。
演出にのるのらないの最終決定は、俺の一言にあったのだ。
だが、迷うことなく、少女を連れて海辺まで連れてきてしまった。
間違いようのない歴とした誘拐を、俺はやり遂げたということになる。
そう分かった所で、何をしようが、覆水盆かえらずであるが。
『……ねぇ、駿太』
少女は俺の名前を途切れそうな言葉で呼んだ。
『ど、どうした?』
名前を呼ばれただけなのに、俺の心臓の鼓動が跳ね上がる。
彼女の言動の変化が、俺に影響をもたらしているのだろう。
しかし、この高鳴りは決して良いものではないと感じていた。
『……大切な、大切な話があるの。それも、あなたと私についてのこと』
この時、嫌な予感が俺の脳内を俊敏に通り抜けた。
思えば、これが始まりだったのかもしれない。
俺が嘘を憎むようになった痛みであることの。
◇■■■◇
私───桐山優香には、姉がいる。
私より無邪気で、忙しなくて、話上手で、勤勉で、頭がよくて、可憐で、友達がいて、オシャレで、家族思いで、挫けて、悔やんで、切り替え早くて。
姉の長所を挙げ尽きるなんてことはない。
むしろ、短所なんて、ほんの一握りあるかどうかだ。
そんな姉を慕って、私という妹は、これまで生き続けてきた。
しかし、私は彼女を尊敬する自分の良心に対し、もう一つの念を抱いていた。
《嫉妬》ではない。
妬み、羨む心がなかったといえば、虚をつくことになるが、もっと下劣な心だ。
───姉の長所を全て自分のものにしてしまいたい。
模倣でなく、吸収。
努力でなく、剥奪。
共同でなく、独占。
自分でも、卑劣な禍々しき心に畏怖を享受させられてしまうほど、えげつなく、そして、醜悪だった。
大好きな姉に、こんな醜態を晒したくないし、ましてや、気持ちなど到底伝えられない。
私は、葛藤の末、《強欲》な心を己の奥深くに封じ込めることにした。
徹底して、あらゆる欲を悉く切り捨てた私は、姉のように気さくに振る舞っていた昔とまるで別人のように、周囲への関心を断ち切った新しい私を生み出したのだ。
友人は、すぐに私の変化に気づいて心配してくれた。
私を気遣っている彼女たちを見るなり、何度も胸を痛めた。
だが、そんな友人たちを新しい私は拒絶し、自ずから孤立の道を選択してしまった。
これも、今思えば、新しい私という概念に則った欲だったに違いない。
でも、私は独りとなって、次第に離れていく友人たちに安堵を得さえもした。
欲を捨て、孤独で過ごしてきた小学校生活の終わりに差し掛かっていた時だった。
自宅の部屋で、パソコンと向かい合っていると突然姉が押し寄せてきた。
姉は私の変化を見てみぬ振りをし続けていたのに、今になって、私の様子に我慢できなくなったようだ。
『どうしたのよ優香……。最近様子がおかしいわよ?』
姉は私より四つ年上、つまり、高校生である。
制服の姿ということは、休日講習から帰宅してからすぐ私の部屋に来たのだろう。
私は、真剣な眼差しで私を見つめる姉に呆れ、こう言った。
『……私に関わらないで。今更心配するなんて、意味が理解できない。一番近くにいたのに一番遅いなんて……』
すると、姉は表情を強張め、瞳孔を開き、意気消沈する間もなく涙の粒が姉の頬を伝わり始めたのだ。
私は動揺した。
姉が泣いたことはこれまで一度もない。
泣くようなことが一切なかったから。
なのに、彼女はごめんねと小さく連呼して、私を抱擁しながら、
『ほんとはすぐにでもあなたに駆け寄りたかった。でも、原因は私にあるから、何も出来なかったの……。私が慰めたって、あなたにとっては不愉快かもしれないっておもったから……』
姉は、私の変化を姉自身だと謳った。
気づいていたのだろう。
最初から、私を苦しめているのが、姉の完璧さであることに。
だから、何も出来なかった。
私は胸をきつく締め上げられているような気がした。
姉の完璧さは、それこそ、天才的なものであったが、この世に生を受けた当時から備えているものではない。
彼女なりに努力を重ね上げ、私が産まれた時には、小学校修了レベルの知識は身につけていた。
よく才能は生まれつき、とかいわれているが、とんだ間違いだ。
才能は自ら磨き上げてからこそ得られる、努力の結晶なのだ。
しかし、私はできないことをやらなかった。
勉強でも、運動でも、何でも。
合理的に、可能であると判断したことのみしか行わなかった。
もっと、己が成し得る限界を追い求めたのは、次の段階に進むことではなく、今の段階の終着点を探すためだ。
ひたすら、できることを追い続けて、発展には目もくれなかった。
対して、姉は未知を探した。
自分には不可能なことを、年中追っていた。
だからこそ、姉は私を常に上回っていたのだ。