《七つの大罪》編 3
「で、結局私を殺さないわけ? 人質にでもするのかしら?」
実際見極める者とか適当に名乗ってこの場を切り抜けてから私を殺す可能性も捨てきれない。
緊張がお互いに私とルーリンの間を支配している。
鉄は熱い内に打てというが、先に打った方が火傷ところか火達磨になるかもしれない。
私は空を飛ぶ力も無ければ、戦える力も有りはしない。
しかし私は中学時代幾度となくスポーツにおいて数々の相手を交わしてきた。
だから分かるのだ。相手が私よりもはるかに強い、と。
デタラメかもしれない
ハッタリかもしれない。
でも強いことにはかわりがないのをとっくに気づいている。
相手が強いと判断したときの対処法。
それが今私に出来ることだ。
「…………?」
ルーリンは私の行動に対して首を傾げるくらいしかしなかった。
「ルーリン。私はどうしても行かなくちゃいけないところがあるの。見た感じあなたは悪そうには見えない。だけと私は先を急ぐわ」
肩の力を抜いてただ、目の前の訝しそうな顔を浮かべている人物を視界にいれる。
前傾姿勢を保ったまま二カ所のポイントに視線を送る。
徐々に視界が制限され始め、ルーリンの左サイドと右サイドの二カ所のみに視覚を限定していく。
「何をしようとしているのかしら? あなたには───」
後半は何も聞こえなかった。
聴覚は周期的に鼓動している私の心臓のみしか拾わず、閑静としている。
この感覚は久しぶりだ。
強敵に出くわした時に廻りの意識を完全に断ち切って純粋に集中することを集中する境地。
前に駿太から借りた漫画でこの状況が描写されている所を読んでいたが、まさかこのような境地に入れるのは漫画やアニメの世界だけで十中八九あるまいと思っていたが、ある日ふと思いつきで実際にやってみたらどうもこうも何も自然な形で集中状態に入れた時は絶句する以外何も出来なかった。
こうしてできてしまうと申し訳ないというか、まさに変な感じである。
「…………右」
二点の視界を一点に萎ませる。
凝縮された視覚下で、差し込んで来た一筋の光が私の両目を射った。
もう私の視界にはルーリンの姿はなかった。
ふんわり、優しく。
そしてしなやかに膝のバネを解放する。
限界まで溜められたエネルギーが両足の付け根に集まっていく。
「な、まさかあなたっ!?」
ルーリンの反応には一瞬冷やっとしたが、私は膨大なエネルギーでブーストを掛ける。
刹那、両足は地を離れて。
「───いくわよ」
ルーリンの左手が出されぬ前に私は彼女の横を普通に通り抜けた。
瞬間的な人智を悦脱した速さは最早、物理的な法則を無視していると考えうる。
「ばかな……っ!? なんで初期でこれほどの力を…………」
ありえないものを見るかのように私の背中にルーリンの視線が刺さっているだろう。
いってしまえば、ただのドライブ擬きだ。瞬間的に敏捷力を使って目標を避けただけのことである。ドーピングでもしてるのかと、過去に幼なじみに言われたことがあるが、同様に抜いてみた所、腰を抜かしてその場に倒れ込んでしまった。笑いという笑いが思わず込み上げたものだ。
バスケットボールの試合でこれを使った時はもう数々の高校から声がかかって大変だったのは言わずもがなである。
《疾風の如才》と今思えばセンスのない二つ名で崇めたてられていた私だが、それはまた別の話。
相手に背中を見せてはいけないが、それよりも優先すべきことをやり遂げなければならない。
「さよならルーリン」
私は彼女に一言声をかけ、残り数メートルの角を曲がって放送室に入る。はずだった。
「…………え?」
私の足は確かに今コーナーを曲がろうとしている。
後一歩踏みだせば、そこには放送室があるのに、なぜか足が、いや、私の体全体が動くのを拒むように痙攣していて私の意志が疎通しないのだ。
「ほんと、驚かすのが好きね平田千夏。《傲慢》をもってしなくてもこれほどのスピードが出せるなんて予想外……いや、だからこそなのね」
背後からルーリンがゆっくり歩み寄って来る。
振り向くこともできないので、彼女が何を仕掛けて来るのか解らない。
なんだかんだといって私を殺すことには間違いなく、その後は駿太まで狙われるかもしれない。
「さて、どうしましょうかしらね」
私を狙うのはいい。
けれど。
私は己の感情を押さえ切れず、押されるがままに心中を吐露した。
「私の……私の大事な人を狙うのは許さないっ!」
「………………っ!?」
ヒールが靴底を鳴らすを止めると共に、警戒してか、一歩後ろにルーリンは下がった。
「己の意志だけで《傲慢》の力を……っ!」
「さっきから傲慢傲慢うるさいわね! そんなに言うなら見せてあげるわよっ!」
不思議だ。
本日二回目の疑問は知らないはずのものをまるで最初から知っていたかのように頭に次々と情報が流れ込んでくることだ。
私は大きく息を吸い込み、
「code: pride of commet!」
意味の分からない単語を詠唱し、硬直していた体を翻して右腕を高く空に挙げる。
「……………平田千夏。侮れないわね。やはりマスターが危惧した理由が分かるわ」
ルーリンが初めて頬に冷や汗を滲ませた。
そんなに私がしていることは危惧されるべきことなのであろうか。
どちらにせよ、ルーリンが口走っていた《傲慢》という言葉が関係しているに違いない。
確かに、日頃の態度は《傲慢》に値しているかもしれないが、それが一体何なのだろう。
続いて脳内に浮上している言葉を躊躇という概念を蹴っ飛ばして告げた。
「神を翻弄し、あらゆる隙を狙い定め切り刻んとする《傲慢》に享受されし《グリゴレウスの双剣》を我に与えたまえ!」
呪文のようなワードが切れると同時に、挙げていた右手に、閃光を放ちながら突如空間に出現した長さ三十センチメートル程の細長い物がすとんと乗った。
「え、なにこれ……?」
未だ輝きを発している先端が鋭い剣が二本。
しかし目もくらむような光に覆われていて漠然とした形状しか確認出来ていない。
「……《グレゴリウスの双剣》。それはそう呼ばれる代物よ」
「グレ……ゴリウス? 確かグレゴリウスって六世紀のローマ皇教じゃあ?」
「ちゃんと勉強しているのね。……えぇ、そうよ。今は違うけど」
「今……?」
ルーリンは何を言っているのであろうか。
もうこの世の中にいるはずのない者がまるでまだ生きているかのような口調には何か特別な意味合いが含まれているのかもしれない。
それが今私が手にしている白金の短剣にも関係してくるのだろう。
「おしゃべりが過ぎたかしらね? そろそろ終わりにしましょう」
「……………っ!?」
私は今、ルーリンに何かが収斂したのを感じ、気圧された。
恐怖なのか。
いや、危機だ。
このまま近くにいたら頭がおかしくなりそうである。
「さぁ、それを私に寄越しなさい。あなたのためを思って言ってあげてるのよ?」
「……ぁ……っ……」
声がでない。
足が竦む。
手が震える。
先刻まで何も感じていなかったのに突然金縛りにあったのだ。
「さっきの身動き封じも同様のものよ。あなたは今、体の意志が私の手中にあるの。不思議よね」
私の体はルーリンの支配下、ということだろう。
何故、他人に意志を蹂躙されているのか意味不明だが、万事仕掛けがあるに違いない。
きっと強力なワイヤーで私を縛って───。
「残念ながらワイヤーなんてないわよ」
「───っ」
思考までも読みとられている。
これが事実ならますます仕掛けが解らなくなってくる。
「仕掛けなんて考えても無駄よ。既に発動条件は満たしているのだから。《対象者の肉体を五分間観察する》と」
口角を吊り上げ、彼女は不気味な笑顔を浮かべた。
こうなったらどうにもこうにも思慮判別が不可能である。
おそらく彼女は、認めたくないが、非科学的な能力を持っているのだろう。
こんな結論に至る私も馬鹿げているが、現に有り得ないことを身を持って感じているのだから、少しは信憑性を持っている。
「……あ」
いつの間にか、口の縛りが解けていた。
いつでも支配出来るとでもいいたいように。
「ルーリンは魔法使いなのかしら? それともどこかの都市で能力開発でもしたのかしら? 大変エキゾチックなものね。アニメや漫画じゃああるまいし」
「魔法使いでも能力開発した訳ではないわ。与えられたのよ。マスターからね。この能力は新たな世界を造りだすのに必要なのよ」
「なら、右翼の方? 新たな日本を造るために武力行使する訳ね?」
「右翼ではないわ。私たちは人が平和に平等に暮らすために止むを得ない状況において能力を使って制裁するのよ」
「つまり、止むを得ない状況と言うのは私が通うこの学園が関係あるってことね」
「正確には七人の人間が理由ね。例外がもう一人いるみたいだけれども」
「七人……例外……」
私もそのうちの一人である可能性が大である。
出なければ、奇妙な人に捕まったりしない。
問題は私ではなくて。
「いや、今は考えていけないわ」
次に出そうになった言葉を飲み下す。
すると、ルーリンは残念そうに舌を巻いた。
「惜しいわ。もう少しで情報を得ることができたのに」
「……プライバシーの侵害ね。 訴えていいかしら?」
「えぇ、御自由に。どちらが勝つか明暗はっきりしていれるけれども」
「卑怯ね、ルーリン」
「あなたに言われたくないわ平田千夏。さっきの素早さはついていけなかったわよ」
「ほんとかしらね。とっさにあなた、左手を出してたじゃない」
確かにその時はルーリンの左手が微かに私の体を触れていた。
きっと触れないと彼女の能力は発動されないがためにだと思われる。
「…………どうしてあなたはそんなに冷静なの? さっきまでと違って私は己の能力を使用しているわよ。何なのよあなたは」
「………………」
分からない。
本来ならもう降参しているのに。
バスケでもここまでの粘りを見せつける前に交代のブザーが会場に歓声と一緒に響いていた。
勿論、すこぶる緊張状態が並行している。
「……理由は、ないわ。と言いたい所だけど一つ思い当たる節があったわ」
私は極力最小限の思考で考えたが故に、声を一頻り振り絞って───。
「しゅーちゃんを護りたいのっ!」
本音、というものなのだろう。
普段は素直になれなくて、彼が近くにいると、ふてぶてしい態度を彼にしてしまっているので、彼がいない時くらいはせめて本音を吐露したい。
そして、私のシャウトの後に待ち受けていたのは。
「………………」
沈黙とルーリンの不抜けた顔のみだった。
「え、あれ…………?」
沈黙の理由が私の叫びの内容。
それを思い出すと、急に恥ずかしさが込み上げてきたので、顔が紅潮する前に羞恥心をなんとか抑えた。
後悔はしてないが、やはり普段いわないことをいうのは難しいことなのだ。
「……さっきもそうだけど、見かけによらず大胆ね」
ぼそっと、ルーリンは私の可聴域内のボリュームで呟いた。
「だ、大胆って……っ! そそ、そんなんじゃないんだからっ! あのバカがどうしようもなく弱いから仕方なく…………」
全く本当に。
私は素直じゃない。
《傲慢》そのものだ。呆れるくらいに。
「……青春ねぇ、平田千夏」
目を細めてからかうかのように、再び笑みを小さく浮かべた。
「もう……っ! さっさと決着つけるわよ!」
「決着も何も、始まってもいないわよ」
やれやれこれだからと、嘆息してから私に再度炯眼を向けてくる。
「うるさいわね! とにかくあなたは私が持っているこの白金の棒を早く奪いなさい!」
「……この空気はなんなのよもう。いいわ、今すぐ奪ってあげるわよ!」
一旦解かれていた拘束を、一段と強化して私を締め付けた。
「っあ……! に、肉でも引きちぎるの、かしら、ねっ!」
余裕など微塵とたりともないのに私の口数は減らない。
私は縛りに対抗して力を入れていたが、全身脱力して、その場に膝をつきつつ、謎の縛りを受け入れる。
ちなみに、好き好んで受け入れている訳では決してない。断じて。
「ミンチにしてもいいけど処理が大変だし、しょうがないからその態度に免じて殺さないであげる。あなたの手にする物を奪うのが目的だし」
「情けのつもりなのかしら?」
「はぁ、あなた強情過ぎるわ。敵に塩送ったって返ってくるのは死だけなの。いつの時代の兵士よ」
「多分戦時中の衛兵隊だったのよ過去の私は。愛国心はきっとピカイチだったに疑いようもないわね」
「……呆れた。自分の《傲慢》さに後悔するのは三途の川でしなさい」
「まさに航海ね。一繋ぎの大秘宝でも探そうかしら」
売り言葉に買い言葉。
まるで私自身が死を望んでいるみたい。
実際臨んでしまっているのに変わりはないが。
「本当にさよなら、平田千夏。すぐに彼とやらも追いつくわよ」
「……たの、しみ……ね」
意識が朦朧としている。
肉体の限界がきているようだ。
このまま死ねれば痛みは感じなくて済むが、平田千夏十六歳の人生の幕が降ろされてしまうのはかなり早い。
「…………そんなっ! いやしかし……はい」
「……?」
彼女の様子が少しおかしい。
どうやら、仲間と通信しているようだ。
鋭敏に反応を示してから間もなく、ルーリンは歯を噛み締めてから、私の拘束を解き始めた。
「予定は変更よ。今回は殺さないであげる。マスターに感謝するのね」
「ず、随分気前よいのね」
先程と同じく私は半分意識を失いかけながら挑発的な言葉を投げかけてみる。
対抗する術は何もないのでいつ逆上するか分からない。
証拠に背を向け、両手で握り拳を作って必死に堪えるかのように震わせている。
ルーリンの葛藤の末、自身が出す答えは反逆か遂行の二つに一つである。
ようやく決心したのか、或いは勘考を断念して、握り拳を解いて、灼熱を思わせる紅蓮の赤髪を手で払ってこちらに振り向いた。
「……マスターには逆らえないわ。体がそう出来ているの」
「………………」
ここで命令を無視して万が一私を殺していたならば、彼女はどうなるのか。
いや、何が何でも逆らえない、否逆らってはならないのだろう。
何とも言えないが、火に油を注ぎに注ぎまくった私を殺したくてたまらないはずで、ならば迷わず殺していたはず。
それほどマスターというのは絶対的な存在であるのか。
あの人に言わせれば絶対はないが。
「平田千夏。次会うとき迄にその減らず口を治療してきてもらいなさい。《傲慢》さが滲みでてるわ」
「言ってくれるじゃない……っ。再会を楽しみにしてるわよ!」
「まあ近い内に会えるわ。それでは、ご機嫌よう」
ルーリンは私から後方に下がって十メートル間をあけた。
「《軌跡移動》……back to ───」
彼女は機械的に言葉を並べ、制動している。
すると、刹那、彼女周辺に漆黒の渦が発生し、旋風が吹き抜けた。
「……っ。最後……」
ルーリンが使っていた何かを訊こうとしたが、もう間に合わないだろう。
私はとっさに両腕で防御姿勢をとり、彼女を追おうとさたが、風が止んだ頃には何も無くなっていた。
ルーリンはまた不思議な現象を起こし、私の目の前から消え去ったのだ。
「魔法……。呪文……。……分からないわ。自分がどうしてあそこまで立ち向かえたのかも」
そこまで口に出してからあることを思い出した。
「……そういえば、剣が消えてるわね。気がつかなかった……。ルーリンに盗られた? いや、彼女は盗っていない。そうだったら撤退なんてするはずない」
一体何だったのだろうか。
《グレゴリウスの双剣》とルーリンが言っていた。
剣、というくらいだ。よく時代劇などで見る刀とか、ゲームに出てくるあの剣のことだろう。
そもそもどこからから出てきたのか不明瞭である。
実は私には剣なる物を生成する特殊能力があって、ついに力が。
「───ううん、そんなの有るわけないわよ。きっと、なんだかんだ言ってルーリンの意味不明なことは科学的な力を応用しているに違いないわ」
首を左右に振って、全身鞭で叩かれたかのような痛みが引いた自分の体をどうにか奮い立たせて立ち上がる。
「今は駿太の心配が優先ね」
そう呟いて私は予定より三十分遅れて角を曲がると、すぐに《ON AIR》の文字が目に入って、そのまま突き当たりにある鉄扉を開けて私は中へ入った。
灯りは遮断する物がなく均等に照らされていて、視界は良好だ。
駿太以外にも何人かいると思ったが、大きく外れて駿太さえもいなかった。
彼の性格を考えても、敵前逃亡するような人ではないので、ルーリンの仲間と合間見えているのだろう。
何事も起きてなければ良いのだが、既に闖入者に絡んでるからどうしようもない。
「大丈夫……よね、駿太っ」
場所を移してやり取りをしていることを信じて、踵を返そうとした。
「───え?」
一人、ドアの内側に隠れて倒れている。
入った時には気づいていないものを発見してしまった。
一番見たくないものを。
「しゅ…………しゅーちゃんっ!?」
瞼を閉じて安らかに眠る彼はどこか、悲痛な雰囲気を漂わせていた。
なぜドアの所で意識を失っているのだろうか。
理由はいくつか挙げられる。
第一に何かから身を隠している間にうたた寝をしてしまった。
第二に私がドアを開けたとき、無意識の内にクリティカルヒットをしてしまった。
そして、第三に───。
何者からの襲撃を受けて気絶した。
「……考えたくないけど、三番目が筋が通りそうね。でも、命に別状なさそうだから不幸中の幸いね」
内心では胸を撫で下ろしたが、絶対はないので油断が許されない。
外傷がなくとも、精神的に傷を負わされているのかもしれないからだ。
もし目が覚めた時に、精神に異常を来していたならば、その時は私が駿太を宥めてやらなければならないということを頭の一隅においた。
「……うーん」
ルーリンらの手がかりがあるかどうか放送室内を探索していると、背後から聞き慣れたテノールボイスが聞こえた。
「……しゅーちゃん?」
私は思わず過去の呼び名を本人の目の前で言った。
先程連発したせいだろうか。
少年は上半身をゆっくり起こすと、すぐに、彼───駿太は半ば戸惑いながら、「……ナツ」と口元を少し綻ばせてから短く私の古称を用いて言い返した。
どうやら、特に精神にも傷は負わされていないようだ。
駿太が私の目を見ないのはいつものことだが、いつもよりまして、彼の目は私を捉えようとしない。
それから苦笑をしながら彼は、ふざけたことを告げた。
「……えーと、ここどこだ?」
「………………」
呆れて物も言えないとはこのことだろうか。
こちらは心配に心配を重ねて死闘(流石に盛り過ぎだろうが)を潜り抜けて来たというのに、苦労が水の泡のように思われる。
なんだかそれが腹立たしくて、いつの間にか私の心は怒りの文字で満たされていた。
「いや、その───」
続けて彼は必死に弁解をしているが、虚しく私には届いていなかったのである。
私は彼に一歩近づいた。
間髪入れずに更にもう一歩近づいた。
そこで彼は何かを悟ったのか、急に押し黙ってしまった。
彼には悪いが既に我慢の限界に達しているのだ。
一発、私は怒り任せに平手打ちを彼の頬にお見舞いした。
ぱちっと、音が響かずあまり強くないものだったが、それでも反動で手のひらに返ってきたものは少し痛みが残る。
「……ナツ?」
久しぶりに、いや、初めて彼は私の目を見た。
彼のダークブラウンの瞳は、どうしてだと訴えかけているように見える。
その訴えには答えられず、代わりに溢れ出てくる涙を隠すことなく、次々と零れさした。
わざとではない。
一度一粒でも零してしまったら継続的に流れてきてしまうのだ。私の意思に関係なく。
「……バカぁ……っ」
止めようと思っても止められないのが関の山。
私の体は自然と彼の胸元へと飛び込んだ。
少々驚いていたようだったが、彼は抵抗せずに逗留した。
私はそのまま駿太に、分かっていたことだが昔の約束を破って侵入者とコンタクトをとったのかと、儘ならぬ口調で問いてから、返答を待たずにそれでも駿太を誇らしく思ったと静かに告げた。
約束を破ったのは遺憾であるが、それは私を守るためにやったことであるので───結果私も出くわしてしまったが───少なくともその行動に関しては誇らしかったのは間違いない。
「本当にごめん……」
後悔しているのか、申し訳なさそうに彼は平謝りした───のではなく、丁寧に土下座体制に突入しそうになったので、私は即刻する必要はないと彼を静止させた。
「……でも、よく約束破る真似出来たわねっ」
私はそう彼に伝え、すぐにそっぽを向いた。
今度は私が彼の目を見たくない。
きっと顔が茹で上がったタコのように紅色に染まっているのだろう。
ほのかに耳の先が熱いような気がする。
「ははは」
彼はそんな私の様子をみるなり微笑した。
「そういえば……」
これから、彼に私が遭遇したルーリンと名乗った侵入者の一味の話をしようとしたのだが、そこで私の意識はばったりと途切れてしまった。
◇■■■◇
「……ここでもないのかよっ!」
千夏の姿が放送室前から消えてちょうど一時間が経過した。
俺はというと、大講堂にて拾った紙切れに記された場所へとひたすら駆け巡っている。
「『汝、求めし者下記所にあらん』って、五ヶ所中三ヶ所は外れてんだ。この調子だともうこの周辺にはいないんじゃないか?」
当ても有るわけではないが、ここまで外れると既に姿を眩ませてしまったのかと考える反面、自分の運の悪さを思考するとどうも泣けてくる。
指定されたのは、職員室、放送室、体育館、視聴覚教室、そして校長室である。
この内最初に挙げた三ヶ所は訪れたが、ハズレだった。
体育館はともかく、職員室と放送室が一番脈アリであると思ったのだが、変わらず人は誰一人いなかったのだ。
「……次は視聴覚教室だ」
ここまできたら残り二つを回るしかない。
何か手がかりがあるかもしれないからだ。
相変わらずの静けさに気味が悪いが、これも侵入者のせいであるのだろう。
視聴覚教室に到着し、中を覗いてみたが真っ暗で、やはりプロジェクターだけが起動されていただけだった。
「誰かいますか?」
ダメ元で応答を求めるべく声をかけてみるが、案の定プロジェクターが延々と唸りを上げているだけで───。
「…………だれ」
「え?」
幻聴だったのだろうか。
か細く今にも途切れてしまいそうな声量。
今のが現実で起きたことならば、それはつまりこの部屋に誰かがいる。
誰かがいるならば、もちろん千夏である可能性が飛躍的に上昇する。
なぜなら、千夏以外の人間を放送室以来見ていないからだ。
俺は白黒つけるために、危険があるかも知れないが、漸くなれてきた暗闇の視界で一歩一歩踏みしめて視聴覚教室の前にある教卓へと向かった。
「…………だれ」
誰かが確かにいる。
今のでこの部屋に俺以外の人間の存在が証明された。
しかしここで、俺は「返事を下さい」と再度声をかけていれば良かったのだ。
感極まった俺は前へと繋がる緩やかな階段を下り、声の発声源だと予想される教卓へ回って手を伸ばした。
「千夏っ! 大丈夫か!? 遅くなってわ───」
もう一度言うが、行動を起こす前に一度確認をとっておけば、過ちを犯さずに済んでいた話しだったのだ。
「ひゃ……っ」
肩に伸ばしたと思われる所はなぜか柔らかくていつまでも掴んでいたいという願望が湧き上がってくる。
「…………っ」
一瞬誰かが息を潜めた。
その誰かが俺の目の前に縮こまっている人であることを気づいたのは俺が手を動かす度に同じような現象が起きるからだ。
「……まさか、な」
俺はとある推測を導き出し、それが間違いなく推測でないことに理解した時、尋常ではない量の冷や汗が突如として発生した。
そして、依然よりまして暗闇下で目が慣れてくると、俺が引き起こした事実がまるで今まで見えていなかったもののように感じられてきたのだ。
「……強引ならぬ《強欲》ですね」
眼前の教卓下から濁みがない、そして少しあどけなさが残る少女の声が確かに聞こえた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!?」
俺はびっくりし過ぎて逆に自分が悲鳴を上げてしまった。
とんでもないことをしてしまったということと、初見の女性に不埒な行為をしてしまった───だからといって千夏に同じことをしたら確実に存在を抹消される───ことに関して、ただ絶望感を味わうだけだった。
「……まさかあなたが私を責め立てるなんて思いもしなかったです」
少女は携帯電話を取り出して簡易の明かりを灯させた。
僅かな光さえも輝くしく反射させるショートボブの銀髪にスカイブルーのリボンをくくりつけ、くりっとした目は細めて俺に向けられて、流行りのアヒル口を微かにひきつらせている。
触ればマシュマロを押したかの如く柔軟な弾力を楽しめそうな頬は血の気が良いのかほんの少し赤橙色になっている。
「君は確か…………」
「……一年の桐山優香。先刻は先導お疲れ様です」
「先刻? ……あぁ、あの時か」
桐山優香。
記憶を辿っていくと、確かに放送室前に集まった人達の光景の中に彼女がいた。
「……ところで、なぜこのような羞恥極まる行為をしたのです?」
「え?」
思わず何をと訊きそうになった口を塞ぎ、俺は両手を差し出して左右に振りながら続けた。
「いっいやその、これには深い訳があってだな……」
「……深い訳とは私を説得できるものなのですか?」
淡々と、桐山は声量を一切変えず、一定の音量で告げた。
「つ、つまりだな、いわゆる不良の事故というやつだようん。ほら、よくあるじゃん。例えば……」
俺は自分で言ってはなんだが、愕然としてしまった。
例が出てこないのである。
「……よほど深い例なのですね。深いか微妙かを査定するレバーでも持ってくればよかったです」
間違いなくうーんと言われる、とは間違っても言えない。
もうこうなったら素直に言うしかないのだろう。
「悪い。悪気はなか───っ!?」
「……ちょっと静かにしてくれますか」
桐山は俺を引きずり込むかのように教卓の下へと引っ張った。
一体何を、という前に小さな手で俺の口を覆い隠してしまったのだ。
いくら教卓が大きいからといって、誰が二人も入れる空間を作るのだろうか。いや作らない。
従って、今の密接な状況を分かりやすく解説すると、まず俺が床に尻餅を付いて膝をたてている。
要するに、体育座りの状態から両手を背中側に回し、ハの字を形成している。
加えて、頭を一個分下げて、全体を見ると恐怖で腰が抜けているように捉えられるだろう。
彼女に至っては、俺の真上に馬乗りして両手を俺の胸に置いている。
無理やり詰め込んだので、彼女の顔が俺の顔の目と鼻の先なのである。
ここで勘違いをしないで頂きたいのが、別に襲われている訳ではない。
彼女の顔は確かに目の前だが、視線は教卓側のドアに向けられている。
しかしこれだけ近いと、少女というか、女性特有の甘い香りが俺の嗅覚を刺激することから逃れようがない。
「だ、誰かがいるのか……っ?」
気を紛らわす為に、出来るだけボリュームを押し殺して視線を揺るがない桐山に訊いた。
「……喋らないで下さい。襲っちゃいますよ。あなたの貞操がどうなってもいいのですか」
そして、一時の静寂の後。
「……は?」
この人がさり気なく強烈な発言をしたような気がしたのは気のせいだろう。
まさか、清廉潔白に見える彼女が下心丸出しなことを言う訳がない。
「……こほん、失言しました。今のは忘れて頂戴です。既にgraduationしていたみたいですね」
「そっちじゃねぇょ!? いい感じに発音してるけど流れでその単語は最悪だろ!」
「………………………………」
「何も言わないのかよ! てか、その慈悲な表情止めて本当」
見かけによらず、大胆な発言をする少女。
初めて会った気がしない。
彼女は以前どこかで、それも最近ではなくて遠い昔に───。
「あは、みーつけたっ!」
『───っ!?』
俺と彼女は咄嗟に教卓から飛び出る。
寸時にドアに目をやると、隙間が開いている。
これは、何者かが視聴覚教室内へと入ってきたということだ。
しかし。
そこには誰もいなかった。
「くらいからでんきつけるよー! めがわるくなっちゃうし」
刹那、後方からの声。
「な、一体どうなって……」
視聴覚教室内の電気は後ろのドア付近に取り付けられている。
後ろに行って点けたのは妥当だが、問題はいつの間に点けたのかということである。
「桐山、誰かが移動するのを見たか?」
俺は彼女に第三者の存在を確認してみたが、首を横に振るだけだった。
「えいっ!」
瞬く間に蛍光灯が点けられ、それまで携帯電話の明かりだったものの何倍もの光量がある光源による光線によって反射的に目を細めてしまった。
「くっ………き、桐山! 大丈夫か!」
と、俺は右手をフラッシュで怯んだであろう彼女の肩に乗せた───はずだった。
右手を出した位置がズレたのか、空中を泳いでいる。
無理やり目を開け、今度こそと思ったのも束の間、俺の右手は彼女を捉えることをしなかった。
「こっちこっちーっ! みうしなうなんてなさけないよー」
桐山よりも幼稚な声に誘われ振り向いた方向に、両手を開いて残念とでも言うような仕草を表している人が机の上に立っていた。
直径二十センチ程の水玉模様の球が付属している髪ゴムのようなものを桜色の髪の後ろにくくりつけてポニーテールを垂らし、華奢な体躯でニンマリとした顔を浮かべている。
一言で申せば、幼女そのものだ。
声からも大抵予測できたが、まさか正真正銘の幼女であるとは考えもしなかった。
幼女といえど、この場にいるのだからおそらくヤツの仲間なのだろう。
ヤツは今俺の中に鎮座している。
それは、俺が嘘を克服するためにやむを得ない行動。
だからといって信じている訳でもないが、ヤツは他の連中と何かが違うような気がする。
ヤツ───バーデが本当に組織的な集団の一員であるのか疑ってしまうのだ。
「へっへーこのおんながっどうなってもいいのかー!」
幼女が桐山を机の上に寝かせて脅迫をしてきた。
ここで、今までの俺ならば「ふざけんなよぉぉぉっ!」と、正面から突っ込んでいただろう。
しかし、相手が幼女なおかつあまり迫力がない故、突撃する意味がない。
桐山を解放さえすればよいのだから、他に方法があると思う。
それに今は自分が許容できる範囲で嘘をつくことが自分にとって最善の手立てだ。
少年がいっていたことを実行すれば、自分が変わる気がする。
よって、俺は嘘を盛り込んで堂々と幼女に告げた。
「おいおい、ここはお子様が来るところじゃねぇよ。出直してこい。どうせ俺みたいに強くないんだろう?」
だが、嘘をいうことに執着するあまりに、自身に嘘をついてしまったのだ。
俺の記憶に何故かいくつかの《虚種》という嘘の種類の情報がある。
からくりは知らないが、バーデのせいで、おかしな情報がインプットされたようだ。
情報を辿っていくと、その内の一つに対象が自分自身である嘘───《ただの強がり》(ファブリケイション)という《虚種》があるらしい。
まさに、現状に相応しい嘘だ。
その嘘をついた所で、別段自分に何も起きないが。
そもそも、嘘を区別して変な呼称を設定しているはどうかと思う。
どんな嘘をつけばいいか、絞ることには最適なだけだろう。
「むーっ!」
前方から小動物が怒りを露わにしたような叫び声が聞こえた。
この嘘の効果は至って単純で、ただ自分を奢り、相手を怒らせるだけのようだ。当たり前だが。
「そんなことないよー! りそるつよいもん! とりあよりつよいもん!」
「りそる? とりあ?」
もしかしたらリソルとトリアと言ったのだろう。
前者が幼女、後者が誰からしい。
「トリアって、あんたより弱いのか?」
俺の嘘の効き目が切れてきたのか、急に顔を光らせて、
「ききたい? ききたい?」
「……っ」
幼女の声が跳ね上がった途端、別に特別何が見える訳ではないが、本能的に危険を感受した。
さっきはこの本能に助けられたので、間違いはないはずだ。
ならば、今も本能を頼りにするべきなのではないか。
「りそるはつよいの! だれよりもつよくなくちゃだめなの! もっともっとつよくなるのっ! 《じんざいけっしゃ》のはしらだからっ!」
幼女の体の至る所から忌々しさを安易に想像させる何かが沸々と出ている。
見ているだけで、頭が狂いそうだ。
「…………どうすりゃいいんだこの状況」
このまま漫画のような激しい戦いが繰り広げられてしまうのか。
そうなったら俺にはどうしようもない。
何せ、俺はただの一般人であるからだ。
なんちゃらマンやらなんちゃらライダーが颯爽と現れて、敵をやっつけてくれるのを健気に待つしかないのだ。
いくら人一倍の正義感を心に持っても、それはあくまでも正義ごっこに過ぎず、いざという時に何も出来ない愚か者である。
今までは戦闘がなかったから、なけなしの勇気で何とかやってこれたが、戦闘になったらまた訳が違う。
仮に何かしらの力が宿されていたとしても、それで人を殺めるようなことはしたくない。
たとえ、相手が幼女であれ、凶悪犯であれども。
「りそるのちからをいまとくべつにあなたにみせてあげる!」
幼女は机から跳躍し、そのまま宙に浮く形でこちらに接近しながら指先を向けた。
俺の本能は何も言わない。
しかし、俺は既に走り出していた。
幼女が机から退く、その瞬間を今しかと待ち続けてから。