氷の欠片 第三章 13(加筆版)
午前五時五分。外では既に、数匹のミンミンゼミが合唱を始めていた。しかし、早起きなのは虫だけで、山岸家の近所には、透や花圃、草光らを除けば、人気はまるでなかった。
雛警察署に向かう途中、人目を気にしなくて済むのは精神的に楽だった。どんなに人の良さそうな人間でも、十七歳の少年が背広を着た男二人に連れられる姿を目撃したら、そのことをネタにして、近所の人に言いふらすに違いない。午前五時に来てもらうよう頼んだのは、正解だった。
「さぁ、乗れ」
山岸家の玄関前に止められていたのは、パトカーではなく白いカローラ。若い刑事は後部座席のドアを開くと、透に車の中に入るよう促した。
「お兄ちゃん……」
「……」
玄関口で、花圃に心配そうな目で見られても、透は黙って車に乗り込むつもりだった。が、それは、途中で現れた予想外の乱入者によって阻止された。
「ばか!」
透は一瞬何が起こったのか解らなかった。気が付けば、背中を若い刑事に支えられていて、目の前には舞岡千代の姿があった。
「何で、こんなところに……」
顔面を殴られて呆然とする透を無視して、千代は怒っているような泣いているような、どっちつかずの表情を顔に張り付けて、彼の肩を両拳で何度も叩く。
「透のばか。人を……。人を殺すくらい辛かったら、苦しかったら、どうして私に相談しなかったの?どうして私を頼らなかったの?ばかだよ、透は。何で、何で……。ばか。本当に……。もう訳分からないよ」
そうだ。俺は千代に嘘を吐いたんだ。俺は千代を騙したんだ。
透は唐突に、罪悪感に襲われ、千代に向かって軽く頭を下げた。
「千代、ごめん、俺……」
「やっと私の名前呼んでくれた。でも、今の透には興味ないから、二度とこの町に帰って来ないで」
悲しみに顔を歪まされた千代が、透に冷たく言い放つと、近くで二人の様子を窺っていた花圃は『やめて』と言って彼女に抱きついた。
「ちぃちゃんやめてお兄ちゃんは悪くないよ。何も悪いことなんてしてないよ。これ以上私の心が壊れないように、ばらばらにならないようにしてくれただけだよぉ……」
千代は花圃の話を聞くと、一瞬怯み、目を閉じて、優しく彼女を抱きしめた。
「透が何を抱えていたのかは知らないけど、例えばらばらになっても、人は欠片を拾って生きて行くんだよ。外れそうになったら誰かに支えてもらって、不便でも何でも、乗り越えようとするんだよ。だけど、透は欠片を拾うことすらしてないよ。逃げるなんて、一番してはいけないことだよ……」
千代も花圃も、二人は今にも泣き出しそうだった。
透は二人の姿を見ていることができず、少女たちから目を逸らし、後部座席に乗り込んだ。
程無く、若い刑事が運転席に乗り込み、車は動き出した。
千代、花圃。本当にごめんな……。
二人の姿はあっという間に小さくなっていき、車内からはすぐに見えなくなった。
終わった。これで何もかも、終わったんだ。そう悟った途端、透は強烈な睡魔に襲われた。
「草光さん、警察署まで、あと何分で着きますか?」
透が尋ねると、隣に座る草光は、腕時計へと目を向ける。
「大体、十分ってところだろう」
「そうですか。じゃあ、その間、ちょっと寝てても良いですか?何か、ずっと眠れなくて……」
「あぁ、構わないよ」
草光の返事を聞き、透は安心して、うつらうつらしながら項垂れる。
口の中にはいつの間にか血が流れていた。
千代に殴られた時に、口内に傷ができたのか、前日に自分で噛み締めてできた傷が開いたのか。どちらにしろ、口の中は血の味が拡がっていた。
体内から流れ出る赤い生命。生命を知覚する体の器官。それらは透が生きて、活動していることを主張している。
「草光さん、どうしてでしょう。父を殺したら、すごく気分が良くなると思っていたのですが、逆でした。前よりも、父に対する怒りや憎しみが強くなった。それで、なぜか今頃になって、ほっとしているんです。絶対に捕まる訳にはいかないって、思ってたのに……」
透は朧げな意識の中、おもむろに目を閉じた。五年ぶりの安眠に就く為に。
「聡明な君なら、すぐに答えは見つけられるだろう。君には、君を支えてくれる友達もいるからね」
草光は透が眠っていることを知っていたが、優しく微笑み、彼に声をかけた。
温かい毛布を、幼子の肌に傷がつかないよう、そっとかける、父親のように、優しく……。
これにて『氷の欠片』は完結です。