07 「最近誰かに見られてる気がするんです」「……疲れてるんじゃ」「ないです。絶対気のせいじゃないです」
翌日、酔曜日。
一週間の七日のうち、休日は怒曜日と日曜日の二日。五日間連続してある平日の、ちょうど真ん中の三日目が酔曜日だ。
神様は一週間で一区切りの生活を送っていて、酔曜日は神様が酒を呑んで酔っぱらっている日と言われている。そのせいで神様も気が緩んでいて、悪さをしても少しだけならばれないらしい。まあ、いわゆる神様の安息日なのかもしれないが、だからと言って人が休んで良いとはならないのが、世の中の厳しさというもの。今日も大人はせっせと働き、子供は勉学に励むのだ。
その日は、朝からクラスの様子がおかしかった。
朝、シーが教室に入ると、一瞬だけクラス中の雑談が止み、視線がシーに集中した、気がした。自意識過剰だと言われてしまえばそれで終わりだが、確かに好奇心という名の視線が自分にぶつけられたと、シーは感じたのだ。その時点で、薄々と嫌な予感はしていた。
しかし、予感だけで行動を変えるほど自身の勘を信用していないシーは、いつも通り席に着く。その際に、昨日グレイディールに言われたことも思いだし、きちんと朝の挨拶はしておいた。
席に座ったシーは鞄の中身を机に移し換え、学校での睡眠を摂ろうとする。しかし、いつもとクラスの空気が違うせいか、上手く寝付くことができない。
(何だこれ……)
何故だか、シーの背後、すなわち視界の外から突き刺さるような視線を感じるのだが、そちらを振り向いても誰もシーの方を見てはいない。仕方がないので気のせいだということにして、無理矢理違和感を圧し殺した。
表面上は各自が勝手に好きなことをしゃべっている、つまりいつもと全く変わらないだけに、誰かに違和感について訊くこともできない。モヤモヤとよく分からないものに悩まされながらも、それに黙って耐えるしかない。こういうときに、冗談半分に話しかけられるような相手がいないことが、ここに来て仇となった気がした。
ただの違和感が確信に変わったのは、セリナが登校してきたときだった。
セリナもクラスの異様な雰囲気を感じ取ったのか、教室に入るなり戸惑った顔をする。しかし、シーと同じように気にしない振りをすると、自分の席に腰を下ろした。
シーは仲間がいたことに少しだけ安心すると、再び昨日のグレイディールの言葉を思い出す。そして、まだ入るとは言ってないが、セリナにも挨拶をしておくことにした。
「おはよう、セ――」
リナ、と言おうとした瞬間、シーは気づいた。
――先程までずっと聞こえていたおしゃべりの声が、全く聞こえない。
素早くシーはクラスに視線を走らせるが、そこに広がっているのはやはり、いつもの風景だ。先程感じ取った静寂はどこかへ消え去り、生徒たちの喧騒が耳に入ってきている。
挨拶をされたことに驚いたのか、少しどもりながらシーを見るセリナ。
「お、おはよう。……どうかしたの?」
「……ううん、何でもない。おはよう、セリナ」
シーは周囲をさりげなく観察しながら挨拶をするが、今度は先程のように露骨な異変はなかった。セリナの不思議そうな顔を見る限り、セリナは気づいていないようだ。
挨拶を済ませるとシーは寝る態勢に入ろうとする。結局、分からないものは分からない。ならばそれに頭を捻るような面倒くさいことはせずに、睡眠を摂った方が有意義だと考えたのだ。
ああ、クソ。
それで終わりかよ。
もう少しだけ頑張ればいいのに。
珍しいこともあるもんだな。
夢の世界へと落ちていく直前、シーにはそんな声が聞こえた気がした。クラスには何故か、残念そうな雰囲気が漂っていた。
その後も、その奇妙な状態は持続した。
シーは常に、誰かに監視されているような粘っこい視線を受け、それは恐らく複数からのものだ。それが途絶えることも頻繁にあるが、シーが何か行動を起こすたびに、素早く視線が集まってくる。一体何を察知しようとしているのか、シーには皆目見当がつかない。目立ちたい、とは真逆の願望を抱くシーは、この状態は苦痛でしかなかった。
ノートを録ろうと鉛筆を持つ。シーの手元に視線が集まる。
休憩時間にトイレに行こうとする。必ず何人かが少し遅れて席を立つ。
クラスの中を見回してみる。シーを見ている人は絶対にいない。
正直なところ、かなり鬱陶しかった。
また、これは確実ではないが、セリナもまた同じ被害にあっているようだ。
セリナが何か行動を起こすたびに、クラスの空気がほんの僅かに乱れる。それは、気配と形容してもおかしくないほど曖昧なものだったが、シーにははっきりと感じ取れた。
セリナ本人も気づいているようだが、シーほど敏感に感じ取っているわけではないのか、あまり気にしている様子はない。些細なことは気にしない大物なのか、些細なことには気づけない鈍感なのか。恐らく、両方だろう。
セリナは非常におおらかな性格をしている。
唐突にシーはあることを思い付いた。そして、それに勝算があると思うと、その考えに従ってクラスを眺めてみる。
(……お。目が合った。ありゃりゃ、慌てて逸らされた)
すると、見事にそれは成功した。
自分達を監視している生徒達は、(全くもって無駄な技術だが)誰が行っているのかを目標に気づかれずに監視を行うことができるようだ。目標に全力で集中力を注ぎ込み、注意深く監視しているのだろう。今のシーには、それを破ることはできない。
しかし、そちらに集中力を注いでいるだけに、先生に質問されたときなどは上手く答えられない生徒もいる。相手の一挙一動を追えるのは、目標に対してだけなのだ。
ならば、自分ではなくセリナを監視している生徒を探せばよいのではないか。そう考え、シーはクラスを見回したのだ。
(あー、いたいたまた発見。ねえねえ、君たちは何を考えてるのー? 目を逸らさないで答えてよー。全然、イラついてなんか、い・な・い・か・ら。ほんとだよー?)
若干の苛立ちを込めてその生徒を見つめると、相手はすぐに目を逸らす。仕方ないので他の生徒を探し、その生徒の目を見つめる。
そんなことを繰り返していたら、自分に向けられる視線の中に尊敬が混じりだしたような気が、シーにはしたのだった。
それからというもの、段々と生徒たちのやることが露骨になってきた。
シーがセリナに話しかけると、小さく黄色い歓声があがる。
セリナがシーの落とした消ゴムを拾うと、ひそひそと何かを囁き合う声がする。
露骨になれば、監視をして来ている人間が誰かは分かる。実際に、シーは何人もの人間と目が合うようになった。
しかし、同時に作戦を変更したのか、目が合っても逸らすようなことはせず、堂々と注視してくる。何か用かと訊いてみても、生暖かい視線を送りながら、謝ってくる。自分にそれをしてくる人間を覚えようとしても、途中でクラスのほぼ全員だと気づいたので、意味がないことを悟った。
まとめて相手をするには数が多い。理由を訊いても答えてくれない(強引に何かを行うことがシーはあまり好きではない)。一番始末が悪いのは、表面上は謝っては来るが、絶対にやめないことだ。
これはもう、ちょっとしたいじめなんじゃないかと、シーは思った。
シーが歴史の教科書を忘れ、セリナのものを見せてもらったとき、ようやく、遅まきながら、やっとのことで、シーは皆が何を見ているのかを理解した。
シーが少しだけ身をのり出し、セリナの方へ寄る。
すると、授業中だというのに、これまでで最大の(しかし怒られない程度の)どよめきが上がる。
(あー、セリナと何をしているのかが気になるのかな? 僕らがセリナを勧誘したことがばれたのか、はたまた全く別の理由か)
シーは冷静に状況を観察するが、現状では打つ手はない。シーは窓際の席なのだから隣はセリナしかいないし、歴史の先生は黒板を使わない。授業についていくためには教科書が必要で、それにはセリナに見せてもらうしかないのだから。
監視の対象は分かった。だが、理由が分からない。また、どうすれば監視がなくなるのか、ということも、根本的な解決方法は見つからない。
シーはこれ以上ないほどの居心地の悪さを感じながら、授業を受け、休憩時間を待つのだった。
そうして、待ちに待った昼休憩になると共に、シーは弁当を持って教室から逃げ出す。セリナの隣で食べるのは、少々気が重かったのだ。
何食わぬ顔をして追けてくるクラスメイトを見て、シーは小さく溜め息を吐いた。
(何なんだろうねあの輝いてる眼は。面白そうなことがあったときだけ団結してくるのは、本当に止めてほしいなあ。……というか、一人くらい親切な裏切り者はいてもいいのに)
いまだにこっそりでも理由を教えてくれる人がいないのは何故なのか。
それは、二年三組の暗黙の了解、面白そうなことを焚き付けているときは邪魔するな、が徹底的に守られているからに他ならない。
たった一週間で制定され、あっという間もなく根付き、二月近く守られ続けているルール。それが破られたことは一度も無く、将来的にも無いだろうことは、シーも分かっていた。その自律する力を、規則を守る心を、もっと有効に使ってくれとは、担任の先生の言だ。当事者になってその言葉を深く実感した。
シーはぶらぶらと廊下をうろつく。
しかし、追跡者は一向に諦めない。
仕方無いので、シーは歩きながら弁当を食べる場所を思い浮かべ、候補を絞ってみる。すると、それはすぐに決定した。
他の教室は入りづらい。図書室は飲食禁止。食堂は座れない。体育館は暑い。中庭は人が多い。旧校舎は埃っぽい。そうやって候補を消去して行くと、最終的には一ヶ所しか残らなかった。
通称、裏庭。
日当たりが悪く、人通りが少なく、人が少なく、清潔で、涼しい、理想的な場所だ。
何故人が来ないかというと、そちらには何も無いからだ。また、常に校舎の陰になっているので、薄暗いこともその理由の一つだ。去年はそこは、素行の良くない生徒の溜まり場となっていたことも理由にあげられていたが、学年末に生徒会と風紀委員会が大掃除をしたので、今は誰もいないはずだ。
はずだったのだが。
「あり……?」
シーがそこに辿り着くと、既にそこには先客がいた。
裏庭に備え付けられている小さなベンチで、大きな大きな握り飯に食らいついている大男。短く刈り込んだ髪。鋭い目は真剣そのもの。鍛え上げられたその手で握り飯をしっかりと掴むのは――。
「んぐ、おお! シーではないか! 奇遇だな」
「……一日ぶりだね、ハッサン」
老け顔の十七歳。ハッサンだった。
そして、驚きはそれだけでは止まらない。
シーが苦笑いをしながら固まっているときに、さらに後ろから声をかけられたのだ。
「え……? シー、と、ハッサン?」
その高くて澄んだ声は、最近聞いたことのある声。シーが恐る恐る振り返ってみると、緩く編んだ薄茶の髪が特徴的な少女と目があった。紛う事なきセリナだった。 シーは一瞬思考が停止し、動きが止まってしまう。
すかさず、ハッサンがセリナに話しかけた。
「おお! セリナではないか! 奇遇だな」
「え? あ、そうだね。奇遇だね」
急に話しかけられ、セリナは適当な返事をする。しかし、ハッサンはめげない。
「ハッハッハ、珍しいことだ! ここは誰も来ないから、二人が初めての客人となるな! 何故こんな辺鄙なところへ来たのだ?」
「えっと、その」
「そう恥ずかしがるな、別にやましいことがあるわけでもないだろう! ま、言いたくないなら言わなくても大丈夫だ! 裏庭は生徒全員のものだからな!」
「そ、そうかもね」
「で、どうかしたのか? 必要だと言うならば力を貸すぞ? 婦女子の助けは断らないのが男子だ! ハッハッハ!」
ハッサンは豪快に笑って見せた。
その調子に引きずられたのか、言おうか言うまいか、セリナは少しだけ逡巡する。しかし、すぐに迷いは捨てたようで、完全に除け者になっているシーをちらりと見た後、恥ずかしそうに言った。
「あの、気のせいかもしれないんだけど、今日は朝から誰かに見られてる気がして」
最初は少しだけ勢いがあったが、段々と尻すぼみになって行く。それは、自信の無さの現れだろう。
「い、いや、自意識過剰なのかもしれないんだけど! ……何となく、教室から出たくなっちゃって、歩き回ってたの。けど、どこにいっても見られてる気がするし、お弁当は食べたいし……。そしたら、涼しそうで人の少ない場所を思い出して、それで」
ここに来た、とセリナは言った。
要するに、シーと同じ理由である。
ほうほう、と納得したように頷いているハッサンと眼を瞑って何かに耐えているシー。言いたいことは色々あったが、シーはあえて口にはせず、心の中で思いっきり叫んだ。
(……気のせいかもって、そんなわけあるか――!!)
原因不明の好奇心による、全方位からの視線の嵐。せめて原因さえ分かれば何とかなるが、もしこれが三日も続いてしまったら、確実に何らかの心の病に冒される。そう断言できるほどの暴力的な集中攻撃。繊細とは言い難い性格を持つシーでさえ、それぐらいストレスを感じているのだ。
それを、気のせいかも、と言ってみせたセリナは、シーの予想以上に鈍いのかもしれない。
しかし、期せずしてセリナがここに来た理由を知れたシーは、ほっと安堵の息を吐いた。一ヶ所にまとめた方が監視が楽だ、何て理由で意識しないうちに集められたのだとしたら、それはもうクラスメイトに対して見る目が変わりそうだったからだ。怖すぎる。
二人の反応を気にしているセリナを安心させるように、シーは自分の理由を言う。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、僕とおんなじ理由だね」
「そうなの? ……これ、何なんだろうね」
シーの言葉を聞いて、驚くと共に安心するセリナ。そんなセリナに、シーは強い口調で言う。
「いや、僕もさっぱり心当たりがなくて、ちょっと困ってる。気のせいでは絶対ないけど」
「そっか。もし違ってたら恥ずかしい人だから、他の人には言いづらかったの。そう言ってもらえると安心する」
そう言って、セリナははにかんで笑ってみせた。
「おお? 問題は解決したか? ならば飯を食おうじゃないか! オレたちは育ち盛りだからな!」
話は済んだと判断したのか、ハッサンは二人に座るよう促し、自分は二人に勧めたベンチの向かい側にあるベンチに座る。ハッサンが握り飯を食べ始めたのを見てシーとセリナもベンチに座り、それぞれの弁当箱の蓋を開けた。
弁当の内容は、二人とも昨日と大差無い。しかし、ハッサンの弁当の方がセリナより豪快なので、セリナはそっと胸を撫で下ろした。
弁当を入れていた袋から箸を取り出し、弁当を食べ始める。
邪魔が入る気配は一切無い。
これ以上無いほど、平和だ。
静かで涼やかな空間で、三人とも黙々と弁当を食べ、水筒のお茶を飲む。裏庭に面している建物の一階には窓も無いので、本当に人の眼を気にしなくていい。シーはここが大変気に入った。
監視の目はいつの間にか無くなっている。とは言っても、シーには感じ取れなくなっているというだけで、実際には双眼鏡で遠くから覗き見、と言うことがありうるのが二年三組の恐ろしいところだ。何故こんなに似たような奴等を集めたのか、と文句を言いたくなるぐらい仲の良い彼らは、本気を出せばメーターが振り切れるくらい暴走する。今回、そこまではいかないことを、切に願うシーだった。
セリナが羨ましそうにシーを見つめ、シーが再びおかずをあげる。それを愉快そうにハッサンが見つめる。
セリナがお礼にお茶をあげようとしたがコップが無く、召喚獣の能力を使用しようとする。ナイフを取り出したセリナをシーが慌てて止める。
そして、弁当箱の空きが目立ち始めた頃、再び問題が起こった。
「はっけえぇぇんんん!」
二階から人が落ちてきたのだ。
「うわ!」
「ひっ!」
「ぬう?」
何かを叫びながら落ちてくる人に対して、シーは驚きの声を、セリナは怯えている声を、ハッサンは不思議そうな声を出す。シーとセリナはそちらを振り返って身構え、ハッサンは握り飯を包み紙の上に置いた。
落ちてきたのは、黒髪の少年。シーもよく知っているクラスメイト、グレイディールだ。
グレイディールは、ざっ、と音を立てて草地に着地すると、すぐさま立ち上がりシーに詰め寄る。そして、シーの胸ぐらを乱暴に掴むと、我慢がならないとでも言うように怒鳴り散らした。
「シーぃぃぃ! おぉまぁえぇはぁ、何で教室にいない! 昼休憩に勧誘について話し合うって、昨日言っといただろぉが!」
「わ、わ、わ、ちょっと落ち着いて、揺らさないでっ」
シーの体をゆっさゆっさと揺さぶりながら、ぎろりと睨み付けるグレイディール。その様子はまさに怒り心頭といったもので、完全に頭に血が上っていた。
「何でこんなに分かりにくいところにいる! 学校中探し回ることになったぞ!」
「ごめん、人が、少ない、ところに」
「ああ? お前はヒキコモリか! そんなに人の目が気になるなら、自分の部屋から出てくんな!」
「ご、ごめ、ん、ちょ、揺らさない、で、吐く」
「大体、何故教室を出た! 忘れてたとでも言うつもりか!」
ぐ、とシーを引っ張りあげ、グレイディールは顔を近づけた。
シーは何と言えば怒りが収まるのか、揺れる頭で必死に考える。しかし、上手い考えは浮かばず、結局正直に答えた。
「……いや、ほら。忘れてた」
グレイディールの額に青筋が浮かぶ。シーはそれを見て、不味いな、と他人事のように観察する。
「こんの鳥頭がぁ!」
「うぎっ!」
結果、グレイディールの頭突きをくらい、シーはベンチに崩れ落ちたのだった。
下の方から聞こえる、石頭、という声は、グレイディールには全く届いていない。そして、ふん、と荒々しく鼻息を吐き、片眼鏡を整えたところで、今更ながら、この一部始終を見ていた第三者の存在に、グレイディールは気づいた。
セリナはひきつった顔をしてグレイディールを見つめている。そして、グレイディールと目が合った途端、体を固くする。
セリナには少々刺激が強かったようだった。
一方、ハッサンはというと、面白そうにグレイディールを観察している。そして、グレイディールと目が合うと、にやり、と不適に笑って見せた。
それを見たグレイディールがハッサンの方へ向き直る。
すると、ハッサンもベンチから立ち上がった。
グレイディールは鋭い目付きでハッサンを睨み付ける。ハッサンも笑みを消し、真剣な表情でグレイディールを見据える。両者の視線が交錯し、それ自体が意思を持ったかのように絡まり合った。
場の空気が一気に重くなり、触れたら爆発しそうなほどピリピリとした何かが、二人の間に漂う。
グレイディールが、シーが聞いたことの無いような低い声で問いかけた。
「貴様……何者だ?」
ハッサンはとぼけるような口調で、答える。
「何のことだ?」
「しらばっくれるな!」
グレイディールが声を張り上げる。その口調の真剣さに、シーは思わず息をのみ、その剣幕に、セリナは怯えて体を震わせた。
ハッサンは興味深げに、値踏みするように、グレイディールを眺める。それには底が全く見えない余裕が見られ、それによって引き起こされる、得体の知れないものに対する恐怖が、セリナを襲った。
グレイディールは依然として険しい顔をしていて、それが気に障ったのか、ハッサンも獰猛な肉食獣を思わせる表情を作る。二人の間の空気が、さらに張り詰めて行く。
一触即発。
それを破ったのはハッサンの高らかな宣言だった。
「クハハハハ、よく分かったな! そうだ! 儂こそが、太古の昔に滅びた妖魔の子孫。この人間の世の崩壊を狙う、生きる災厄そのものよ!」
「ええ!? そんな……!?」
セリナが息を呑む。
グレイディールが叫んだ。
「採用!」
グレイディールとハッサンは、固く握手をした。
「うむ、よろしく頼む」
「ああ、しっかり働いてくれ」
「え?」
ぽかんとした顔をしているセリナは状況がうまく理解できていないようだ。さっきまでの緊迫した空気との落差に、ついていけていない。
シーも驚いてはいるが、それは二人の息がこんなにも合っていることにである。こうしたやり取りは昨日経験済みなので、ハッサンの笑いを堪えているような真剣な表情を見た時点で、何となく結果が分かっていたのだ。
何食わぬ顔で紹介を始めるグレイディール。
「と、いうわけで。四人目のメンバーのハッサンだ」
「うむ、これでオレ達は戦友というわけだな! ハッハッハー!」
「ごめん、僕はそのノリにはついていけないや」
シーは呆れ気味に溜め息を吐く。
「因みに三人目はお前だぞ、セリナ」
「え? ええ!? 何で入ったことになってるの?」
セリナは驚きの声をあげる。
「今の何?」
「採用試験」
「え? いや、え? 唐突、じゃなくて打ち合わせとかしたの?」
「ハーッハッハ、ノリだノリ! ノリノリだったぞ!」
「グッジョブ」
「え? つまり……? あれはアドリブ? 即興? え?」
「落ち着いて、セリナ。グレイディールは意外とアレなんだ。馬鹿」
「ハーッハッハー!」
セリナを宥めながら、他の二人に冷たい視線を注ぐシー。またいつものキリッとした顔で、さも当然のように答えるグレイディール。思考停止状態に陥っているセリナ。ひたすら大笑いするハッサン。
カオスとも言えるこの状況を作り出したのは他ならぬ自分達だ。
忘れてはいけないのは、ハッサンもグレイディールも、シーやセリナでさえ、二年三組の生徒だということだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
昨日、つまりグレイディールの幼なじみの勧誘は失敗していた。
理由は単純。断られたからである。
グレイディールは手伝わせる気が満々で、例えやる気がなくても無理矢理引き入れるつもりだった。しかし、運の悪いことに、剣術部は近々試合があるらしい。それがかなり大きな大会で、もし怪我などして出ることができなかったら、期待してもらっている先輩方に申し訳が立たない、と必死に断られたのだ。
赤ん坊の頃からの付き合いなので、脅すためのネタは山ほどある。だが、あまりにも必死な土下座を見て満足したグレイディールは、惨めな幼なじみを罵倒し踏みつけるだけで許してやった、らしい。
鬼である。
まあ、何はともあれ、最低三人というラインはクリアした。最初言った通り定員ギリギリまで集めたいが、無理するほどのことではない。今日の放課後は一先ず解散することになった。
しかし、グレイディールが情報収集のためにと教室を出る前に、シーには聞いておかなければいけないことがある。
「グレイディール。ちょっと来て」
そう言って手招きをしてグレイディールを呼び寄せると、周囲の生徒に聞こえないように小声で言った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「何で僕とセリナがクラスのターゲットになってるの? 何か知らない?」
こっちが監視に気づいていることは、向こうも気づいている。ならば遠回しなやり方は止め、直接アプローチをかけてくるのも時間の問題だ。そうであれば理由を聞いてもはぐらかすようなことはせず、むしろ、直接それについて聞いてくるはず。
今ならば、聞いても答えてくれる、とシーは判断したのだ。
予想通り、今ならば答えても問題はないと思ったのか、グレイディールは自然に頷いた。
「ああ、そのことか」
グレイディールは意地悪そうな顔をして笑うと、得意気に言った。
「いやな、シーがセリナに告白したっていう噂が流れていてな」
「んな!?」
「しっ!」
驚きのあまり叫びそうになったシーを、鋭い一瞥で黙らせるグレイディール。シーも慌てて口を噤んだ。
シーは困惑しながらも、小声で問いかける。
「何だよそれ」
「しかも、自分の名を捧げます、って言ったって」
「……それプロポーズじゃん」
あまりのことに開いた口が塞がらないシー。それをグレイディールは楽しそうに見ている。
「まあ落ち着け。根も葉もない噂だ。すぐ消える」
「けど、人の噂は七億五千日って」
「おい、誰だそんな嘘をお前に教えたのは」
「僕が考えた」
「考えんな」
グレイディールは一言で切り捨てた。
知りたいことは大体分かった。しかし、火のないところには煙は立たないはずだ。なぜそんな噂が流れたのか、シーは納得がいかなかった。
そんなシーの思いを察したのか、グレイディールは理由を教えてくれた。
「原因は、あれだな。昨日、シーとセリナが授業に遅れたせいだな。二人一緒に入ってくるし、セリナは顔が赤かったし、言い訳が嘘っぽかたったしで、なーんかそういう噂が流れたみたいだ」
他にも色々理由はあるがな、と付け加えながらグレイディールは言った。
それだけでプロポーズとは話が飛躍しすぎだと思ったが、人の噂は膨らむものと、相場は決まっている。しかも、閉じた世界で数十人単位の人が同じ噂をすれば、話が膨らむ速度も尋常ではないのだろう。何せ、自分が誇張して話したことを、何倍にも膨らんだ状態で聞かされ、それをさらに誇張するということを繰り返すのだから。
話がどんな夢物語になろうが何ら不思議はない。
唯一の救いは、二年三組の生徒は皆、熱しやすくて冷めやすい、という一点だろうか。
「何だかなあ」
「まあ、訊かれたら嘘だったって言っといてやるから」
「誰だよそんな噂流した奴。ていうか、皆そのうち馬々に蹴られて死ぬんじゃないかな」
「かもな」
憤慨するシーに、グレイディールはなげやりな返事をする。
できるだけ早く済んでほしいなぁ、他人事のようなと感想を漏らしながら、シーは溜め息を吐いた。