キズ女と仮面の魔術師
書いておいて放置していたので、携帯から投稿です。リアルの忙しさに、執筆が出来ない……
――昔話をしよう
それは、街に自動車はなく馬車の走っていた時代
紳士はスーツではなくテイルコートやタキシード、淑女は肌の露出を控えたバッスルスタイルのドレスを着ていた時代――
なに?自動車はあっただろう?
確かにそうさね、自動車が開発された時代でもあるが、それよりももうちょっとだけ前の時代なのさ。
――とある所に、一人のなんとも気味の悪い女が居た――
「私の顔を返せ!!」
つるりとした美しい顔を両手で覆った男が、悲痛な叫び声をあげた。
驚いたのは目の前に居た背の曲がった老女である。
「どうしてだい?綺麗な顔に戻れて嬉しくはないのかい?」
酷く嗄れた声の老女に問われた男は、渡り廊下に落ちていた黒地に白い蔓模様の仮面を拾い上げその美しい肌の顔に嵌める。
「そのキズは私のものだ、私の顔だ!」
「でもあんたは仮面で顔を隠しているだろう?いやなんだろう?」
老女の問いかけに、男は醜い声を発したその顔を掴む。
「そうだ、このキズは嫌いだ。しかし、私のモノを勝手に盗むことは許さぬ」
男が掴んだ老女の顔は火傷の痕か、酷く引き攣りケロイドがでこぼこと顔全面を覆っていた。目は膨らんだ皮膚に覆われ見えているか定かではなく、しかし鼻は骨から削ぎ落とされたかのよう平坦で、口はひん曲がり閉じることが叶わぬのか、よだれが伝っていた。
おぞましいその姿。
まるでお伽噺で描かれる怪物そのものである。
「でもこれはあんたの『心のキズ』だろう?だったらあたしが貰うのがスジだろうて」
「その代わりにお前の無傷の肌を貰い受けるというのか!?」
「そうさ、それがあたしの仕事だ。まぁ、今回は貰っただけだけどね。あたしの肌はシワだらけだから、あんたにやっちまったらしわくちゃのじじいになっちまうよ。キズを貰う、やれる時はやる。それがあたしがここにいる意味なんだから、あたしはまっとうに仕事をしただけだ」
その言葉に、男が老女の顔を掴んでいた手に力を込めた。
「いたい、いたい、いたい!やめとくれ!皮膚が破けちまうよぉ」
ただでさえ醜い顔が苦痛に歪むと、直視することも出来ぬほどのおぞましさになる。
叫びあげた口は所々歯が抜け、しかも黄ばんでいた。
「ならば返せ!その痛みごと私にキズを返せ!!」
「だめだよぉ、だめだよぉ。これはもうあたしのもんだよぉ」
「馬鹿を言うな!返せ!!」
「だめなんだよぉ、王様に怒られちまう!許しとくれよぉ……」
あまりの痛さに口走った言葉を男は拾い上げ、老女の顔を離すと、しかし今度は皺の寄った手を握りしめた。
「王と言ったな……アレが何を命じた!」
「いたたた!くそっ、手だってこないだキズを貰ったばっかなんだ!逃げやしないから離しとくれ!!」
老女の痛みに歪んだ顔を見て、男は力を弛めた。しかし、離すことはしなかった。
「仕方ないだろう?王様が仰ったんだ!今度の舞踏会にあんたを連れてくってね!仮面のまんまじゃ皆が気味悪がるから、キズを貰えって仰ったんだ!!」
男が無作法にも舌打ちすると、老女がビクリと身を震わせた。そんな小さな動作すら、不気味に写るのだ。
「断ったというに……」
「あんたが断ったから悪いんだろう!幻視の魔法を使っていいって言ったのに頑なに断るもんだから王様にあんたのキズを取れって言われたんだ!」
「全く余計なことを……」
呆れ声で小さく首を振った男は、老女の手を離すと仮面から覗く目を細めた。
「事情はわかった。しかし、それは私のモノだ。返さぬというのなら……」
「な、なんだっていうんだい」
老女の怯えた声に、男の口が歪んだ笑みを描く。しかし、口を覆い隠した仮面で老女はその表情を見ることはなかった。
ふるふると身を震わせていると、転移の魔法を展開したのか、眼前で男が消えた。
老女は、その場でがっくりと膝を折った。
後日、ホールに麗しい顔の男が居た。
切れ長の目に嵌っているのは冷徹そうな瑠璃に似た瞳、緩く結わえられた髪は光を弾く漆黒。
魔術師の名に相応しいローブ姿で王の傍らに立つ姿に、美しく着飾った女たちが感嘆のため息を洩らす。
妖しい魅力に、女だけではなく男すら釘付けになっていたという。
「あぁ、いやだいやだ。もう付きまとわないでおくれな!!」
今日も王宮の一角にしては粗末な一軒家に、おぞましい声が響く。
「付きまとって欲しくないと言うのなら顔を返せ」
痛む腰に手を当て、キッチンでコトコトと何かを煮込んでいる老女の真後ろで、魔術師が不機嫌な声を返した。
「ふん!顔は持ってるだろう」
「……私の顔のキズを返せ」
揚げ足をとる言葉に、ただ律儀に訂正を入れる魔術師を振り返り見やった老女はうんざりとした様子で肩を落とした。
「何度も言ってるだろう!王様がお許しになったら返してやるって!ほれ、邪魔だよ!あぁもう、皿が取れないじゃないかい」
右後ろの食器棚からスープ皿を取ろうと老女が手を伸ばす。しかし魔術師がその手首を掴んだ。
何をするかと思えば、老女の手を下げさせ魔術師が自ら食器棚の戸をあける。
「これか」
すっと差し出された皿を老女は受け取った。
「あぁ、あぁ、まったく。何処に何があるか覚えるほどに、あたしが何が欲しいかわかるようになっちまうぐらいあんたはここに来てるってわかってるのかい?そんなに魔術師ってやつは暇なのかね?」
嫌味に満ちた老女の言葉に、魔術師はフンッと鼻を鳴らす。
「お前が私の顔、のキズを返せばいいのだ」
「まったくしつこいねぇ……」
老女は馴れた手付きで皿にスープを注ぐ。老女は王宮にあるが、かしづかれて生活している訳ではない。この粗末な小屋としか言えない一軒家で全てのことは全て自分で賄っている。
家のそばの畑を耕し自給自足。食べきれない分は王宮の調理場に持っていけば物々交換で、肉や小麦粉が貰える。
「あぁ、くそっ!」
もう癖になってしまったのか、一人分でいいはずなのに、二枚目の皿が出されてしまったのでうっかりスープを注いでしまった。
「女がそんな汚い言葉を使うものではない」
老女が悪態をつく原因である魔術師は、ただ平坦な声で注意すると、二つのスープ皿をテーブルへと運んだ。
老女はぞんざいな手付きでオーブンの扉を開くと素手を突っ込み焼きたてのパンを取り出した。それをナイフで真っ二つに切るとそのままテーブルへと足を引き摺り歩く。
「なんだってあんたなんかに飯を食わしてやってるんだろうね、あたしは!」
憤り、叩くように空の皿にパンを乗せた。
「ふん、美味そうだ」
魔術師のトンチンカンな言葉に、老女は腕を組んで顔を背ける。
そんな老女に構うことなく、魔術師は両手を握り合わせ、「今日の糧に感謝を」とお決まりの文句を言う。
老女は怒る自分にか、そんな自分に構うこと間なく唯我独尊を貫く魔術師に対してなのかわからぬ呆れを息に乗せると、魔術師に倣って食事前の挨拶を口にした。
先に食べ終えたのは魔術師で、老女が手元に置いたハンカチで時折口元を拭いながら食事をする様子を無言で眺めていた。
「なにが楽しくてこんな気味悪いババアが飯食ってるのをみてるんだか」
老女に何を言われても、魔術師は無言を貫く。食べている間だけは外している仮面も、すでに魔術師の顔にはまっているため、老女には何も読むことが出来ない。
「あーあー、まった……」
いつも通りの文句を吐こうとした刹那、老女の左手にあった大きなアザがすぅと消えた。
「なんだ……?」
いぶかしんだ声で、老女のアザが消えた左手を魔術師が見つめる。
「このアザの本当の持ち主が死んじまったのさ……。そうかい、あの子は死んじまったのか……」
老女が、盛り上がった皮膚に覆われた目を閉じる。
「まだ……若かったはずだけどねぇ……」
手に取っていたパンを皿に戻すと、老女は胸の前で手を合わせ、黙祷を捧げた。
「キズの持ち主が死ねば、お前のキズも消えるのか?」
黙祷を捧げているからか、老女は動きも喋りもしない。
魔術師は無言で待った。暫くして老女が食事を再開すると、同じ質問をぶつける。
「消えるんじゃない、帰るのさ。キズの持ち主にね」
魔術師が老女を無言で見つめる。続きを欲している事を察しはしたが、老女はそれ以後黙り、食事を進めた。
あたしはキズを貰う。キズ女だからね。あたしがキズを貰うかわりに、あたしはあたしの体をやることもある。アザとか切り傷なんてのは貰うだけだがね。声が壊れちまったとか、鼻が削げちまったなんて時はあたしのをあげるのさ。それは知ってるだろう?
そうさ、あたしだって最初はこんな見てくれじゃなかったよ。
キズって言っても様々でね、切り傷、刺し傷、火傷なんてもんだけじゃない。『心のキズ』になってるもんもなんでも貰える。
歯が欠けちまって無くなったら歯だってやれるし、骨が曲がっちまってたら、骨もやれる。
……心のキズってのは奥が深くてね。嬉しいって事が解らない子に嬉しいって思う感情をやったこともあるさ。
なぁに、嬉しいってことを知ったその子の心が育って欠けてた感情が埋ったから、勝手に帰ってきたさ。だから、あたしだって嬉しいって今は思うことも出来るさね。まあ、あんたのせいでとんと嬉しいって思えなくなってるけどね。
ふん、よく言うよ。
いいや、そうでもないのさ。あたしより先に死んじまうとキズは帰っちまうが、あたしが先に死ねばそのキズはそのままあたしが持ってくのさ。
……だからキズ女は早く死ぬ。病気も貰うしね。
なんだ、怒ってるのかい?ははっ、それがキズ女の宿命さね。なぁに、あたしはまだ死なないよ。大切な仕事が一つ残ってるからね。
流石にたかだか二十そこらで死にたかないさ。
「二十……?」
老女の言葉に魔術師が声をあげた。
「こんな見た目だからね、そりゃババアにしか見えないだろうさ。しゃんとした背中もやっちまったし、若い肌もくれてやった。この白髪の髪も貰いもんさ」
「おまえは……それでいいのか?」
やけに低い声だった。
「さてねぇ、欲望って言うのかね?嫌だって、抗いたいって、綺麗になりたいって気持ちは死にかけのキズ女に持って行かれちまったから解らないんだよ」
老女の言葉はなんの感情も挟んではいなかった。魔術師は、何故かその事が無償に悔しく感じた。
「……病気も貰えるのか」
「あぁそうさ。でもあたしはなんの病気も貰っちゃいないよ。まだ、ね」
まだと言うことは、いずれ必ず貰う時が来るのだと魔術師は確信した。
「なぜだ」
魔術師の問いかけに老女――いや、キズ女は目を伏せる。
「大事なお役目があるのさ。それが済んだら、病気も貰うようになる。あたしにキズを渡した奴らは早く死んでほしいと思ってるだろうからね、お役目が終わったら貰えるだけ貰ってお陀仏するさ」
「おまえはっ……!」
魔術師が声を荒げ、椅子を鳴らして立ち上がりかけるが、耐えるように拳を握ると椅子に座り直した。
「お前はそれでいいのか?」
「いいも悪いも、それがキズ女さ。言ったろ?嫌だって思う気持ちは死んだキズ女に持ってかれちまった。あたしがその気持ちを取り返すのは、あたしが死にかけた時――新しいキズ女が現れた時さね」
「キズ女はどうして産まれる」
「産まれるんじゃない。キズ女は……おっと、こりゃ話しちゃ行けないことだった。もうこれ以上はいいだろう?さっさと仕事に戻りな」
キズ女に追い立てられ、魔術師は粗末な一軒家を後にする。仮面の下で、怒りに盛大に眉をしかめながら。
「ふざけたことだ……」
魔術師は自分用にと宛がわれた部屋で、キズ女について詳しく知る男から奪った記憶を読み、唸るように声をあげた。
キズ女は禁忌の術を用いて<召喚>される。異界から召喚された女は、不都合な感情を奪われ抗う気持ちを無くした後に、キズ女の法をキズ女から移される。
移したキズ女はもうキズ女ではないから、貰ったキズはどの持ち主にも帰ることは出来なくなる。
「ふざけた、ことを……」
言葉や生活の知恵などというものも移す事が出来るとのことで、異界から拐われた女にその全てを移して、キズ女は赤子のようになって死ぬのだ。
いや、死ぬのではない――殺されるのだ。
「ふん……」
あのキズ女を拐って、国を出てしまおうか。
魔術師はそう思う。
元々、魔術師はこの国の民ではない。新たな魔術や、知らぬうちに生まれた知識を求めてさ迷い来ただけで、都合がよいと王宮に勤めていただけにすぎない。
煩わしい事も増えた。
王は何があるごとに、些細なことでも魔術師の術を頼り、また麗しく力のある魔術師を従えていることを自慢するかのようにつれ歩こうとする。王妃は豊満な胸を魔術師に押し付けるように腕を取ろうとし、姫なんて夜這いをかけて来たことがあった。
「腐った国だと思ってはいたが、ここで使われる魔術も腐っている。何もかも腐敗した国に、留まる理由などなにもない、か」
仮面を外し、魔術師はつるりと美しい肌に手を滑らせる。
あのケロイドまみれの顔は己のものだった。顔のキズを奪われる前、キズ女の顔はどんなだったか。
魔術師は目を閉じて記憶を探る。
あぁ、そうだ。ケロイドはなかったが、皺だらけの顔、削がれた鼻、曲がった口はそのままだった。目は……目は、そうだ、片目を閉じていた。もしかすると、誰かにくれてやってすでに無いか、見えぬのかもしれない。頬に傷もあった。
思い出しても醜い容姿だ。本当の顔は、どんななのだろうかと、魔術師はそのことが気になって仕方がなかった。
「なにも、あたしが作る不味い飯を食いにくるこたないだろ」
キズ女の呆れ声を無視して、魔術師は二人分の皿を用意する。今日の晩飯は牛の肉(と言っても切れ端だった)と、キズ女が端正込めて育てた野菜の炒めものと、スープにパン。
もう一品、何か作ろうとしているらしく小皿に卵を割り入れる。
「おまえの作る食事は上手い」
それはぼそりとした、小さな呟きだったが、キズ女の耳にはちゃんと届いた。
「ああいやだ、うっかり嬉しいって思っちまった」
「なにがうっかりだ。素直に喜べばよいだろう」
「へっ、あんたな……ああ、この卵もだめだ」
かご一杯あったはずの卵の大半を、キズ女は一つ一つ小皿に割り、見ては捨てを繰り返している。
「まったく、あんなにいい野菜をくれてやったのに、ほとんど腐ってるじゃないかい」
キズ女は自力で手に入れられない食材を、物々交換で手に入れている。しかし、そのほとんどは端切れであったり、腐りかけだった。
「理不尽だとは思わないのか」
皿を取り出し終わった魔術師がいつものようにキズ女の背後に張り付き声をかけた。
「そりゃ、ちょっとは怒る気持ちはあるがね。なんたって、こうやって逐一確認しなくちゃなんないんだから!でもね、こんな気味悪いババア、本当なら顔も見たくないだろうに、それでも交換してくれるんだから怒ったりできないさ。文句言ったら二度と卵も肉も手に入らなくなるだろう?」
キズ女が、卵の最後の一個を割る。
「ん、こいつは使えるね。三十も割って使える卵は五個かい。まぁ、こんだけありゃいいかね」
貰った肉の脂身をフライパンに落とし、油を広げると、さっとかき混ぜ味付けをした卵を入れあっという間にオムレツを作った。
その鮮やかな手付きに、魔術師は見とれていたが、「皿をお寄越しよ」と声をかけられた。
今日の食卓は少し豪華だ。
いつものように、美味そうだと呟き、そして美味いと言いながら食べる。
キズ女の顔がくしゃりと歪んだ。
「こんな腐りかけの卵使った飯なんて、食わなくてもいいだろうに」
「腐りかけだろうが、おまえの作る食事は上手い」
真顔で言われ、キズ女は手を降る。
「あーあー、わかったわかった。わかったからさっさとく食っちまいな」
照れ隠しなのだろう、ぞんざいな言い方に、魔術師が「そんな言葉遣いをするものではない」と返すのは最近のお決まりのやり取りだった。
魔術師は前と違って食事時に現れて、食事がすむと居なくなる。
何をしているのか、やけに忙しそうだと感じながら、キズ女はペロリと綺麗に食べきられた皿を洗いながら柔らかく微笑んだ。
その顔すら、人が見れば失神しそうなほどにおぞましいものだった。
「おい、出てこい」
あれから数日、夕に畑から戻ると王宮の兵士にキズ女は呼び出された。
「フードをかぶれ、汚らわしい」
野良仕事の格好そのままで出てきたキズ女に、兵士は酷い言葉を投げ掛けるが、キズ女の心が傷つくことはなかった。
右も左もわからぬ幼少期にこの世界に連れてこられてから、よく言われた台詞だからだ。
「これは失礼を致しました」
「喋るな。耳が腐る。黙ってついてこい」
キズ女は言われるままに、フードを目深に被り、兵士の後に続いた。
連れてこられたのは見慣れた部屋。『心のキズ』ではないものを移すときに使う、特別な場所だった。
(いやだねぇ、この場所は嫌いだよ)
喋るなと言われたキズ女は心の内でそう思う。キズではないものを移すのは、苦痛が伴う。のたうち回るほどの痛みを味わう。その事を嫌がおうにも思い出させる場所であり、ここにいると言うことはすなわち、その痛みを味わうはめになるからだ。
「姫の輿入れが決まった」
(あぁ、ついにお役目か。案外早かった、いや遅かったのかねぇ。姫様は十八だったっけ)
もう少し生き長らえるかと思っていたが、この仕事が終れば待っているのは数々の病魔を貰い、死ぬ自分だ。
(まぁ、心残りがあるでもなし。……いや、あいつにキズを返せない、のは申し訳ないかね……嫌っていても大事なキズだったみたいだし)
無言でいるキズ女に、姫の輿入れを告げた文官の手が触れた。その手はキズ女のフードを払い、白髪の髪を鷲掴みにする。
「ぐっ」
痛みに思わず声が洩れたが必死に抑え、抗わずに引きずられる方に足を向けた。
何か複雑な紋様の描かれた円陣の中央に立つと、もう一つの円陣に美しい女が立つ。
たったそれだけだ。美しい女が立ったのが送る円陣、送ろうと思ったものを送る事が出来る。言葉は必要ない。キズ女が立ったのが貰う円陣。キズ女が苦痛に苛まれる場所だ。
下肢に激痛が走った。
「あ、あ、う……!」
堪えようもない痛みに、化け物の断末魔と表現するに相応しいおどろおどろとした声が響く。
「うあ、あ、あぁぁあああ!!!」
痛みは下肢から全身に広がり、立つこともままならなくなったキズ女は倒れのたうち回った。
受け渡しは終わった。後は、続く苦痛が収まるまで、キズ女はここに放置される。
「あぁいや、気持ち悪いったら」
キズ女に何かを渡した姫は、汚物を見るような目付きで、キズ女を一瞥すると部屋を後にした。
そんな顔だって、キズ女には見慣れたものだった。
どのくらいの時間が過ぎただろう。
ふと気が付くと、キズ女は寝台の中に、今まさに降ろされるところだった。
横抱きに抱き抱えていたのは魔術師だ。
「あん、た」
驚きにしゃがれた声をあげると、魔術師が優しさのこもった声を返した。
「細い体だ……こんなにも、痩せ干そって」
そっと寝台に降ろされる。
「なぁ、に、定期的に脂肪も貰うから今だけ、さね」
「無理に喋らなくていい」
仮面の魔術師が労るようにキズ女の頭を撫でた。
「なぁ、お前はいつも誰かに命じられてキズを受け取っていたのか?」
語りかけるようでいて、答えを求めていない問いかけだった。それでもキズ女は答えを返す。
「そうでもな、いさ。あんたも見てた、左手のアザとか、あぁ、わかんないだろうけど、右目とかは、あたしが出会って、あたしが貰ってやろうと思って貰ったもんさ」
「そう、か」
「あの子たちが、このキズが無くなったお陰で明るくなった姿を見れた時は嬉しかったねぇ」
消えた左手のアザの相手に黙祷を捧げる姿を見ていた魔術師は、無言で頷いた。
「キズじゃないものを貰う時はいつもこうだったのだな?」
「まぁねぇ。太古の昔に定められたキズ女の力は、本当なら『心のキズ』を取り除く為のものだから、なんだろうねぇ。定めに逆らうってのは罰を受けるもんなんだろうさ」
罰を受けるべきは、キズでもないものを強制的に渡そうとする者のほうだろうと魔術師は思った。
キズ女の力は、魔術により作り出されたものではなかった。魔術師は必死にキズ女とその魔術について研究をしていたのだ。
そうして、この力が己の業で制御することが出来ないことを悟った。
しかし、収穫はあった。だから、魔術師はここを離れることに決めた。
この、傷ついたことにすら気付いていないキズ女をつれて。
「ならば、その目や、お前自身が受け取ってやったキズを返すことになるのは嫌なんだろうか」
仮面に覆われ、真意の見えない魔術師の顔を見つめ、キズ女は首を傾げた。
「そりゃ、そうさ。このキズが今更戻ってきたら、あの子たちはどう思うだろう。悲しい思いはさせたくないね」
「そうか」
魔術師はキズ女の返答にそう答えると、手でキズ女の目を覆った。
「疲れているのに、結局喋らせてしまったな、すまなかった。今は眠れ――」
眠くはなかったはずなのに、何故かキズ女はすぅーと眠りに落ちた。
魔術師はキズ女の記憶を探った。そして、返すべきものと、そうでないものを選別したのだ。
その夜、王宮の誉れである仮面の魔術師と、キズ女が消えた。
姫が隣国に嫁いだその日、閨で姫は夫となった王太子に剣を突き付けられていた。
「なぜ、破瓜の血がない」
「で、殿下……これは、その、これは……」
「やはり、姫が売女の如く爛れた女であるとの噂は真であったか」
「違う、違うのです!これは、これは……」
「キズ女とかいう哀れな女から、純血を取り上げたはずだ、と?」
「なっ、なぜ……」
姫は、国に送り返され、両国間の関係をよきものとするための婚姻は白紙に戻された。
その事件をかわぎりに、数多の悲鳴が響いた。
浮き名を馳せていた男の口がひんまがり、武勲を建てたと言われるが人をいたぶる悪癖のある男の鼻が削がれ、社交界の華と吟われた女の頬に刃物傷が現れ、世紀の歌姫の声はおぞましい怪物の声になった。
何よりも酷かったのは王と王妃である。王の背は不自然に歪み、老人そのものとなった。歯のほとんどが無くなり、ブクブクと肥えた。
王妃の白く美しいと言われた肌には皺が寄りシミだらけ、濡れ羽色の髪は白く染まり、抜け落ちた。大きく愛らしいと見るものを魅了した瞳は開いているのか閉じているのか知れない糸目に、自慢の豊かな胸は無惨なまでに萎んだ。
キズ女が貰ったほとんどが、王と王妃からのものだったのだ。
――とある老人の前に、仮面を付けた男が現れた。仮面の男は、死に行く老人にこう頼んだ。
『お前が死した後、お前の右目は無くなるだろう。お前はその事実を、お前が愛する者たちにきちんと伝えて欲しい』
老人はゆっくりと頷いた。
『私の左目はこの通り、元から潰れておりました。あのお方に右目を貰わなければ、私は色も、光すらも知らずに生きていったのでしょう。いいや、の垂れ死んでいたかもしれない。私はもう動けぬ身ゆえ、あのお方に感謝の言葉を伝えて頂けますでしょうか?』
『承知した』
『貴方のお陰で、家族を驚かせずにすみます。貴方にも感謝を』
仮面の男は無言で頷くと、音もなく消えた。
時々、こんな噂を聞くだろう。仮面の男と、どうにもキズの絶えない、しかしとても美しい女が居ると。
その二人に会えたなら、お前の心のキズは跡形もなく消え失せるであろう、と――
はは、馬鹿言っちゃいけないよ。あたしがそのキズ女なわけないじゃないさ。
自分で自分を美人と言えるほどあたしの面の皮は厚かないよ!
ただね、これを知る人は少ないが、仮面の男とキズ女の間には治癒の力に長けた娘がいるって話さ。
「いたいのいたいのとんでいけー」
さぁ、もう大丈夫だろう?
あ、こら、袖を握るんじゃないよ!ここはサッと去るからこそカッコいいところじゃないか!
なんだって?時代が合わない?そりゃそうさ!なんたって仮面の男は……おっと、こりゃ秘密だった!
今度こそ、これでおさらば!あんたも母ちゃん心配させないように、さっさと帰りな!
そう言うと、女がすぅと消えた。
「手品……じゃないや……」
――しっかりと袖を握っていた筈の手を呆然と見つめる少年だけがそこに残された――
おしまい