転ばぬように
転ばぬように
今日から妻が入院する。
足下に置いた手提げ袋には、歯ブラシや肌着を詰め込んである。穏やかな日差しに誘われたのか、妻は隣で眠っている。その頭が揺られるたびに髪先が首筋をくすぐる。時折すれ違う信号の影が僕らを撫でていく。
さくら公園前、さくら公園前、お降りの方はお近くのボタンを……
進行方向逆向きの加速度が働き、吊革が揺れる。視界の中に減速しながら人影がスライドしてくる。ドアに取り付けられた窓ガラス越しに見える大人たち。横に並んだ二人の肩は少し離れていた。
ぷしゅう、がちゃがちゃがったん
僕等の前にあるドアが畳まれる。女性が先に段差を上がり中に入ってきた。続いてドアの横にあるパイプを丸っこい手が握った。もう片方の手は女性に優しく握られている。
彼の右足がステップに乗せられる。次に左足。一段ずつ両足を揃えながら段差を上がってくる。男性がそれに続く。振り返った女性が僕の視線に気付き怪訝な顔をする。しかし、隣でうたた寝している妻を見ると忽ち微笑みに変わる。
僕と彼らは軽い挨拶を交わした。これで乗客は五人になった。女性はわざわざ最後尾の列を選んだらしい。僕らに気を使ってくれたのか。最後列は数段高い位置にある。また両足を揃えながらゆっくりと最後尾の座席を目指す。
がちゃがちゃがったん
ドアが滑る。しかし加速度が生じるまでしばらく間があった。彼らが座ってから、再び軽い揺れが始まる。
彼は立膝をつきながら反対向きに座って、背もたれに両手をつき、過ぎ去る風景を眺めている。聞きとりにくいアナウンスが次の目的地をつげる。ふと、彼がボタンに興味を持った。壁側に座っている男性の膝の上に身を乗り出してその先のボタンに小さな手を伸ばす。慌てて女性が止めに入る。彼はまだボタンが気になるようだ。しかし女性に手を握られて伸ばすことができずにいる。諦めたのか、遠ざかる景色に顔を向けた。女性は柔らかそうな手を解放してやり彼の横顔を見ている。その二人を男性が優しく見ていた。
妻の頭が軽く揺れて髪が首筋をなでる。そろそろ肩が疲れてきた。妻を起こして次で降りることを告げた。妻の頬に僕の肩の跡が赤く残っている。
アナウンスが到着間近を告げる。僕の指がボタンに伸びる。
ぎんごーん
どことなく錆び付いた音がしてボタンの文字が光る。しかし僕の指はまだ触れていない。もしやと思って目を向けると、案の定、彼の手のひらがボタンに触れていた。女性の手は少し間に合わなかったらしい。
女性が慌てて運転手に謝ろうと席を立つ。僕は笑いながら彼女を手で制す。次で降りる旨を告げると女性の視線が妻に向けられた。寝起きの妻に笑顔が降り注ぐ。母親としての先輩から激励を受けた妻の頬はますます赤くなった。
進行方向逆向きの加速度が働き吊革が揺れる。
ぷしゅう、がちゃがちゃがったん
僕らの目の前のドアが畳まれる。しかし乗り場には誰もいない。運転席から身を乗り出した運転手が帽子を掲げて会釈してくれた。二人分の料金を払ったあとその思いやりにありがとうと伝える。
最後列の男女に会釈して手提げ袋を手に取り、大きく開いた入口から僕は降りて、後に続く妻の手を取った。
妻が慎重に段差を降りてくる。転ばぬように一段ずつ両足を揃えて。
入口が閉まりバスはゆったりと加速していく。ご両親と一緒に彼が窓ガラス越しにバイバイしてくれた。病院の入口目指して、僕らはゆったりと歩き始めた。
今日から妻が入院する。