第1話「目覚めたら、ダンジョンマスター」
起:目覚めと困惑
天井が、ない。
いや、天井はある。だが、蛍光灯もシーリングも、白いパネルもない。
岩だ。湿った岩肌が、頭上に広がっていた。
「……え?」
目を開けた瞬間、佐々木誠は思考を停止した。
そこは会社でも、満員電車でも、ベッドの中でもなかった。
硬い石畳の床に仰向けになっている。空気は冷たく、薄暗く、どこか鉄と土のにおいがした。
「……なんだこれ。どこだ、ここ……?」
ゆっくりと身を起こし、あたりを見回す。
ろくに明かりもない薄闇のなか、中央でほんのり青く光る“何か”が浮かんでいた。
球体――いや、結晶だ。まるで心臓のように脈打つ光の塊が、宙に静かに浮いている。
思わず息をのむ。これは夢か。いや、夢にしては、空気がリアルすぎる。
胃のあたりがずんと重い。会社に提出する書類の締切をすっぽかした記憶がよみがえり、思わず頭を抱える。
「もしかして俺、死んだ……?」
と、その時だった。
背後から、ぱたん、と軽い足音。振り返ると、そこには――
少女が立っていた。
銀色の髪。金色の瞳。深緑のローブに包まれた、無表情で無機質な顔立ち。
年齢は十代前半、だが瞳の奥に宿る雰囲気はもっと冷たい。
彼女は軽く一礼すると、淡々と口を開いた。
「ご目覚めですね、ダンジョンマスター様」
「……はい?」
反射的に返事してしまった自分を、佐々木は殴りたいと思った。
だが、少女は容赦なく言葉を続ける。
「あなたは、この小規模ダンジョン《第零拠点》の新たなマスターに選ばれました」
「いやいや待ってくれ、今“ダンジョン”って言った? 俺、ただのサラリーマンなんだけど?」
「承知しています。前任は農夫でした」
「それもっとダメだろ!」
佐々木のツッコミが虚しく響く中、少女は一歩近づいてきて淡々と名乗った。
「私はリリエ。あなたにこのダンジョンの管理業務を案内する、専属補佐存在です」
「補佐存在……ってことは、お前AIか精霊的ななにかか? ていうか本当にここはどこなんだよ!?」
リリエは淡々と手を振り、小さな魔法陣を浮かび上がらせた。
空間にホログラムのような地図が表示される。だが、その地図のほとんどは“NO DATA”と赤く点滅している。
「ここは地下3階建て、魔力密度ランクE、施設ランクFの下層ダンジョンです。略称は“小規模ダンジョン”」
「……完全にハズレじゃねえか」
佐々木は、人生で二度目のため息をついた。
一度目は死ぬ直前、上司に「残業代はつけられないから」と言われたとき。
二度目は、異世界で“自分の居場所”が地下3階のボロ遺跡と知った今だった。
承:状況説明 ― 異世界と転生条件
「……ダンジョンマスターって、何をする役職なんだ?」
佐々木は、状況に頭が追いつかぬままリリエに尋ねた。
その声には、期待でも興奮でもなく、ただ深い疲労と疑念が混ざっていた。どこかで「またブラック部署に放り込まれたのでは」と思っている。
リリエは即答する。
「このダンジョンの運営・防衛・成長を担う責任者です。すなわち、あなたはここで“生き延びる義務”を課されたことになります」
「……何それ。なんでそんな義務つき合意もしてないのに?」
「魔力契約です。選定の際、魂に“転生許可の同意”が確認されましたので問題ありません」
「寝てる間に許可なんて取られてたまるか! 俺の同意どこ行ったよ!」
佐々木が抗議すると、リリエは「では、確認しましょう」と言って、胸元から取り出した石版を提示する。
そこには細かな古代文字――とおぼしき契約文がびっしりと刻まれていた。
「第23条、魂の宿主が生前に“もう働きたくない”という旨を明確に表明した場合、本契約の発動要件を満たすと見なします」
「それただの愚痴だろ! 上司に言っただけだよ!?」
「魂的には非常に強い意志の表明でした」
リリエの口調は冷静で、無駄がない。
その態度がなおさら腹立たしい。だが、相手が少女の姿をしているせいで怒りのやり場もない。
佐々木は頭を抱え、苛立ち混じりに尋ねた。
「じゃあ……俺はここで、どうすればいいんだ? いまどき戦争とか起きてんの?」
「はい。現在この世界は“ダンジョン統合時代”に入っております」
リリエは魔法陣を操作し、宙にもうひとつの図を浮かび上がらせた。
それはこの世界に存在するダンジョンの分布図――しかし、いずれも色が濃く、網のように互いを取り囲んでいる。
「現在、各ダンジョンは独立した領域を持ち、互いを侵攻・吸収・統合することを目的とした“勢力競争”を行っています。
統合対象となったダンジョンはコアを吸収され、全階層・資源・住人が上位ダンジョンに組み込まれます」
「つまり、俺のダンジョンもそのうち攻められて……飲み込まれるってことか?」
「ええ、ほぼ確実に。地下3階規模のダンジョンは、存在自体が“未処理データ”とみなされますので」
「未処理……いや、ゴミ扱いかよ……!」
佐々木の絶望的な声がダンジョンの壁に反響する。
だが、リリエはなおも淡々と続けた。
「侵攻は早ければ一週間以内、遅くともひと月のうちには発生すると推測されます。
攻め込まれ、撃退に失敗すれば、その時点でダンジョンコアは破壊もしくは吸収され、あなたの存在は終了します」
「終了って、なんだよ。俺の人生、二度目にして“試用期間なし”かよ……!」
苦笑を浮かべながら、佐々木は膝に手をついた。
体は妙に軽く、息も通る。だが、現実感は薄い。全てがゲームの中の出来事みたいだ。だが、痛みも温度もある。
「……死んで、知らん場所に放り込まれて、契約結ばれて、戦争して、生き延びろ……って、正気かよ」
リリエは首をかしげた。
「正気かどうかは個人の主観です」
「そこは“がんばってくださいね”くらい言えよ……」
転:現実味と絶望
リリエの説明を聞き終えた佐々木は、ようやく重い腰を上げた。
「……とりあえず、見て回らせてもらってもいいか?」
「はい。マスターにはダンジョン内の移動権限が付与されています。ですが、あまり広くはありませんので」
リリエが手を振ると、部屋の奥に沈んでいた石扉が音を立てて開いた。
その先には、まっすぐ下へ伸びる階段。そして、ただの岩の通路。
「……マジで地味だな……」
溜息まじりに歩を進めながら、佐々木は周囲を観察する。
通路の壁には魔力配管のようなものが這っていたが、あちこちで断線し、魔力がポタポタと漏れ出していた。
床には亀裂。天井は低く、湿気とカビの臭いが漂う。
「ダンジョンって、もっとこう……不気味で幻想的なもんかと思ってたけど。これはただの……廃墟じゃねえか」
「“現役で死にかけているダンジョン”と表現されることもあります」
リリエの返答に、ツッコむ元気すら出ない。
そのまま地下3階をぐるりと見て回ったが、見事なまでにスカスカだった。
拠点になっている管理室は、机ひとつ。壊れた魔導コンソールがぽつんと置かれ、何かのスライムがその上で寝ていた。
兵力らしき獣人型の小型モンスターは1体だけ。訓練不足で、武器も持たず震えている。
「この戦力で、どうやってダンジョン防衛しろって言うんだよ……」
思わず頭を抱える。
この空間のすべてが、どうしようもなく“終わっている”。
そう、これは――
異世界転生なんかじゃなかった。
戦場の最前線に、いきなり配置された無資格の新人だった。
「おいリリエ、ぶっちゃけ、ここってあとどのくらい持つ?」
「通常であれば……三日、でしょうか」
「はやっ!」
「運がよければ一週間。運が悪ければ……今夜ですね」
「もうやめようぜこれ……」
佐々木はその場にしゃがみこんだ。
膝が震えていた。かつて残業200時間を叩き出した月ですら、ここまで追い詰められたことはなかった。
だが、それも当然だ。
この場所では、働かないと死ぬ。
だが、働いたところで――死ぬのだ。
「……なあリリエ。俺さ、帰れないの?」
「ダンジョンコアとの魂契約がなされているため、離脱は不可能です」
「いや、そこをなんとか」
「離脱を試みた場合、あなたの魂はコアの自律防衛機能により、速やかに破砕されます」
「おいそれ拷問かよ。契約って言ったよな? 俺の同意どこいったんだよ!?」
「……ちなみに、前任マスターの死亡理由は“逃亡による魂崩壊”です」
「先に言えやあああああ!」
叫んでも、声は冷たい石壁に吸い込まれていくだけだった。